12月の後半、南相馬を中心に相馬、楢葉、広野、いわきを訪れた。2011年以来、年に数度のペースで訪れていたが、パキスタンに仕事で1年ほど行ってたこともあり、今回1年半ぶりの訪問となる。
目的は、南相馬市、相馬市にある障害者支援施設でのお手伝い、それと「浜通り」と呼ばれる沿岸部を旅すること。その記録を写真を添えて残しておく。
仙台から相馬へ
震災から5年半が過ぎたこの12月、ひとつの大きな復興の喜びがあった。それは常磐線:浜吉田駅(宮城県亘理町)~相馬駅(福島県相馬市)間、約23.2キロの運転再開だ。
YOMIURIオンライン 2016年12月10日(土曜日)
福島・相馬―仙台、5年9か月ぶり鉄路つながる
http://www.yomiuri.co.jp/feature/TO000305/20161210-OYT1T50022.html
私も、再開なったこの区間を乗ってみたいと思った。
相馬入り前日、東京→仙台まで移動して一泊。翌朝、仙台から原ノ町行き電車に乗った。
震災以来、仙台方面から電車で南相馬にアクセスするときは、
仙台駅 →(電車)→ 亘理駅(わたり) →(代行バス)→ 相馬駅 →(電車)→ 原ノ町駅
と、途中で代行バスを利用しなければならなかった。
この不通区間では津波が駅舎や線路を襲い、甚大な被害が出た。
そのため新たに内陸寄りに路線を変更することとなり、工事が完了してこのたび12月10日に運転再開となった。
新地駅(常磐線:福島県)
訪問日12月15日(木)は相馬駅(福島県相馬市)近くの「工房もくもく」にお邪魔することが目的。
予定より1本早い電車に乗り、手前の新地駅(福島県新地町)で降りて後続電車が来る1時間ほどの待合の間、駅周辺の散策をした。
参考 東日本大震災 福島県新地町の被害状況
http://shi.na.coocan.jp/tohokukantodaijisin-5.html
震災発生時、新地駅には原ノ町行き電車が停車していた。その後、津波が来襲することを携帯電話、ラジオ、地域住民の知らせにより知った乗客40名余は、乗り合わせていた警察官(相馬署に配属される新人警官さんたちだったそう)2名の誘導で新地町役場に逃げ、難を逃れた。電車乗務員は電車そばで待機中のところ津波が来襲し、駅ホームこ線橋で難を逃れ、そこで一夜を過ごしている。
新しい駅は、内陸に300m移動しての開業となっている。
駅周辺は、防波堤の役割も果たす堤道路、盛り土をして造成される市街地(すこし離れたところに低層マンションが1棟あるほかは造成中で駅舎・ホームだけがポツンと建っている状態)が遮るものもなく広がっている。歩いて数百メートル離れたところに新地町役場や図書館の入った真新しい建物やスーパー、住宅地があり、そこまで散策。
吹きっさらしの海風が肌を刺すなか、工事車両が行きかっていた。
浜にあった集落は津波で壊滅し、高台などに新しい家を建てて住んでいらっしゃるという。駅周辺も含めて復興した地域の新しい住まう形がどう成されていくのか。
工房もくもく(相馬市:就労継続支援B型)
相馬市の方たちが、地域の障害のある方たちの支援組織として立ち上げたNPO法人「みんなのしあわせプロジェクト」。そのプロジェクトの一環として2016年4月に立ち上げられたのが「工房もくもく」。
相双ビューロー みんなのしあわせプロジェクト紹介
http://sosobureau.yumesoso.jp/archives/9765
南相馬ファクトリー | 工房もくもくの紹介
https://minamisoma-factory.com/blog/4448/
南相馬ファクトリー | 工房もくもくブログ
https://minamisoma-factory.com/blog/blog_category/%E5%B7%A5%E6….
みんなのしあわせプロジェクトを仲間と立ち上げ、工房もくもくを運営するのは、佐藤定広さん。
佐藤さんは長く「自立研修所えんどう豆(南相馬市:地域活動支援センター)」所長をされ、現在もNPO法人「南相馬ファクトリー https://minamisoma-factory.com/ 」に携わっている。
南相馬だけでなく、ご自身が住まう相馬にも地域で障害のある人たちの支援の場を仲間と共につくりたい、そのようにお話を伺って数年。
暖かい日差しがそそぐ朝、工房もくもくを初めてお邪魔した。
相馬駅から歩いて2~3分の至近に事務所兼作業所を構えている。
2階建ての2階部分を間借りしていて、2階へ上がる階段部分にこげ茶色の板材でこしらえた玄関壁がおしゃれ。
2階の作業所は壁に木の厚板パネルが貼られ、ん?ここは喫茶店?カフェ?と思っちゃうおしゃれな空間になっている。あたたかみがあって、自然に落ち着く。
佐藤さんは建築士としてお仕事をされていたので、手描きの見取り図俯瞰図や居住空間のアレンジはお手の物。
音楽やアートが、ひとを楽しませ、ひとの魅力を引き出す力を大切にされていて、えんどう豆でも工房もくもくでも、利用者さんもスタッフも穏やかに過ごせるリズムや空間づくりをたいせつにされている。
工房もくもくブログ | クリスマス会(2016年12月16日)
https://minamisoma-factory.com/blog/7531/
12月15日(木)、16日(金)の2日間、朝~夕までお邪魔させていただいた。
なんとタイミングのいいことに(神さまありがとう!)、工房もくもくのクリスマス会にまぜていただだき、その準備と本番を大いに楽しませていただいた。
本格的なパスタマシンを使って、みんなでこね、のばし、製麺する。インドアの活動なのに、キャンプに来てアウトドアな作業をしている感覚。シフォンケーキも前日から焼いていたが、きび糖、会津特産なたね油を使い、ヘルシーに、日本人好みの控えめな塩梅の甘さに焼きあがっていて試食からテンションがあがる。
クリスマス会本番は、車で
わくわくランド(新地火力発電所内にある施設 http://www.somakyoka.co.jp/wakuwaku.html )
の中にある調理スペースを使い、すごい量のパスタ+3種のソース(ミート、カルボナーラ、しめじとベーコン)、クリームてんこもりなシフォンケーキ、ポトフ風スープ、アップルティー&ジュース、と書いただけでおなかいっぱいになりそうなボリュームの料理をみんなでこしらえ、堪能した。
それと、↑ のブログで紹介されている音楽会。
私が明日のクリスマス会でオカリナを演奏します、とスタッフさんが利用者さんに伝えてくださったそうで、利用者のお一人のみづほさんが愛用のティンホイッスルと学校で使ったうたの本を持ってこられていた。
察するに、私も演奏するんだ!という気持ちで前日から高まってらっしゃって。
みづほさん、どうぞセンターにいらしてください、とお声をかけると、スーッと出てらっしゃいました。そして、みづほさんリクエストの「もみじ」ほか数曲をセッション。
何の打ち合わせもしていないけれど、みづほさん、さりげなくアイコンタクトをしてくれたり、曲終わりを意識して合わせてくれたり、で、いいセッションができた。
ほかにも「私うたいたい!」と目がキラキラする方もいらっしゃって、楽しい会となった。双方向な全員参加型なライブはとっても好き。みんな盛り上がると楽しいですな。
プロジェクトは、ゆっくりと、あせらず、着実にその鉄輪をレールに乗せて走り出しているんだな、と感じられた2日間となった。
相馬から南相馬へ
デイさぽーと ぴーなっつ(生活介護) ビーンズ(就労継続支援B型) えんどう豆(地域支援活動センター)
南相馬での5年半来の活動で拠点となっているのが、「デイさぽーと ぴーなっつ(南相馬市原町区:生活介護)」。
初めて来たのが2011年8月。JDF(日本障害フォーラム)が呼びかけて全国から集まった有志ボランティアの方たちがたくさんいた。その方たちと、ぴーなっつの座敷で、または床で雑魚寝し、日中は複数の施設に分かれて活動をしていた。
その時からずっとお世話になっているのが、ぴーなっつ職員の石田宏之さん。
きょうされん福島大会(2013年)ブログ | ぴーなっつの石田さん
http://kyosaren-fukushima.org/blog-k/%E3%81%….
JDFの人たち(JDF経由で来たそう私たちボランティアのことをそう呼ばれていた)は、夜になると石田さんおすすめのお店にごはんを食べに行ったりしたし、ぴーなっつ厨房で石田さんが手料理を振舞ったり、石田さんもぴーなっつに長く寝泊りしてJDFメンバーをお世話してくれた。石田さんのことを覚えているメンバーは全国にたくさんいる。
今回も、原ノ町駅(南相馬市)に迎えに来ていただいた。
私の立ち姿を一度みかけられたとのことだったが、私が10キロほど痩せて(ダイエットの成果?)少し姿格好が変わったらしく、通り過ぎたとのこと。
ともあれ、駅近くの「みなとや」で昼食。ぴーなっつには10泊したが、ラーメン屋、焼き肉屋にも連れて行っていただいた。どれも美味しくいただきました。
いつもありがとうございます、石田さん。
1年半ぶりに訪れたのに、昨日もここに来ていたような、”いつもここにいる”気持ちになれるのがこの場所だ。
利用者さんも、スタッフの方も幾分新しい方はいらっしゃるのだが、すぐに打ち解け、いつもの心地でお手伝いをすることができる。
ぴーなっつの朝の打ち合わせに参加していたが、打ち合わせ終わりに、↑ のプレートを起立して全職員で唱和するというのが新しいルーティン。
えんどう豆のみずほさんの字で書かれたこのモットー、「障害者(主役)をささえる仲間である」という支援者の立ち位置を毎日確認するよい機会になっている。
朝の打ち合わせに出てから、ぴーなっつでお手伝いする日は、そのままこの場所で利用者さんが来るのを待ち、別場所のえんどう豆、ビーンズでお手伝いする日は、送迎車に便乗したり、ぴーなっつから借りた車で移動してお手伝いをしていた。
作業補助をすることもあったが、多くは利用者さん、スタッフの方たちとお話をすることが専らだったような。
「ボランティアしに来ています。だから、何かボランティアしたっていう成果を!」というところからは全力で遠いスタンスで、気楽に過ごした。
そう過ごせるだけ、こちらのみなさんとの間合いに成ってきたと言えるのかも知れない。
南相馬に来てすぐ、こちらでもクリスマス会が開かれた(またまた神さまありがとう!)。
ぴーなっつで、利用者さんと職員さんで会場となるこの場の飾りつけをする。
紙リング飾りもたくさんあって、2重にして飾るとより会場が映えた。
そして、クリスマス会当日(2016年12月20日火曜日)。
会場のぴーなっつには、えんどう豆、ビーンズの利用者、ご家族、職員など70名以上が集まる盛況となった。
えんどう豆ブログ メリー・クリスマス(2016年12月25日)
http://endoumame-fukushima.com/blog/?p=496
原町区にお住いの有志のおじいちゃんたちが手品を披露してくださった。
小1時間にわたる熱演。すごくユーモラスな語り口、ちょっとタネが見えてるんちゃう?というアヤシサもちょろっと醸し出しつつの味な演技。
利用者さんたちが、マジシャンの一挙手一投足にくぎ付けになり、とっても楽しんでいらっしゃった。
えんどう豆のみなさんが「にじのむこうに」
ビーンズのみなさんが「365日の紙飛行機」
を披露。みんなで一体となって盛り上がり、歌った。
震災直後の「緊急」「非常」という言葉が思い浮かぶ、何か落ち着かない心地になる空気は、いつの頃からか薄れていって、ふだんの穏やかな生活が、ここに住むみなさんの中に戻りつつあることは、最近になればなるほど強く感じるようになった。
それとともに、私の立ち位置も、
緊急時の人助け、不足を補う要員 から、
肩ひじの張らない・普段着のお手伝い へと
自然に変わってきていて、今回の訪問が一番肩に力の入らない自然なお手伝いやかかわり方ができたように思っている。私が仮に被災者の立場になったとしても、ボランティアが目を怒らせ、何かにとりつかれたように必死になる姿は、緊急のひとときは仕方ないにしてもしんどく感じるもの。
そういう気持ちのゆとりができたからか、関わる際には、相手からどういう景色が見えているのだろう、私が見えているのだろう、ということを考えるようになった。自分が話すよりも聴き手であることに意識を置くようになり、かける言葉も相手の答えを引き出せるような、限られたものにしようと意識していることに気がつく。
パキスタンでの1年は、障害者支援とも教育ともまったく違う畑でのストレスのかかるものだったから、今回の相馬・南相馬での活動は、ありがたいことに以前の自分のスタイルを取り戻し、感性を磨くエクササイズとなった。
えんどう豆ブログ 私がお手伝いした活動のようす
大掃除(2016年12月26日)
http://endoumame-fukushima.com/blog/?p=510
仕事納めと歌い納め(2016年12月31日)
http://endoumame-fukushima.com/blog/?p=534
2009年に南相馬市立図書館(原ノ町駅となり)がオープンして以来1Fで営業しているのがカフェ ビーンズ。
原町商店連合会 カフェ ビーンズ
http://haramachishoren.com/restaurant/%E3%82%….
ビーンズの研修生さんが店員を務めている。おしゃれな図書館のなかにあるおしゃれなカフェで居心地がとてもよい。サロンコンサートもよく開かれている。
このカフェのスタッフさんが新アイテムとして開発してきたのが、 ↑ のアップルパイ(右下)。すべて手作りで、いよいよこの2017年1月からお店で提供するとのこと。カフェ・ビーンズにいらっしゃった際は、お店ご自慢のスイーツ、ランチを楽しんでください。
相馬・南相馬点描
三妙見 相馬小高神社 相馬太田神社 相馬中村神社
時代は鎌倉から室町に変わろうとする頃、下総国(茨城県)守谷城から相馬氏はこの地に移り住み、根を下ろした。
1323年: 下総国(茨城県)守谷城 → 最初の居住地に、相馬太田神社を建立
1336年: 小高城に居城を移し、相馬小高神社を建立
1611年: 小高城 → 中村城に移り、相馬中村神社を建立
この三社は「相馬三妙見社」とも呼ばれている。
ぴーなっつ滞在時の休日、車を借りてこの三妙見社を回りお詣りをした。
木造の社殿、境内に力強さを感じる。
最近、神社仏閣、なかでも神社を好んで回るようになり、それぞれのお社の持つ雰囲気を味わうことを楽しみとしているが、この三妙見では社殿の造り、馬の館、絵馬などを拝しつつ、かつて武士が武運長久と所領安堵を願ったであろうと歴史に思いをはせていた。相馬中村神社(本殿改修中でいい写真が撮れなかった)では、飼っている野馬追の馬の匂いが立ち込めており、いっそう力強さ、野性味を感じた。
まだ、野馬追(7月下旬)を観たことがない。いつか、時期を合わせて来てみたいものだ。
菓詩工房わたなべ
いわきからの帰りに小高駅付近を散策している折、土休日限定でオープンしているカフェ(ひまわりカフェ)に入った。
福島民報 小高住民憩いの場復活(2015年7月4日)
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2015/07/post_11857.html
そのカフェに置いていたフィナンシェやシュークリームがとても美味しかった。
このスイーツは、ひまわりカフェすぐそば、小高駅近くで店を開いていた「菓詩工房わたなべ」のもので、震災後3年半の時を経て、原町区で営業を再開したということだった。
クリスマスイブの夜、ぴーなっつ石田さんと夕食に出ている際、たまたまこのお店に立ち寄ることができ、名物「小高秀(おだかしゅう:シュークリーム)」を味わうことができた。
菓詩工房わたなべ 公式ツイッター
https://twitter.com/kashiwatanabe
菓詩工房わたなべ 食べログ
https://tabelog.com/fukushima/A0704/A070403/7012041/
日テレ24 小山慶一郎 小高秀で知る被災地の覚悟(2015年5月1日)
http://www.news24.jp/articles/2015/05/01/07274184.html
南相馬以南の浜通り点描
原ノ町駅(南相馬市原町区)~竜田駅(楢葉町)代行バス
震災から4年近く経った2015年1月31日、原ノ町駅~竜田駅間を1日2往復の代行バスが走るようになり、公共交通機関で相馬→いわき方面への移動が可能になった。
(6号線(帰還困難区域)の通行は2014年9月から自動車に限り可能となっていた。)
2018年4月現在は、原ノ町駅~富岡駅間を代行バスが走っている。
JR東日本水戸支社 | 東日本大震災による列車影響と運転見込みについて
http://www.jrmito.com/eq/
東洋経済オンライン(2015年3月10日)
原発被災地の「鉄道代替輸送」に足りないもの
http://toyokeizai.net/articles/-/62766
浜通り滞在期間中、いわきに1泊する予定を立て、その往復にこの代行バスを利用することにした。
・2016年12月現在も1日2往復での運行、途中乗降車は小高駅のみ可能。
・Yahoo路線案内 http://transit.yahoo.co.jp/ で代行バスダイヤも入れた検索が可能。
・帰還困難区域(双葉町、大熊町ほか。参考 県ウェブサイトhttp://www.pref.fukushima.lg.jp/site/portal/list271-840.html )を通行するために、窓を開けることができない。
・バス運転席横にモニターがあり、走行中の路線の空間放射線量が刻々表示されている。私が見た最大放射線量は、双葉駅付近の3.9マイクロシーベルト/時だった。
・車内撮影を遠慮くださいの張り紙とアナウンス(車内から車外の撮影はOKとアナウンスしてくれた添乗員さんいたので ↓ の動画を撮影)
Youtube : 常磐線代行バス:大熊町付近の車窓(2016年12月)
この動画は、代行バスが国道6号線の大熊町付近(福島第一原発に至近)を竜田駅方面に向け走行中に撮影した。
大熊町はほぼ全域が帰還困難区域に指定されており、6号線から側道への立ち入りは禁止され、住宅、店舗などは震災当時のまま、陳列品なども放置されたままそのままの状態になっている。
土日にかかる際は、カメラを提げた学生風の若者たち(グループもあった)もいたが、通常は仙台・相馬~いわき間通行を利用する作業員風の壮年、地元の方が多いようだった。
楢葉町・広野町散策
代行バス~電車の接続を待つ間を利用したり、途中下車をするなどして竜田駅(楢葉町)、広野駅(広野町)周辺を散策した。
竜田駅(楢葉町)から歩いて40分弱(帰りは下りで20分強だった)で天神岬スポーツ公園に到着。町の運営する公社が公園の他、温泉やサイクリング施設を運営している。
天神岬スポーツ公園公式サイト
http://naraha-tenjin.net/
この公園のイメージ歌碑として「さくら」「うみ」「ふるさと」の3つが置かれている。私が見つけられたのはそのうちの「ふるさと」。南相馬でも相馬でも、「ふるさと」が好きとおっしゃる方がたくさんいたなぁ。
明治45年(1912)年に発行された「尋常小学唱歌」に掲載されたのが、この歌碑にある唱歌「汽車」。
今は山中 今は浜
今は鉄橋渡るぞと
思う間も無く トンネルの
闇を通って広野原(ひろのはら)
遠くに見える村の屋根
近くに見える町の軒(のき)
森や林や田や畑(はたけ)
後(あと)へ後へと飛んで行く
廻(まわ)り灯籠(どうろう)の画(え)の様に
変わる景色のおもしろさ
見とれてそれと知らぬ間に
早くも過ぎる幾十里
一説にはこの「汽車」の作詞は、「鉄道唱歌」を作詞した大和田健樹によるもので、
彼は、常磐線開通の折の、久ノ浜駅(いわき市)-広野駅間の景観を謳ったのだ、と。(歌詞中「広野原」は広野(町)を指しているという。)
広野町ではこの説をとり、昭和57年(1982)に広野駅構内に歌碑が建立した。
また、同町で戦前から開業医をしていた額賀誠志が戦後に作詞したのが「とんぼのめがね」だ。
とんぼのめがねは 水いろめがね
青いおそらを とんだから
とんだから
とんぼのめがねは ぴかぴかめがね
おてんとさまを みてたから
みてたから
とんぼのめがねは 赤いろめがね
夕焼け雲を とんだから
とんだから
広野町ウェブサイト 子どもの目を持ったお医者様 額賀誠志
https://www.town.hirono.fukushima.jp/sangyo/nukaga_seishi.html
このように多くの童謡が生まれた広野町では、「童謡の里」として平成6年(1994)から「ひろの童謡まつり」が開催されている。
「汽車」も「とんぼのめがね」も2006年に文化庁と全国PTAが選定した「日本の歌百選」に選ばれている。
ウィキペディア 日本の歌百選
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9…
広野町ウェブサイト ひろの童謡まつり
http://www.town.hirono.fukushima.jp/sangyo/hironodouwa_fes.html
広野町、楢葉町にまたがって、1997年にJヴィレッジ(日本サッカー界初のナショナル・トレーニングセンター)が開設された。
全11面の天然芝ピッチを備え、2002年日韓ワールドカップの際にはアルゼンチン代表が合宿をはり、通常は日本代表から一般サッカーチームまで多くのサッカー選手に親しまれ汗を流した場所だった。
震災後2011年3月15日~2013年6月30日まで原発事故対応拠点としてスポーツ施設は全面閉鎖され、以後今日にいたるまで再開されていない。(機能をいわき市に移して活動を行っている。詳細は公式サイトへ)
Jヴィレッジ公式サイト
http://j-village.jp/
旅行中の絶景
南相馬の海岸から望む日の出
南相馬滞在中、朝の冷え込みは厳しかったが、素晴らしく晴れ渡る朝を迎えたことが幾度かあった。
そんな折は、付近の神社へのお詣りも兼ね、海の見える浜まで行って朝日を眺めることが楽しみだった。
そんなある日の日の出を収めたのが ↑ の写真。波は荒く、その潮騒の音は騒々しかったが、日の出の陽光はまぶしく、あたたかなものだった。
その光に神々しさを感じ合掌する。太陽を崇めるのって自然な感情なんだな。
吉原駅からの壮麗な富士全景
Yahoo路線案内で調べると、
朝7時前 原ノ町駅発 代行バス → 竜田・水戸・上野・熱海・浜松・米原と乗り継ぎ 夜12時前 大阪駅着 を普通列車のみで可能だと分かった(青春18きっぷ使用のため)。
帰阪前夜、茨城県で震度6弱の地震があったが(南相馬でも震度4程度の揺れ)幸い翌朝は列車運行にまったく支障なく、その道中のほとんどをゆったり座りながら元気に帰ってくることができた。
熱海発の電車が富士駅に近づくにつれ、車窓にはクリアーな富士山が映え、乗客の目を奪っていた。
せっかくのいい機会、と思い、富士駅手前の吉原駅で下車。南口そばにある公園に設置された津波避難タワーにのぼる。何年か前、途中下車した際にたまたまこの場所をみつけたのを思い出したのだ。
津波避難タワーはこの街にいくつかできているが、吉原駅南口にあるこのタワーはその目的から常時開放されており、前回訪れた際には、地元の方が毎日の散歩コースだと言って、毎日このタワーから富士を眺めているんだ、と自慢されていた。
障害物なくクリアーに富士山全景が見られるとっておきのスポットで、富士が紅に色づく様子を楽しめたことが、今回の旅のよい結びになったと思っている。