初稿:2008年1月6日 更新:2018年6月18日(動画更新)
目次 | Table of Contents
ムシャラフ大統領(当時)と各地へのインタビューをまとめたドキュメンタリー
Youtube | Why Democracy – Dinner with the President
英語・(ウルドゥ語:英語字幕)
Dinner with the President は、2007年8月に制作されたドキュメンタリーです。
ムシャラフ大統領(当時)家族のディナーの席で元大統領や家族にインタビューをし、更にパキスタン各地でインタビューしたものと合わせて1本の作品にまとめられました。
ムシャラフ元大統領政治歴
1999年10月12日:無血クーデターにより、行政長官(事実上の国家元首)に就任。
2001年06月20日:大統領に就任
2007年10月: 大統領選に際し、資格に疑義があるとした最高裁長官を自宅軟禁。全土に非常事態宣言。のち大統領に当選。
2007年12月27日:ベナジール・ブット元首相(人民党)暗殺
2008年02月18日:総選挙で与党敗北
2008年03月24日:大統領に反対する人民党から首相選出
2008年08月18日:大統領辞任、国外に事実上の亡命
本作品は、ムシャラフ批判が日増しに強くなり、政情が混乱の様相を呈していた頃に取材されたもので、大統領辞任後に52分→80分の作品に再編集されました。
Youtubeでアップされているのは2007年の最初の方のバージョンです。
Wikipedia(JP) | パルヴェーズ・ムシャラフ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%83%95
視聴した感想(2008年1月6日)
番組を視おわって、感想を備忘録的に。
女性進出の地域差
冒頭でラホールでの女性たちのデモが映し出された。
「ムラード(イスラーム聖職者)と軍がこの国の民主化を阻害しているのよ!」
とラホールの女性たちの鼻息は荒い。
協力隊活動でパキスタンに住むと、日本とは全く異なる閉鎖感・圧迫感を日常生活で常にどこかに感じる。それは”圧政”などの類ではなく、早朝から大音響のスピーカから流れるアーザーン(祈りの呼びかけ)やラマダーン(断食)・ハッジ(巡礼)などなどありとあらゆる社会生活の中でイスラームという戒律や社会規範が鋼鉄製の背骨のように通っているところからか。
他人に無関心な風潮に慣れていた日本とは違い、いたるところで好奇の目を向けるパキスタンの人たちの姿に圧迫感を感じることもある。しかしながら、それは地域によってずいぶんと温度差がある。
先の女性たちのデモが紹介されたラホールは、そのパキスタンの中では開放感に一番浸れる街だろう。
かの女性たちはドゥパッター(頭にかける布)を被っていなかったが、同じ事をアフガンと接する北西辺境州(ペシャーワルなど)・部族地域でやればすぐさま石が飛んでくるだろう。
この作品を製作したパキスタン人の女性監督が、その北西辺境州・部族地域に赴き、ジルガ(男性のみで構成される部族長会議)の人々と論議に挑む。
「私は頭にドゥパッターを被っていません、先日ムシャラフ大統領とも会見しましたが、その母親や家族の女性たちも布を被っていません。その私たちはイスラーム教徒ではないと?」
居並ぶ男性たちにこう話しかけるこの女性監督にジルガの長らしき人は、
「それは・・・現代の(nayaa=新しいという単語を使っていた)イスラーム信徒だからだ」
と話し、きっとどこかで怒りがこみ上げてきたのだろう、話を途中で打ち切って集まりを解散させてしまう。
「これは昔からのならわしで続けられてきていることだけど、もうこんなやり方(ジルガ)はいやだと思っている人はたくさんいるんだ!」
こう話すジルガの構成員の男性たちが次々とカメラの前で話すことにもビックリした。
ラホールならともかく、北西辺境州ですよ、ここ。
ムシャラフの冷静な現状分析と現在の政治手法のジレンマというか矛盾
この番組のなかで監督とムシャラフ大統領の食事を摂りながらのロングインタビューが随所に織り込まれている。
きっと1時間半~2時間はその機会があったのだろうと思うが、ムシャラフが話すシーンはさほど多くない。
ムシャラフの母親が
「この子は小さいときから腕白なガキ大将で勉強はさほどできないからどうなることかと思った」
など、その人となりに触れるシーンが短く出てくるがこの番組ではそれのみだ。そうしたプライベートの生活の様子などは、PTV(パキスタン国営テレビ)放送のムシャラフ一家とのインタビューが参考になります。
Youtube | President Pervez Musharraf Family interview
2005年:ウルドゥ・英語:字幕なし:28分
「この国は植民地以来の地主・官僚たちが人々を虐げるシステムが今もなお残っているのだ」
「1979年のソ連のアフガン侵攻に対抗するためにムジャーヒディーン(イスラーム義勇兵)養成のときからいままで26年間(この作品は2005年に撮影された)この国はずっと戦争の影響下にあるのだ」
「急激な社会変革は危険だ。段階を追って社会を変革しなければならない」
「この国の多くの人は読み書きができない。だからこそ教育の機会を与えることが民主主義をこの国に育てていく上で大切なのだ」
実に冷静に現状分析されたコメントを話していくムシャラフ大統領。
軍部という絶対のバックアップ組織があって、特定の党派や勢力に拠らないところからこうした発言が可能だということか。
しかし、軍人出身の彼がこうまで優等生発言ができるのは、純粋に彼のもつ資質なのか、それともかの国とのつながりからなのか・・・。
昨年(2007年)のチョードリー最高裁長官の罷免騒ぎ以降、彼の政治手法はある意味パキスタンの伝統的な強権軍事独裁的な香りがしていて、2005年当時から彼の中で何か変化があったのかも知れないが、やはり彼に代わる人材が見あたらないと感じるいま、暗殺されることのないよう願うしかない。
浜で遊ぶ若者たちと農民のシーンが描き出すもの
この作品の名前は「大統領との晩餐」だが、時間の大半はパキスタン各地での人々とのインタビューに割かれている。
その中に浜でディスコ音楽をかけながら遊びに興じる若者たちのシーンがある。
イスラマバード・カラチ・ラホールなどの都会に住むと一日3食の食事にありつけない人、物乞いやゴミ拾いをして生活する身なりの貧しい人たちのそばを大音量の音楽をかけ高級車に乗って走り回る裕福な人々がいる。またそうした人目あての高級ショップが軒を連ねるエリアもある。
洒落た服を着、バーガーやポテトを食べながら車で走り回る彼らにイスラームのにおいは感じられない。いっぽう、3度の食事に困るような人々に手をさしのべるのは、慢性的な財政難・低い服務意識の国や行政ではなく街のあちらこちらにあるイスラーム寺院である。
月200ルピー(400円)の学費を払えず学校に行くことができない子どもにコーラン中心だが教育を授けているのもマドラッサとよばれるイスラーム神学校である。
こうした子どもたちはもともとターリバーン(学生)と呼ばれていたのだ。
一方でイスラームの束縛を嫌う若者、一方にはイスラームでの厳格な生き方を目指す若者・・・同じ街にこうしたカラーの異なる生き方をする人々がいてその温度差は景気のよかった2005年当時拡がっていると感じていた。
そして、地主から土地を借りて最低限の住まい(掘っ立て小屋よりひどいんじゃないか)と食べ物を与えられて暮らす農民たち。
大都市に流れ込む人々は増えてきているが、それでもこの国の大部分の人はこうした人も含めた農民たちだ。
昔からの習わしにしたがい生きていく人たち。
この人たちにとって民主主義とか大統領が誰とかは関係のない話。それをこの作品はうまく描き出している。
そして・・・・
先日非業の死を遂げたブットー女史。
彼女はシンド州のパキスタン随一の大地主の家の育ち。今も大地主のままだ。
そのおひざもとに暮らす小作人たちを映すこのシーンは、いまの情勢を予想していたわけではないだろうが、ブットー女史の出自を考えたとき、興味深い。