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読みづらいレイアウトになっているかと思いますが、ご了承ください。
manamiさんおつかれさまでした。
2004年2月20日(金) はれ
夕方の4時から、manamiさん(12-3・コンピュータ技術)の帰国前の報告会がJICA事務所で行われました。
manamiさんが活動された時期は、パキスタンJOCVの歴史のなかでも激動の時代でした。
2001年4月 パキスタンに赴任される。
2001年9月 NY同時テロの影響で日本に一時退避。
2002年1月 パキスタンに再赴任。
2002年6月 印パ緊張により、日本に一時退避。
2002年7月 パキスタンに再々赴任。
2003年4月 任期を終えられ帰国。
2003年8月 一般短期隊員として再々再赴任される。
2004年2月 任期を終えられ帰国される。
パキスタン派遣隊員の特徴は、試験に合格した後の辞退率がすごく高いらしいのですが、いったん派遣されると任期を延長されたり、一般派遣隊員としてまたパキスタンに戻ってこられるというリピート率も高いということです。
※詳しくはぜひmanamiさんのHPをごらんください。→ ”Manami’s Life”
manamiさんが私たちに残していってくださる財産のひとつにこのようなものがあります。
←A4判100ページ超のボリューム!
イスラマバード&ラーワルピンディのレストランマップなんですが、パ・和・洋・中・・もうデザート屋さんまでいろんなところが
網羅されているすごいすごい内容です。
本来の活動でも、すごいボリュームのテキストを作成されるなど活躍される中、「地球の歩き方」も真っ青(笑)の素
敵な”逸品”をつくりあげられました。
イスラマバードにお越しの際はJICA関係者にこのガイドブックをお尋ねになってください。
きっとあなたのお役にたつことまちがいナシです。
manamiさん、協力隊での活動、おつかれさまでした。m(_ _)m(ペコリ)
自分の務め
2004年2月19日(木) はれ (なにも食べず)(チャーワル&サモサ)(ラーメンなど)
昨日の落雷のせいでしょうか。電話がずっと使えないままでした。
でも不思議なことに夕方からは元通り復旧。これでメールがまた使えるようになりました。
今朝は内緒でおとなりのアルガザリーという肢体不自由校でオカリナを吹いていました。 私の活動先のセンターは広い敷地にいくつかの施設・学校が併設されていて
1つのコンプレックス(合同校舎)をつくっています。
●NTCSP(国立障害者職業訓練センター)・・私の活動先
●アルファラビー(イスラマバード在住の生徒を対象にした肢体不自由校)
●アルガザリー(ラーワルピンディ在住の生徒を対象にした肢体不自由校)
の3つが1つの大きな校舎の中に収まっています。
毎日のように各施設の先生やスタッフの方とはおしゃべりしているのでみんな顔見知りです。
昨年8月に活動を開始した頃は、朝の朝礼の時間がまちまちだったのでアルガザリー→NTCSPという風に オカリナ吹きのハシゴ(笑)をしたものでした。
ここしばらくアルガザリーにお邪魔していないものですから「なんでうちの学校に来てくれないの!」と言われていました。
こちらでは学校やクラスの縄張り意識が強くいまのところNTCSP所属の私が他の施設の応援に行くことは公には認められていません。ですんで、「こっそり」とおじゃましたりしています。
最近抱えている問題意識にこの「縄張り意識」があります。
JOCV(協力隊)もそうですし、いろいろな備品なども自分の学校・クラスから他のクラスに貸したり共有するという感覚はこちらの学校にはありません。
自分の大切にしているものは貸さない、というかむやみに見せないのがこちらのスタンダードです。
他の学校との子どもに関する情報や活動のノウハウの共有が一貫した障害児教育を目指す上では必要だと思う のですがそれは夢のまた夢。
私が残りの任期をいまのスタイルで全うすることもいいと思うのですが、
今後のパキスタンの障害児教育の発展を思うとき、1つのセンター・1つのクラスの利益に終わるような活動を貫く のは実にもったいないことだと感じています。
少なくとも同じコンプレックスのなかにあるアルファラビー・アルガザリーに対しても助言・援助のできるポジションで活動するべきだと感じています。
さらに思うことは、今後来パする養護隊員が効果的に活動できるようにきっちり現状を調査し、人脈をつくっておくこと
が私の務めではないかということです。
JICAから与えられた環境だけでは満足できなくなった自分がいまここにいます。
アフガンベーカリー
2004年2月18日(水)はれ(何も食べず)(サーグ+チャーワル)(アフガンベーカリーのパン)
天気を「はれ」と書きましたが、実は朝方3時頃ものすごい雷雨でして。
うちのすぐ近くに雷が落ち、それはそれはびっくりしました。でも家を出る頃には晴れ上がり過ごしやすい1日でした。
午前中はNISE(こちらをご参照ください)に地方から研修に来ている先生たちが たぁっくさんうちのセンターを視察に来ました。
その方々にこの前の日曜日にK藤さん(14-3・木工)に教えてもらった折り紙の箱の作り方を教えていると、
「じゃ、明日もっと詳しく教えてね」ということになりました。
※この国は「インシャッラー(神が嘉し給えば)」という国なので本当に教えるかどうかはあやしいところですが、
今日は教材の準備をすることにします。
さて、イスラマバードはアフガニスタンからやってきた人がたくさん住んでいます。
色白で顔立ちは日本人に似ているかなぁと思います。
アフガニスタン料理を売り物にするレストランも何軒かありますが、香辛料てんこもりのパキスタン料理とはちがい
日本人向きのノーマルな味の料理が多いので、日本人はじめ外国人もよく食べに来ていますね。
私の家の近くのジンナーマーケット内には「地球の歩き方」にも載っている「カブールレストラン」というレストランと
「アフガンベーカリー」というパン屋さんがあります。
このパン屋さんにちょくちょく通っているうちに、お店の人と仲良くなりました。
←右がナシームさん(27歳)、左の男の子はまだ名前を聞いてません。
ナシームさんに「どうして日本語を知っているの?」と聞いたら、ペシャーワル会の人と知り合いで教えてもらったんだ
とのこと。
ナシームさんは4年前にアフガニスタンからここイスラマバードにやってきたそうです。
朝から晩まで一生懸命働いて、もしかしたら2年後アフガニスタンに帰れるかも知れない、と考えているそうです。
私が「アフガニスタンのメジャーな音楽を聴きたい!」と言ったら気軽にCDを貸してくれました。
アフマッド・ザヒードさんという有名な歌手のCDだそうで、早速家に持って帰ってパソコンにコピーして聴いています。
ノリはアジアと西洋のリミックスという感じで不思議な雰囲気の曲が多かったですね。
「他にもたっくさんあるから貸して欲しいときはいつでも言ってね」とナシームさん。
いつか、アフガニスタンに行ってみたいと強く強く願っています。
さて、今日も仕事帰りにお店に寄っておしゃべりしつつパンを買ったのですが・・・・
←クロワッサン(右奥)・デニッシュ(右前)・バナナケーキ(左)
クロワッサン(12ルピー=25円)、デニッシュ(16ルピー=32円)の他におまけでバナナケーキ (25ルピーくらい=50円)をくれました。
アフガンベーカリーのパンは上品とか洗練されたって感じではないのですが美味しいんですよ。
イスラマバードにお越しの際は、ぜひお立ち寄り下さいねぃ。
PS 家に帰ってパソコンを立ち上げたら、モニタが復活してました(笑)。
・・・と思ったら、また見れなくなってしまいました。おまけに電話も今朝の落雷のせいでつかえないまま・・・・・
障害者の就労・・
2004年2月17日(火) ややくもり (何も食べず)(サーラン&ローティー)(チキンバルガル)
ラホールの旅行から帰ってきてからでしょうか、忙しいこともあってカリカリした気分をずっとためていました。
今日は12人中10人の生徒が登校して1日中大忙しでした。
さて、以前にも紹介したアリ君がひさしぶりに登校してきました。
イード前以来ですからざっと2週間ぶりになるでしょうか。元気そうでなによりです。
ただ、センターに来ても指示した課題はまったくしないし、ひんぱんにトイレに行くし、 おしゃべりをするかおおあくびをするかだけなのでどうすればよいか困っていました。
今の日本の養護学校では、肢体不自由校ならほぼマンツーマン、知的障害児校でも3~4人に一人の割合で 先生がついていますよね。
しかし、パキスタンはそうはいきません。 昨日も紹介したアルファラビー(肢体不自由校)では 小学校低学年のクラスでも12~3人に1人の先生しかいません。
私のクラスは12人で私+シーミー先生+シャミーンさんの3人の大人がいますが、これは特別なほうでしょう。
1人の子どもにかけてあげられる手間ヒマは日本とくらべればほんとに少ないものです。 実質、「手のかからない子ども」しか学校に来ることができません。
私の活動先は「国立障害者職業訓練センター」。
下級の(←適切な表現ではないかも知れませんがお許しを)学校から進学する上級校(←これも適切でないかもしれませんがお許しを)の位置づけであります。
しかし知的障害を伴った生徒の多くは、幼い頃からのしつけや基礎教育が十分になされていないため、暴れたりといった
危険行為はしないものの、何にもできずぼーっとしている子が非常に多いです。
分別がある程度ある子どもでも、靴のひもや服のボタンも自分で結べないってゆう子が多いことにびっくりしました。
日本の例をまた出してしまいますが、養護学校を卒業した後には通所や入所サービス・作業所などの福祉就労など整備されていますよね。
パキスタンでは公務員に一定の障害者枠があり、 いまのセンターにももと生徒だったという方が2人ほどアシスタントとして勤めています。
しかしそれはほんとに特例中の特例。
パキスタンの一部NGOなどは、障害者の自助努力による自立経営を進めているところもあるようですが、
圧倒的大多数の障害のあるひとのためにはなんの就労の場も保障されていません。
「職業訓練センター」と名がついていますが、一般就労にはまったくほど遠いレベルですし、かといって福祉的な就労も保障されていない現状では十分にその機能を果たしているとはいえないと感じています。
アリ君があまりにやる気がないことについ腹をたてて思いっきり怒ったのですが、帰り道そのことを振り返りつつ、彼がその障害を乗り越えて社会に出て行くために、1ボランティアとして何ができるか考えていたのでした。
私は「養護」という職種でパキスタンにやってきました。活動を開始して半年、どちらかというと日本の養護学校の先生
的な感覚で仕事をしてきました。
しかし、いまやたくさんの友だちというか人脈ができ、1つのクラス・1つの学校だけの視野で残り1年半弱の活動を続けていくだけでは十分な効果があがらないような、そういう思いが強くなっています。
少なくとも、同じ敷地にある他の障害児学校との連携や、卒業後の支援に貢献できるような活動を 今後やっていかなくてはならない・・・そう強く思うこのごろです。
パクさん
2004年2月16日(月) はれ (パンなど)(サモサなど)(チャッパルカバーブなど)
昨日は日曜出勤だったので休みを期待していたのですが、今日は普通通りに学校がありました。
いつもの半分以下の生徒しか登校していませんでしたが、うちのクラスに限っては12人中8人が登校しにぎやかな1
日でした。
今日はバリーマダム(校長)が休みということで目が光ってない分(笑)、先生方ものんびりして過ごしていました。
さて、11時のブレイク(休憩)になると、自分のクラスでシャミーンさんとサモサを食べたり紅茶を飲んだりしています。
そのあとに、お隣のアルファラビー(肢体不自由校)に行ってアユーブ先生やパクさん(KOICA=韓国のボランティ
ア)とおしゃべりをすることもよくあります。で、今日はパクさんの仕事場のコンピュータルームで英語&ウルドゥのちゃんぽんでおしゃべりをしていました。
>パクさんは何歳 ・・28歳です
>どうしてKOICA(ボランティア)の仕事をしようと思ったの?
・・ボランティアで海外の貧しい人を助けたいということと、海外に行きたいという希望があったからです。
↑
ここは、私たちJOCV(協力隊)と同じ理由なんだなぁ・・・と聞いていました。
>パキスタンに来る前にどんな訓練を受けるの?
・・2ヶ月間、韓国国内の訓練センターでウルドゥ語と現地文化について勉強します。専門分野の研修はありません。
・・訓練期間が短いので、現地に来てから語学のことで悩みますね。
↑
ここも、私たちとおなじような悩みを抱えているんですね。
>長い休みはどうやって過ごすの?いったん韓国に帰れるの?
・・ううん、韓国には2年の任期が終わるまで帰ることはできないんだ。だからフンザやギルギット、スカルドゥなどの北部やアフガニスタンに行きたいなぁと思ってます。
↑
アフガニスタン!私も行きたいけど今の状況じゃむりだよなぁ。
コンピュータルームのパクさんの机には、KOICAの方本部から渡されたという卓上用太極旗(国旗)が飾られてまし た。
パクさんはおととしの12月にこちらに来られ、今年の12月に韓国に帰るそうです。
とても上手なウルドゥ語を話し、アルファラビーの子どもたちとおしゃべりをする姿を見て微笑ましく思ったのでした。
ファンクション
2004年2月15日(日) はれ (何も食べず)(出店の食べ物をたぁっくさん(笑))(ラーメン)
昨日はかなりプリプリ怒りモードで仕事をしていましたが、どうやら準備も一段落しちょっと心にも余裕が出来た状態 で、朝、学校に向かいました。
生徒もいつもの半分程度でしたが登校し、スクールバスでジナーパークに向かいました。
←出店もたくさんあって、にぎやかでした。
←太鼓たたきやあやしい(笑)マジシャンもいました。
もう、てんてこまいの準備でしたが、そのおかげでうちのセンターが一番たくさんの出店を出していました。
編み物やら仕立て上げた子供服やら竹細工やらサモサやチャートなどの軽食などなど。
K藤さん(14-3:木工)は、クラスで作ったパズルやアルファベットのピースを売っていました。こちらの人はとっても興味があるようで、客足は途絶えませんでした。
私はといいますと、はじめから物を売ることは考えていませんでしたので、K藤さんの横で鶴の折り方を通りがかった人に教えていました。
日本で同じことをしていたらきっと誰も注目しないと思うのですが、ここはパキスタン、かなりの人が立ち止まってどんな風に出来上がっていくのか興味津々で見ていってくれました。
私と一緒に折ってみるひともたくさんいて、こち
らもこちらで繁盛していました。ときどき強引に(笑)休みをとって出店の中をあちこち歩いたり、生徒や出店の写真を撮ったりしていました。
開始時間の10時にはそういなかった人出も、午後を回る頃には軽く1000人を超える人出でにぎわっていたように思います。
生徒は自由行動で、おこずかいで食べ物を買ったりあちこちを散歩したりしていました。
JICAの現地スタッフの方や同期のみんなも見に来て下さっていました。
初めの予定では午後4時には撤収する予定でしたが、にぎわっていたこともあり道具を学校に戻して自宅にたどりつ
いたのは午後9時を回っていました。
くったくたですぐにバタンキューと眠ってしまいました(笑)。
こういうイベントのことを「ファンクション」と呼んでいるのですが、とっても興味深いことがいっぱいありました。
今回、移動式の遊具(観覧車・ブランコ・バイキングなど)が設置されていたのですが、
←バイキングの写真ですが・・・・。
どれもとってもレトロで安全ベルトもろくについていないワイルドな乗り物ばっかりでした。でも、こちらの人はキャーキャ
ーいいながら楽しんで乗っていました。
・・・・夕方になり女性たちが帰宅して男性ばかりが乗ったバイキングはそれはそれで
コテコテで見ててすごかったですねぇ(笑)
バレンタインデー
2004年2月14日(土) はれ (何も食べず)(カリー・サーグなど)(スパゲティなど)
パキスタンはイスラム教の国です。が、かな~りアメリカやヨーロッパの影響を受けてもいます。
今日は「バレンタインデー」。日本ではもうあっちこっちでチョコレートの交換がおこなわれていることと思いますが。
では、パキスタン(少なくともイスラマバードの私の周囲)はといいますと・・・
←2月14日の朝刊「ナワーイーワクト」紙。1面の左下の広告はまさに!
まず、驚いたのが地元の朝刊紙の1面にデカデカと「今日はバレンタインデー」という広告が載っていたこと。
(でもなぜか、携帯電話の広告なんですけどね(笑))
つぎに驚いたのが学校に行ってから。
←シーミー先生からかわいい一輪の花をもらいました。
なななんと、シーミー先生から私やK藤さん(木工)、Sほちゃん(コンピュータ技術)にかわいい一輪の花のプレゼン
トがあったこと。
シーミー先生いわく「今日はバレンタインデーでしょ」ですって。
※私の記憶に間違いがなければ、キリスト教の聖職者だった聖バレンタインにちなんだ日だったと思うのですが。
パキスタンの中でも比較的自由な雰囲気のあるイスラマバードだからこその出来事かも知れませんね。ともあれ、シーミー先生どうもありがとさんです。で、今日は1日いい日だった・・・といきたいのですが、そうではありませんでした。というのも、明日(15日:日曜日)、ジナーパークという大きな公園でイベントがあってその準備にてんてこまいだった
からです。
バサント(凧揚げ大会)やらバザーなど、かなりにぎにぎしくおこなうらしいのですが、その準備の指示が出たのが
実は昨日の話でもう、どうやって準備するねん!てな感じでかなり頭に来ていました(←顔つきが相当怖かったらしい)。
イベント自体はもっと前から企画されていたはずなのですから、せめて2週間前とかに言ってほしいのですが。
結局家に仕事を持ち帰り、朝方まで準備する羽目になってしまいました・・・・・・。
2月13日(金)・・・かな~り忙しく、日記をつけられませんでした。
モニタ購入
2004年2月12日(木) はれ (パンなど)(サモサ・パコーラー)(やきそば)
今日から、朝の朝礼を外でするようになりました。
←外でやるととてもすがすがしい気持ちになります。
暑い時期&雨のときはできませんが、こうやって外で朝礼をすると気持ちがいいですね。
(じゃ、私が来て半年経つのにいままで1回も外でしなかったのはなぜ?)
今日も慌ただしい1日でした。15日(日)に、ジナーパークという大きな公園でイベントがあるそうでして、その打ち合わせや準備をしていました。
でも、うれしいことにうちのクラスでは、12名中8名の生徒が元気に登校してきていましたよ。
さてさて、パソコンの件(モニタの電源が入らない)ですが、思い切って中古のモニタを買って外付けで見ることにしました。修理もできるようですが、中古のモニタを買う方がコストがかからないですし、外へパソコンを持ち歩くこともないので
問題もないでしょうし。
ブルーエリア(イスラマバード市内のオフィス&電器街)のお店をあちこち回って交渉した結果、17インチのCRTモニタを2500ルピー(5000円)で購入。
タクシーで自宅まで運びました。
←ノートパソコンのモニタは見えないままです。。。。。 これで、やっとインターネット&メールが使えるようになりました。
音楽教室 2004年2月11日(水) はれ
夜、アユーブ先生(おとなりの学校の音楽の先生)に誘われて、カラチカンパニー(マーケットの名前)近くの団地へ。
そこの1室では、音楽教室が開かれていました。
先生は、アユーブ先生(歌唱指導)と、以前お会いしたことのあるムハンマド先生(タブラ=太鼓指導)の2人。
←このお2人といっしょに村の結婚式に行ってオカリナを吹いたことがあります。
週に3回、このお家で音楽教室をしているそうです。
紅茶をいただきながらしばらくおしゃべりしていると、生徒さんがやってきました。
←ウルドゥの歌の歌唱指導をしています。
アユーブ先生は、ハルモニウムというオルガンをとても上手に弾くことができます。聞くと、お師匠さんの先生から手ほどきを受けたそうなんですが、楽譜はいっさい使わず、頭の中にメロディーや指使いをたたき込んでいるそうです。すごいね
ぇ。
近々、国営テレビの仕事で上の写真に写っている生徒さんと歌を録音するそうです。ですんで、結構毎日のようにレッスンしているそうでして。
ユニークなことですが、この国では「ドレミファソラシド」は使いません。「サレガマパダニサ」という音階を使います。
はじめに発声練習をしたのですが、そのときのスケール練習も
サレガマパダニサ サニダパマガレサ サレガレサ レガマガレ ガマパマガ・・・・・・・・
というんですよ。慣れていないと舌をかんじゃいますね(笑)。
発声練習をしたあとは、ハルモニウムの伴奏に合わせて歌を歌います。タブラのリズムが心地よかったです。
夜9時過ぎまで練習は続きました。私もたくさんウルドゥの歌を覚えたいので通うつもりです。続編にご期待下さいね。
初版 2004年02月11日 最終更新日 2004年03月