初稿:2003年3月27日 更新:2018年5月28日(文章手直し、再構成)
目次 | Table of Contents
「地球のステージ」公演(2003年6月21日)
地球のステージ
http://e-stageone.org/
Youtube : 地球のステージ1-3 : 桑山さんご本人が解説。
今日、このプログラムを見ることができて、
大切な経験のひとつになった。
15時~17時まで行われたプログラム。
体験入隊の中学生、市内・市外の市民の方も多数来所され、立ち見が出るほどだった。
公演して下さったのは、桑山紀彦さん。
医業の傍ら、NGO等で世界各地に赴き、援助活動を行っている。
公演は、大型スクリーンで世界各地の映像・写真を映しながら、
ある時はトーク・ある時はギター&バイオリンなどで演奏&歌唱・・というスタイル。
話の舞台は、
はじめての海外旅行先であったインド
NGO活動に足を踏み入れることになったフィリピン
ケニア(キリマンジャロ)、ペルー(チチカカ湖・アコンカグア)、
アラスカ(マッキンリー)、スペイン、ソマリア、東ティモール、
ユーゴスラヴィア、パレスチナ、と多岐に渡った。
こころに残った場面、言葉
・東ティモールでのアメリカ人医師の言葉
「人生には、自分でとめられないものが3つある。
ひとつめは、「生まれること」
ふたつめは、「老いること」
みっつめは、「人を好きになること」
理由もわからないが、人を好きになることは、とめられやせん。
わしは、ボランティアだから東ティモールにいるってんじゃない。
東ティモールの人々が好きだからいるんじゃ。
それ以外になにが必要かね?」・ソマリアにて。
治療を受けに来た子どもの母親が目立つ派手な服を着ていた。
なぜ着ているのか桑山さんが尋ねると、
「子どもたちが、家に帰ってきたとき、暗い色の格好をしていたら、こころまで暗くなるでしょ。私は一家の太陽なのだから、こうして明るい服を着て、みんなを元気づけているのよ」・ユーゴスラヴィアのサッカー場だったところにつくられたお墓・・等身大の大きさで土葬されるので子どもの背丈のお墓が多いことに桑山さんが、足がすくんでしまったこと。
・パレスチナで、救援のために向かったパレスチナ人医師の最期。
ジェニンでの虐殺を世界が全く報道しないこと
パレスチナ人のことば
「ただ、真実のみ見に来てほしいだけです」
話を聞いていて、涙がつぎつぎ流れ、止まらなかった。
なぜ、涙がでるんだろう。
理由のひとつは、あまりにも悲惨でかわいそうだと感じたからだ。
もうひとつは、自分が5年来探していた答えに出会えた気がするから。
私が協力隊を志したのは、教師を年度途中で辞めるなど、中途半端に生きようとしている自分を何とかしたいと思ったからだ。
派遣、2年間の活動を終えれば帰国し、日本のどこかで暮らしていく。
そんなシナリオを描きつつ、何か足りないと感じてもいた。
なんのためっていうか、どういう生き方をしたいのかというところで、何かひと味足りないな、と。
このコンサートで、自分なりのひと味が分かった気がする。
それは「ありのままの”ひと”を、じっと見続けること」。
涙が止まらなかったシーンのひとつに、日本でおじいちゃん・おばあちゃんが道を歩いているシーンがあった。
ごく普通の、自然なシーンだったが、それを、とてもいとおしく感じられた。
自分の殻から出て、他人にこころを寄せていくとき、見える光景が一変した。
何気ない日常が、こんなに新鮮に見えるものか、と。
今の日本は、信じられないような事件が続発している。
その原因の根っこは、人々が、他人を見ているようで見ていないことにある、心を寄せていないことにあるのではないか。そう感じる。
人生のプランとして、北海道に帰り、結婚し、農業やペンションをやり、という希望。
それにひと味を足して、
他人の風評や意見ではない、自分のこころの眼で世界をうつしとり・こころを寄せていくことを大切にして生きていきたい。そう思えた。
桑山さん、スタッフのみなさん、
人生にとって大切なものを教えていただきました。ありがとうございました。
語学交流会(2003年6月8日)
語学交流会のあった今週は、密度の濃い週だった。
今回の交流会には、パキスタンからJICA研修に来られている2人の方が来られた。
ひとりは、サフェールさん。情報処理研修が目的で来日。
背が高い。180センチくらい。まだ30代だろう。澄んだ目をしていた。
もうひとりはアンジュムさん。看護研修。
やさしく、あたたかい雰囲気を持った方だった。
交流会の最初は、語学クラスでの交流。13時~15時。
おりがみ、けん玉など日本の遊びを紹介する準備はしていたが、
お二人にウルドゥ語を教わる時間になった(笑)。
15時から「森のステージ」で全体交流会。
各有志グループのアトラクションや歓迎スピーチ。
図々しくも、私は3回出番があった。
訓練中、何か小ネタを、と、オカリナを始めるブームがあった。
それに乗っかった人たちで、即席グループを結成。
トトロの「さんぽ」で入退場。
「いつも何度でも」という曲を全員で演奏。
上手ではなかったかも知れないが、民族衣装で入退場&演奏は受けた。
徳島出身の方が3人いたことがきっかけで、これも即席グループを結成。
男おどりだけ、女おどりだけのスペシャルステージも織り込む。
最後はステージで乱舞し、「15年1次隊、ヤーッ!!」でフィニッシュ。
踊りって素晴らしい。
無心になって踊ると、心が弾むだけでなく、余計なものがとれていって、澄んでいくような感覚。
何よりゲストの方、仲間のみんなが楽しんでくれたのがうれしい。
みっつめは、スピーチ。
各言語ごとに1分間で、お礼の言葉を言うことになった。
わたしはウルドゥ語で。終わりから1つ前の出番。
場内のみなさんに
「ジョニーってよんで!!」とお願いする。と、場内中の方が、
「ジョニーっっっっっっっっっっっっ!!!」
と返してくれた。あー気持ち良かった(笑)。
サフェールさん、アンジュムさんのお名前を呼びつつ、
「パーキスターン、ジンダバード!!(パキスタン万歳!!)」って、言った時も、気持ちよかった。
「いや~、ジョニー。アトラクションごとに”あっ、またジョニー出てる(笑)ってみんなでいってたんよ」
と感想ももらったり。
なにより、参加されたみなさんに楽しんでもらえたことが、とてもうれしい。
オカリナ主宰の、うりちゃん。
沖縄の歌の紹介・演奏をした、はーみ&るみねぇ&ゆきのさん。
阿波踊りの主宰をした、さなえちゃん&ゆり&みっちゃん、照明でお手伝いしてくれた、てっちゃん&りょうくん&しげさん。
ビデオの撮影をしてくださった、いけやん。
出演されたすべての仲間と、一緒に楽しんで下さったゲストの方々&仲間&語学の先生方&職員の方。
本当に、本当に、ありがとうございます。
翌日は、光前寺へみんなでピクニック。これも楽しかったなぁ。
この交流会から、実質2週間ほど経つと、語学などの主要なプログラムは終了する。
みんなと別れ、任地へ向かうということ。
別れのことは、考えたくない・・・・そんな日々になってきた。
所外活動(2003年5月29日)
所外活動は、訓練所の説明では
“駒ヶ根市内の各種社会福祉施設や、農家への協力活動を通し、地域社会との交流を深めつつ、不慣れな社会での振る舞いと行動を考える機会とする”
要約すると、”駒ヶ根の人たちと仲良くなりましょう”ってことかな。
訓練開始後に希望調査がとられた。
私は、北海道の牧場で働いた経験がある。ので、「牧場のあるところに行きたい」希望を出した。
それが考慮されたか、活動先はY本さんという、稲作と肉牛肥育のお宅だった。
1回目:5月8日(木)
大雨。
田植えの準備の予定だったが、雨で中止。
終日、牛舎内の仕事(掃除・ワラ切り)。
切ったワラをベッドに見立てて、ハイジの気分になったり。
昼食は、
焼き肉(豚)、サラダ、スパゲティ、レンコンの煮物、手作りピザ、とビールまで出してもらえたのは、訓練所には秘密(笑)。
2回目:5月16日(金)
田植え。
苗代で育てていた苗を田植機にセットする。チョー肉体労働。
朝から17時過ぎまで、びっしり。
疲労がすぐ来たことに、自分はまだ若いんだ(笑)と強がるも。週末日曜日までぐったり。
3回目:きょう
田植えで使った育苗箱をひたすら洗う。
育苗箱洗い機ってのがある。
水を流すとブラシが回転し、どろを落とす仕組み。
それに育苗箱を通し、落としきれなかったどろはたわしなどでこする。
洗ったらパレットに載せる。それを朝から17時過ぎまで。
めっちゃ大変。きつかった。
でも、このY本さん宅に来た人たちはまた、ここに遊びに来たくなるんじゃないかな。
なぜか。
それは、Y本さんご夫妻の人柄と、これでもか!っていうもてなしに感動しちゃうから。
もてなし。
こちらでは、「村沢牛(むらさわぎゅう)」という銘柄の黒毛和牛を肥育している。
100グラム2000円以上はするという。
そのお肉を、出荷先の京都の精肉店から送ってもらって、炭火で焼いて食べさせてもらう。おなかいっぱい。
そして、またビール。
働いたけれど、お腹いっぱいいただいて、訓練所の夕食は食べられなかったほど。
今日、育苗箱を洗いながら、みんなで話していた。
私たち同期のメンバーが必要になってくるのは、実は、任国から帰国してからではないか、と。
2年間の活動よりも、はるかに長い人生を、一緒に歩いていく仲間が多ければ多いほど、人生の質と量は、すばらしいものになるのではと思う。
その意味で、訓練所でしっかり友情を結んでいきたいと、心に刻んだ1日でした。