パキスタン大水害救援活動(2010年)3:AMDAさんと

1.渡航に向けて | 2.GNJPさまと | 3.AMDAさまと

初稿:2010年10月23日 更新:2018年5月21日(章立て、再構成)

目次 | Table of Contents

はじめに

2010年9月15日(水)~10月10日(月)までの間
AMDA http://amda.or.jp/ が Sindh シンド州 Thatta タッタ県で行う医療救援活動の調整員を務めさせていただきました。その記録をつづります。
Sindh シンド州 Thatta タッタ県の位置(Google Maps) http://bit.ly/cchpcA

AMDA活動区域図(クリックすると拡大します)

グッドネーバーズ・AMDAとの活動を終えて思うこと

AMDAとの活動終了後、10月13日に岡山市内で記者会見の場が持たれた。
毎日新聞(岡山版)さんが10月14日朝刊にその模様を掲載してくださった。

パキスタン:大雨洪水被害 慢性的な疾患、顕著に 現地での診療AMDA報告 /岡山
毎日新聞 10月14日(木)16時37分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101014-00000264-mailo-l33

◇「長期間の支援考えたい」
7月末から洪水被害が続き、約2000万人が被災したパキスタンで、緊急支援に取り組んだ国際医療救援団体「AMDA」(本部・北区)は13日、記者会見を開いた。現地で診療した菅波茂代表は「現地のNPOと連携したのが良かった。洪水で慢性的な疾患、貧困の影響が顕在化している」と報告した。【石戸諭】

AMDAは先月2日から支援を開始。同国南東部シンド州タッタ県などの避難キャンプで、本部、アフガニスタン、バングラディッシュ、インドネシア各支部の医師、看護師ら計20人が巡回診療にあたった。マラリアよりも、胃炎や呼吸器感染症などが目立った。
AMDAによると、現地の学校などでは洪水の跡が残り、道路の冠水がいまだに残る地域もあった。全身のけん怠感、痛みを訴える患者も多かった。菅波代表は「現地NPOが、水の浄化剤を配布さしており、下痢の被害を抑えることができた。患者は貧しく、日常的な医療ケアが課題だ。洪水は被害が広範囲、長期間にわたる。継続した支援を考えたい」と話す。
調整員として現地入りした土佐光章さん(40)は「パキスタンといえばテロと見られることがある。しかし、大事なのはそこで暮らす人たちの生活だ。当たり前の生活ができるように復興支援が必要だ」と話した。
AMDAは、避難キャンプで小学校仮設校舎建設、女性の生活支援プログラムなどを検討している。

記者の方は

「パキスタンといえばテロと見られることがある。しかし、大事なのはそこで暮らす人たちの生活だ。当たり前の生活ができるように復興支援が必要だ」

と、私が日本の方に伝えたいことを、端的にわかりやすくまとめてくださった。
今回、思いがけず2つのNGOさんで、パキスタン北部・南部での水害救援活動に携わることとなった。
それぞれの地域は住む主要民族は異なり、話す言語や習慣にも違いが見られる。また治安・安全面でもそれぞれ配慮が十分必要であった。

けれども、9月1日~10月9日までの毎日出会った人々の圧倒的大多数は市井の、または田舎の中でその地に根ざした暮らしを送る人たちばかりであった。

子どもたちはどの地でも、好奇心旺盛で楽しければ屈託なく笑い、大人たちは、かつて私が初めてパキスタンの地を訪れたときと同様に、客人歓待の心意気が豊かであった。

2010年10月07日撮影:その村唯一の道路を進む

日本ではパキスタン洪水の報道は、自衛隊や緊急援助隊が引き揚げたこともあり、まったくされなくなった。
しかし、この動画のように、10月中旬になろうとしているのにいまだ冠水している地域がたくさんある。
まだ洪水・水害は終わっていないのだ。

2010年10月05日撮影:綿実から綿を収穫する農民・子どもたち

かたや、同じ地域の別の小さな村では、人々が綿実から綿を集める作業をしていた。
大人たちは黙々と。子どもたちは好奇心旺盛にカメラを見つめてはキャッキャッと笑う。

水害の被害を免れた畑や土地では、人々が避難所から戻り、普段の生活に戻る努力を始めている。その土地に根ざす人々の生活がもとの当たり前の状態に戻るように、子どもたちの屈託のない笑顔を守るために、国際社会はぜひ支援を継続してほしい。

参加のきっかけ

2010年08月~09月にかけて、JICA草の根技術支援案件でパキスタン北部・フンザ地方での仕事が予定され準備をしていた。
ところが、渡航2日前に水害の影響で案件が中止となってしまった。
私は2003年~2005年までイスラマバードの障害者職業訓練校で活動をしたもと青年海外協力隊員だ。
2005年のパキスタン大地震の際も被災地での医療および物資配布活動に従事させていただいた。そのとき痛感した緊急支援の重要性、ならびにパキスタンが協力隊任国であり第2の故郷のような存在であることから、もしチャンスがあるなら水害救援活動に参加したいと思った。

幸い、パキスタンビザ(1年間有効マルチビザ)を取得していたこと、AMDAさまの活動に支障のない程度日本でのスケジュールを空けていたので、
JANICさん http://www.janic.org/ に問い合わせて、パキスタン水害に関わってくださりそうなNGOさんを紹介していただき、自分でメールを出してアプライした。

そのうちのひとつ、グッドネーバーズさんからオファーをいただき、9月1日~10日まで北部パキスタンで活動をし、その後15日~10月10日までのAMDAさんからオファーをいただいて南部パキスタンで活動させていただくことができた。

今回ご一緒に仕事をするまで、グッドネーバーズさん・AMDAさんのことはどちらもよく知らなかった。オファーをいただいて初めて「グッドネーバーズさんて?」「AMDAさん、菅波さん(代表)って誰?」とWikipediaで検索したというような知らなさぶりだった。

けれども、JANICさんが太鼓判を押していらっしゃったNGOさんであったこと、この情勢の落ち着かない中でパキスタンのために動いてくださるというところで全く不安はなかった。
とにかくどちらの仕事もベストを尽くすことのみ考えていた。

2010年09月15日-16日(水-木曜日)出発-到着

朝方まで出発の準備に追われつつ。
8時過ぎの三ノ宮発の高速バスで岡山駅西口へ。そこからタクシーでAMDA本部着。
これまでメールでのみやり取りさせていただいた職員のみなさまと初顔合わせ。みなさんとても物腰柔らかく優しい雰囲気。
日常とても忙しいはずなのに、事務所内は殺伐としておらず、ゆったりした雰囲気なのが印象的。
担当のY山さんと打ち合わせ、調整員としての仕事内容などを説明していただく。
今回出発をご一緒するF崎医師、W辺看護師さんもご到着。

夕方4時に岡山駅。菅波代表、F崎医師、W辺看護師、わたしの4人の出発の様子を地元TV局・新聞社が取材に。
ここ岡山でのAMDAさんの存在の大きさを実感するひととき。

岡山→新大阪→関西空港と移動。菅波代表はマレーシアでの国際会議参加のため、バンコク行きフライトで。

私たち3人はドバイ行きフライトで15日夜関西空港発。
ドバイでカラチ行きに乗り継ぎ16日昼(現地時間、日本時間-4時間)にカラチ着。
現地協力機関のNRSP(パキスタンの大手地域開発NGO)の車で Thatta タッタ市内の事務所へ。

NRSP : National Rural Support Programmehttp://nrsp.org.pk/

8月31日に西宮でお会いしたN調整員さんが数日前にタッタ入りして、私たちの宿舎用に家を借り上げてくださっていた。
そこに荷物・医薬品を運び込み、翌日からの医療活動に備える。

Mushtaq ムシュターク職員に場所のアレンジをしていただく。明日は、インダス川西岸、河口に程近い Ghora Bari ゴーラ・バリという場所で診療キャンプを開くことになった。

動画:運び込まれた医薬品

今回使用する医薬品は、隣国インドの水害救援活動の際使用されたものを参考にして、カラチで調達された。
約1ヶ月の滞在だったが、後半は医療スタッフが増えて多くの患者に対応することができるようになったことで薬の処方も増え、何度か買い足しをしている。
購入させていただいたカラチのお店はドルでの支払いが可能であったため、ルピー両替による差益損を回避することができた。

2010年09月17日-18日(金-土曜日)Ghora Bari ゴーラ・バリ

08:00すぎ、迎えの車でNRSPの事務所へ。朝食(パン・オムレツなど)を摂ったあと、2台の車に、医薬品・水などを積み、1時間半ほど走った、Ghora Bari ゴーラ・バーリーへ。ここにある学校の避難所で、医療救援活動の第1・2日目がはじまった。

F崎医師、W辺看護師、N調整員・わたし、医療の知識がある通訳のAbuda アブダさん(女性)、Nazir ナジールさん、現地Ghora Bari の世話役 Mushtaq ムシュターク職員、ドライバー・スタッフ3名の総勢10名の陣容。

午前10時過ぎのオープン開始から、学校内に避難をしている方を中心に多数の方が診察を希望された。
~午後3時前まで、短時間のブレイク(クッキー、水)以外は受付・診察・薬の処方に全員が追われていた。

小学校社会科6年教科書に掲載されている写真。Ghora Bariでの活動のときの写真だ。後年掲載されていることを知る。誰が撮ってくれたのだろう?

1日目(9月17日):85人を受付し、53人の診察を行った。
2日目(9月18日):昨日受付をしたが診ることのできなかった患者さん約30名+新規受付した32名の計66名の診察を行った。

Thatta タッタのNRSP事務所~Ghora Bari ゴーラ・バーリーの往復は舗装はされているが悪路が続き、通うこともなかなか易しいものではない。が、現地の方の協力で現地救援医療の第一歩が歩めてよかったと思う。

動画:9月18日 Ghora Bari ゴーラ・バリの診療キャンプ地(高校)にて

↑水が浸っていた部分の壁面が変色(もしくは壁材の剥離)している様子がよくわかる。

動画:9月18日 Ghora Bari ゴーラ・バリの診療キャンプ地での水配給

↑水害後、生活用水はこのように濁ったものしか配水されなくなった。これが生活用水であるし、飲み水である。

2010年09月19日-20日(日-月曜日) Darya Khan Bhatti 菅波代表現地で診療

NRSP事務所で朝食をいただく最中に、前日カラチ入りしていたAMDA菅波代表・N調整員がカラチを早朝に出発してタッタに到着。
NRSP地域ディレクターのMustafa ムスタファさんはじめ関係者と懇談。その後車3台に分乗して、本日の診療キャンプを置く、Darya Khan Bhatti ダルヤ・カーン・バッティに向かう。所要時間1時間強。

この場所はインダス川本流よりかなり離れた場所に位置しているが、いまだに水に浸かっている場所が広がり、家を失った家族が堤防の上のテント村で暮らしている。地域責任者の話ではおよそ250家族1000人以上が暮らしているとのこと。

動画:2010年09月19日 いまだ浸水する土地が広がる状況をレポート

動画:2010年09月19日 AMDA菅波代表の診療のようす

ここの竹や木の枝で作られた小屋を診療所として開設することに。
机・イスなどを運びこみ、11:00前より診療を開始。
100人まで診療受付をし、~15:00までの間、76名の方の診療を、菅波代表・F崎医師が行った。

今日は、イスラマバードからNRSP(全パキスタン)CEOのDr.Rashid Bajwa ラシード・バジュワ博士が診療キャンプを訪問。この日カラチからイスラマバードに飛行機で帰られる前に、ギリギリの時間まで診療の様子をご覧になられた他、菅波代表と診療の合間を縫って懇談。

翌20日(月曜日)は休養日に。資料データの整理をして過ごす。

2010年09月21日(火曜日) Darya Khan Bhatti 2回目

この頃から、送迎の車や食事がパキスタン式に顕著に遅くなり始める。
担当の職員が努力してくれていることはよく理解しているが、朝食や車の出発が遅くなると、そのぶん医療キャンプを開く時間が遅くなったり、短くしなければならなくなるから、困ったものだ。

朝食後、09:15ごろ遅めのNRSP事務所出発。

車で1時間半ほど走ったDarya Khan Bhatti に到着。11:15にこの地での2回目の診療を開始。
ただ、今日はこの地域の担当者 Mushtaq ムシュターク職員が事前に段取りをしていただき、机・イスなどがきちっと整備されていた。

動画:2010年09月21日撮影 事前準備が整った診療キャンプ

前回(菅波代表が入られた9月19日日曜日)診察ができなかった患者が30名ほど居り、本日も相当数の来診が予想されたが、今日はその未受診者と新規あわせて49名で15:00過ぎに診療終了(希望者全員の診療終了)でき、15:30ごろDarya Khan Bhatti 発。

F崎医師が昨夜来、腹痛・下痢を訴えていらして(ご本人は診療に支障なくできる旨おっしゃっていらっしゃる)、体調について様子をみなければいけないだろう。

2010年09月22日(水曜日) Saahib Dino Gaho

今日は朝食・車の出発ともに大きく遅れることはなかった。
Thatta タッタ事務所から車で1時間ほど走った Saahib Dino Gaho サーヒブ・ディノ・ガホに到着。

今日もMushtaq ムシュターク職員と現地で落ち合う予定だったが現地事務所からの出発が遅れたとのことで、先に避難テントのひとつを借りて診療所設置を開始。11:00すぎから診療活動を開始する。

今日のSaahib Dino Gaho は今まで訪れたテント村の中でも一番支援が行き届いていないと感じられるところで、住民はこの2ヶ月で2度しか食糧などの支援を受けられなかったことを盛んに訴えていた。

事前に30~40家族が住んでいるとの情報を聞いていたが、だいたいその通りで、離れたところにある村の集落にはさらに多くの方が暮らしている。

動画:2010年09月22日撮影 避難民の方へインタビュー

Sindhi シンド語でお話になっているので、完全に理解ができていないが、
・食糧、水の供給がされていない、イード(断食明けのお祭り)の際のお祝いや施しもなかった
・そうしたことに対して政府は何の手立てもしてくれない
というような窮状を強く訴えるものであった。
9月中旬から下旬にかけて、NRSPでは連日、WFP(国連世界食糧計画)の支援による食糧配布をこうした地域に行い改善されつつあったが、道路状況などアクセスの悪い避難地ではこのような窮状は続いていた。

こうした厳しい状況ではあったけれど、他方では感動的な場面にもたびたび出会うことができた。

動画:2010年09月22日撮影 生後12時間の乳児の健康チェック

12時間前に産まれたのだという乳児、しかも双子。

家財道具はほとんど流されてしまっていて、この診療所で使うための机さえ見つけられないような中、新しく生まれいでた生命のために、手持ちで一番綺麗な布で大切にくるまれていた。
そうした細やかであたたかい愛情を父親の表情から十二分に感じ取ることができると思う。

へその緒もどうやって処置したのか聞きそびれてしまったけれど、衛生的に処置されていた。

F崎医師が「だいじょうぶ、でもちょっと体温低いから、暖かい格好をさせてあげてね」と父親に伝えると、ホッとしたようなそれでいてうれしくてしょうがないという表情が何よりだった。

今日は子どもの受診が多いと感じられた一日だった。
11:00~15:15までの開設、総受診者数49人。

この日のF崎医師の所見
1 上気道炎が最多
2 次いで慢性疾患 Headache
3 眼疾患、皮膚疾患が目立った
4 重篤例 赤痢疑い(5歳女児) マラリア否定できず(5歳女児)
5 下痢はまれ

先にも紹介をしたが、この地域で供給されている水は濁っていて良い水質とは言えない。しかし、下痢を訴える患者さんが少ないのはどうしてだろう?

今日はMushtaq ムシュターク職員が体調を崩し途中で帰るなど、スタッフの方も疲労が貯まっていることを感じさせる一日だった。

夕刻、カラチから菅波代表・UPAP(NRSPの傘下組織、マイクロファイナンスなどを行っている)のMasood マスード代表がThatta着。

夜、NRSP地域ディレクターのMustafa ムスタファさんのご厚意で夕食の席を設けていただく。

参加者 Mustafa ムスタファ所長、Masood マスードUPAP代表、Dr Shahid シャヒド医師、菅波代表、F崎医師、W辺看護師、わたし、会場を提供してくださったNRSP系列のIRM(教育機関)のスタッフの方2名。

夜はMasood マスードさんも私たちの宿舎に泊まられた。

2010年09月23日(木曜日) Arif Khas Kheli 菅波代表2回目の現地診療

09:00すぎ、NRSP地域ディレクターの Mustafa ムスタファさんが車で迎えに来て、3台の車で宿舎発。

はじめに Thatta タッタ郊外、刑務所そばにある海軍・陸軍設置のテント村を視察。この場所の広大な空き地にマスジッド(仮設か恒久なのか詳細は不明)を建設する構想があるという。

この場所を視察し終えてから、事務所でスタッフをピックアップし、車で20分ほど走ったところにあるArif Khas Kheli アリフ・カース・ケーリに到着。NRSPが設置しているテント村で、ロータリークラブの提供によるドーム型のテントに3家族ずつ住んでいるということだった。
ここの2張りのテントを借りて診療活動を開始。

代表は11:00~12:00まで、渕崎医師は11:00~15:00まで診療を行った。
総受診者数58名。

今日はいつもより早く診療活動を終えたため、帰路タッタ市街にある Shah Jahan Masjid シャージャハーン・マスジッドというムガール王朝時代からあるイスラーム寺院を見学。

Wikipedia(EN) ShahJahan Mosque
http://en.wikipedia.org/wiki/Shahjahan_Mosque/

完成したのが、Mugal ムガル王朝 Shah Jahan シャー・ジャハーン皇帝在世の1647年。
1981年には UNESCO ユネスコが制定する World Heritage 世界遺産にも登録されている。
パキスタンには現在6つの世界遺産(モヘンジョダロ、タフティバーイ、タキシラ、ラホールフォート、シャージャハーンマスジッドなど Thatta タッタの歴史的遺産、ロータスフォート)が登録されている。

Wikipedia(EN) パキスタンの世界遺産リスト(英語)
https://en.wikipedia.org/wiki/Lists_of_World_Heritage_Sites#Pakistan_.286.29

この数日来インターネットが使えない。→ 日本のNTTにあたるPTCLの回線不調と聞く。
イスラマバードで活動するのと違って、ここThattaではインターネットを使うのがひと苦労だった。
電話回線の不調、それに頻発する停電。ネットはNRSP事務所でさせていただいてたけれど、停電になると自家発電を回さない限りネットも使えなくなってしまう。調整員の仕事にはメールでのやりとりも含まれるから、これには参った。といいつつ、使えないときはシャーないみたいな腹のくくりになっていったっけ。

夕方17:30すぎ、インドネシアチーム(Usman ウスマン医師、Adhi アディ医師、Kadir カディール看護師)が事務所着。ムスタファ地域ディレクターにあいさつ、その後宿舎着。F崎医師・W辺看護師とあいさつ、簡単な打ち合わせ。
夜、宿舎近くのNRSP傘下の団体IRM(Insititute of Rural Management)内で歓迎会を兼ねた夕食。IRMの職員が同席。

2010年09月24日(金曜日) Gujjo Tent Camp インドネシアチーム合流初日

食事の時間がパキスタン式に遅く(朝食は9時ごろ、夕食は21時以降!)なってきて、日本での生活のリズムと大きく違うことから、事務所の食事を待つことをせず、今日から朝食は事前に買ってきたパン・持参の食糧などですませることにする。
結果的に、こうして自分たちのペースで食事や時間を活用することができ、ストレス軽減に大いに役立ったと思う。

09:00すぎ、迎えの車で事務所へ。ここでコピー、机等の資材の手配などをして、09:30すぎに事務所発。
Karachi Road カラチロードと呼ばれる幹線道路を、Thatta タッタからカラチ方面に10分ほど走った場所にある Gujjo グッジョという街郊外のNRSP設置のテント村に到着。

ここで
第1テント インドネシアチーム(Usman ウスマン医師、Adhi アディ医師)
第2テント F崎医師、薬局(W辺看護師、Kadir カディル看護師)
という配置で準備をし、本日の医療活動を開始。

インドネシアチームの先生方ははじめ、どういう薬が準備されているかなどを具体的に把握するために多少時間がかかっていらっしゃったように見受けられたが、すぐに慣れられて精力的な医療活動を行っていらっしゃった。

本日金曜日はイスラームの聖なる日。
午後の礼拝にはインドネシアチームの先生方もスタッフの車で近くのマスジッドに向かわれていた。(インドネシアチームのみなさんはみな敬虔なイスラーム教徒。時間がとれればきっちり一日五回のお祈りをされていた。)

本日は11:00~15:00(間に1時間近くの休憩・礼拝時間)の診療活動で 総受診者数104名。

2010年09月25日(土曜日) Niazi Hotel Gharo

今日も車、通訳者(確保できたと思ったら、英語が話せないことがわかり、これまでのNazir ナジールさん、Abda アブダさん2人が3人の医師の通訳をこなしてくださった。)で時間がかかり、宿舎を出発できたのは10時をまわっていた。

昨日の打ち合わせで、Thatta タッタからカラチ方面に30キロほど行ったGarho ガロという街近郊のNiazi Hotel ニアジ・ホテルという名前のレストラン内の部屋を借りて診療を開始。

F崎医師 – Nazir ナジールさん
Usman ウスマン医師、Adhi アディ医師 – Abda アブダさん

が通訳を担当してくださる。

動画:2010年09月25日撮影 Abda アブダさんが2人のドクターを相手に通訳

Abda アブダさんは、NRSPの別の事務所でフィールド活動を行う職員だ。今回通訳として大活躍してくださった。

彼女やNazir ナジールさん、Yamin ヤミンさんなどは一人で2人のドクターを相手に通訳をこなすことができ、特に通訳確保に困った中で大きな働きをしてくださった。

11:00~15:30(間に30分ほどの休憩・礼拝時間)の診療活動で、総受診者数107名。

本日、宿舎に長らく要望していたシーツ、イス、洗剤、蚊取り線香、殺虫剤などが届けられる。

また、昨日朝ウジが湧くほど悪化していた生活用水の部分もある程度清掃されて改善された。
しかしながら、水害後普通給水の水質が格段に悪化したとのことで、給水車で配水された水は濁り、浄水タブレットを多数投入してようやく臭いだけは改善された。

動画:2010年9月25日撮影 宿舎に供給される生活用水

2010年09月26日(日曜日) 休日、隣家のみなさんとの交流

本日は医療活動は休み。
NRSP事務所も今朝方まで夜通し物資の配布活動を行ったあとで、休日ということもあり閑散とした事務所内だった。
午前中、わたしとインドネシアのみなさんで事務所に行き、インターネットに接続しての諸業務を行う。
お昼は市街そばのレストランで食事。行き帰りはリキシャーに乗って。

泥水のような生活用水、食事や車、通訳などなまざまな問題・・・毎日いろいろなことで、先生方にはご苦労をいただいてきた。

水かベッドのダニ類が原因なのか、全員体中に湿疹やかゆみを訴えているような有様。
本当にご苦労をいただいているけれども、パキスタンの人たちの情の厚さ・豊かさを今日は経験していただくことができた。

・・・とにかく食事の件ではずっと頭を悩ませてきていたが、パキスタンで協力隊経験をしてきた者として、ぜひともパキスタンの家庭料理を召し上がっていただきたい、そう思っていた。

そこに大変ラッキーなことに、宿舎のお隣さんがとても好意的な方で(すでにF崎先生がこのお家のお母さんを診察してあげていたこともあって)、毎日声をかけ、時にはW辺看護師さんとこに娘さんが押しかけてメヘンディ(ヘナの粉を水で溶いて腕に模様を描く)までしてくれるような親しさだ。

それで、朝ふと思い立ち、お隣さんに「今晩ごはん食べに行ってもいい?」と尋ねてみる。
すると、「もちろんだよ、みんないらっしゃい!」と即答。
で、夜はそのお隣さん宅に、日イ連合軍6名で押しかける。

動画:2010年9月25日撮影 お隣さん宅で夕食

日本だったら「厚かましいな・・・」と思われるだろうが、パキスタンではこういう展開はぜーんぜんオッケー。
むしろ、これくらい(日本的には)厚かましい方が相手はとっても喜んでくれる。

シンド州にははじめて来たけれど、北部よりも開放的でこうしたストレートなお付き合いや頼み方が好まれるような気がする。

食事ばかりか、エアコンの効いた部屋で(私らの宿舎にはない&網戸もないので蚊がすごい)フルーツやジュースをご馳走になるという贅沢で幸せな時間を過ごさせていただいた。

十分楽しませていただいて宿舎に戻ると、休みではあったが、切れかかっていた発電機用のガソリン、追加のベッドセットが持込まれていた。

2010年09月27日(月曜日)

これまで、NRSPタッタ事務所に多くの応援要員を送っていた Badin バディン事務所のスタッフが引き上げたために、各種連絡をする担当者が変わり、車・ドライバーの手配で混乱が見られた一日だった。

が、担当の方が誠実な方で不都合が多々ある中一生懸命対応してくださっている。
(けれども、これ以降特に車と通訳の確保についてはいよいよ困り、現地で2名通訳を雇うこと、カラチのUPAPから車を1台用立てていただくようなこととなった。それでうまくしのげたので良かったんだな。)

車・ドライバーの手配がついて、11時Thatta タッタ発、現地Pump House Dabeji ポンプハウス・ダベジの小学校に12時前に到着。
12:15~13:30まで学校内の敷地で医療活動を行う。
この場所はKarachi Road カラチロードにも近いため、多くの巡回医療団が入っているとのことで受診者数は41人にとどまった。

午後、第2陣のおひとり、H村医師が予定通りご到着。大変お元気なご様子。
夕方、F崎医師とわたしで物資の購入がてら、Thatta市街のバザールに出かける。
好奇心旺盛で、でもとても人懐っこく接してくれるバザールの人たちがとても印象的だった。

2010年09月28日(火曜日)

今日はこれまでの日程の中で、一番うまくいった一日だった。

朝8時30分、事務所に今日の場所のオーガナイザー、Mr.Tariq タリーク職員(NRSP SAKRO サックロー事務所所長)が来られた。それから、9時前には宿舎からAMDAメンバーをピックアップした車が到着し、車にタリークさんが同乗して、予定していた時間どおりに事務所を出発することができた。

(W辺看護師は体調不良のために宿舎で静養となった。Adhi アディ医師も体調がやや不良とのことだったが、医療活動に参加し積極的な医療活動を行っていた。)

車は、いったんKarachi Road カラチロードの街Garho ガロに向かって、通訳者のAbda アブダさんをピックアップし、そこからSakro サックロー経由で午前10時過ぎに到着。

今日の活動地、Gariwah ガリワーでは、現地出身のNRSPスタッフのAakash アーカシュさんがすでに万全の態勢でセッティングをしてくださっていた。

避難所になっている教室をひとつ空けて下さり、診察用の机・イス・薬品置き用のベッドなどをキチンと整えてくださっていた。そのために準備はすぐに整い、10:15~14:30に医師4人態勢で158人の方を診察することが出来た。

動画:2010年09月28日撮影 Gariwah ガリワーの診療キャンプ

午後3時前には、M本看護師、バングラデシュの方たち(医師、看護助手、調整員)も到着。
夜はタッタ市内のレストランでF崎医師・W辺看護師の送別会、H村医師・M本看護師・バングラデシュの方たちの歓迎会を行った。

その前には、いつも快く接してくださっている隣家の方がかけつけてくださり、豆の手料理でもてなしてくださった。

隣家のみなさん&日本インドネシアの先生方みんなで記念撮影

2010年09月29日(水曜日) キャンプ開けず・・・でも

朝9時すぎにF崎医師・W辺看護師が宿舎を出発。
代わってバングラデシュの3人の方が、一泊したタッタ市内のホテルから移動してきて、宿舎は賑わいをみせている。

すべてが順調に行った昨日と違い、一転して今日は車・人の派遣の件で振り回された一日になった。

私たちの活動時に一緒に動いてくれているYamin ヤミンさんが、Amdaメンバーのピックアップをすることになって抜けてしまい、代わりの車・ドライバーを手配することがなかなかできなかった。

それに加えて、当初本日の活動場所に想定していた場所が、住んでいた多くの被災者が故郷にもどってしまったことで十分な医療活動ができないことがわかり、代替の活動場所を探すことも難しかった。
そのため、午後1時過ぎまで宿舎・事務所で待機となった。

結局、代替の車が手配でき、それに乗って、
Thatta タッタ→ Sujawal スジャーワル→道中のまだ冠水しているエリア→ JATI ジャーティの途中→ Thatta タッタに戻る
という日程で、各地を視察した。

スジャーワルを出てしばらく走ると、道路が冠水をしていて、車が徐行をしながら通りすぎる光景に出くわすこともあった。

動画:2010年09月29日撮影 冠水する道路(Sujawal スジャーワル – Badin バディン間)

また、水が引いたので、故郷に帰る、家財道具それに家族を満載したトラック多数と出くわすことも多かった。
JATI ジャーティという町に向かったが途中水害の影響で道路が壊れている箇所があり、そこから引き返して宿舎に戻ってきた。

夜、翌日の活動先についてミーティング。
医師5名体制になったので、2チーム(医師3名、2名)に分かれて診療活動を行うことに。

チーム1
Y田医師、M本看護師、Usman ウスマン医師(インドネシア)、Haque ハク医師、Uttam ウッタム看護助手、Razak調整員(バングラデシュ)
チーム 2
H村医師、わたし、Adhi アディ医師、Kadir看護師(インドネシア)

という組み合わせで(くじびきで決めたけれど、バランス的にちょうどよいように思われる)明日は向かうことになった。

2010年09月30日(木曜日) このあたりが辛い時期だったかな・・

今日は何とか中型(8人乗り)車を2台確保。
車は慢性的に不足していて確保が本当に難しい。

更に通訳者がThattaに来るのが遅れたために、目的地のDarya Khan Bhatti ダルヤ・カーン・バッティに2台目が着いたのが大幅に遅れてしまった。

しかしながら、ポイント1は11時前から、ポイント2は11時過ぎから診療活動を開始。
それぞれ精力的に活動をしたおかげで14時半ころにはそれぞれ活動を終了する。

ポイント1 10:45~14:15 105人
ポイント2 11:15~14:30 57人  合計162人
の診察を行うことができた。

初めての3カ国医師団での診療活動だったが、大きな混乱なくいずれの場所でも充実した活動ができているようだ。

Razak ラザックさんに私の2台目携帯を持ってもらい、必要な連絡先を伝えていたが、自分でRegional Director タッタ地方4県(Thatta,Hyderabad,Badin,MirpurKhas)の地域ダイレクターのMustafa ムスタファさんに面会のアポイントを取っていて、そのムスタファさんが今日タッタ事務所を訪れてBadin バディンのRegional事務所に戻る前に宿舎まで出向いてくださって、ラザックさんたちバングラデシュメンバーと会談をした。

バングラデシュでもグラミン銀行のようなマイクロクレジットの取り組みが盛んなので、UPAP(NRSPの傘下団体)が行っているマイクロファイナンスの話も踏まえつつお互いの情報交換を積極的にされていた。

夜夕食後にミーティング、翌日の活動場所などについて確認をする。

2010年10月01日(金曜日) パキスタンに来て今年はじめてキレた・・

個人的な話だが、9月1日~グッドネーバーズさんとの北部パキスタンでの水害救援活動以来、感情を露にして怒ったことはなかったのだが、1ヶ月間(数日の日本滞在をのぞいて)休みなしでパキスタンで活動してきて初めてキレた。

前日あれだけ念をおして時間などを調整したのに、通訳者が現れない、車が確保できないことに「プチっ」と頭の回線が切れてウルドゥ語で事務所で怒鳴り上げた。

結局、足りない通訳者の部分は来ている通訳者が一人二役で行うこと、車もどうにか確保できたことで一件落着した。

個々人で我々に非常に誠意をもって対応してくれているのだが、NRSPの現地Thattaタッタ事務所が他の案件をいくつも抱えていて混雑をきわめていること、車・人の十分なリソースを十分に持っていないことが災いしていてこのような事態を毎日抱えている。

というわけで、最近は、
前日、念に念を押して明日のことをお願いする・確認する。
当日朝も早いうちに事務所まで出向き、ひとつひとつ確認をする。
ようにしている。

今日は遠方の GhoraBari ゴーラ・バリでの活動のため、何とか8時出発をとやってきたが、結局出発できたのは9時半だった。

今日の活動場所は
1 High School ハイスクール(9月17日18日に実施した場所)
2 Khamoon Walasyo カムーン・ワラショ(High Schoolから約2キロほど奥に入ったテントキャンプ)
だった。

1 ではY田、Usman ウスマン、Haque ハクの3医師が10:30~15:30の間に138人の診療を
2 ではH村、Adhi アディの2医師が10:45~15:00の間に88人の診療を行った。(本日の合計226人)

昨日今日と酷暑で日差しが厳しくメンバーはみな真っ黒に日焼けしている。
また、ミネラルウォーターもものすごい勢いで出ていて、H村医師は一日5リットル以上の水を飲んでいると話していた。
夕刻、バングラデシュ・インドネシアのメンバーはタッタ市街に買い物に出かけていろいろ楽しんだようだ。

胃薬が足りなくなったために、明日、ラザックさんにカラチまで行っていただき買出しをしていただくことにした。そのために車が足りなくなるので、UPAPから大型車を一台借りることに。
メンバーが増えた分、いろいろな部分でだいぶしんどくなった、が、ここがこらえどころか。

2010年10月02日(土曜日)

今日はカラチUPAP事務所から車を1台お借りし、代わってこれまで一緒に動いてくださってきているYaminヤミンさんの車でラザックさんにカラチに行ってもらい、薬の購入などをしていただいた。

9:30宿舎発、15分ほど走ったGujjo(9月24日に医療キャンプを置いた)のテント村に到着。
話を聞くと昨日他の団体が移動巡回キャンプを置いていたとのことで、今日はGujjoでの医療キャンプは必要ないと判断。
キャンプ1として、Noor Muhammad Thaheem ヌール・ムハンマド・タヒーム という場所(医師3人)
キャンプ2として、Primary School for Boys という場所(医師2人)
で医療活動を行うことになった。

キャンプ1 Usman ウスマン医師、Haque ハク医師、Y田医師、M本看護師、Uttam ウッタム看護助手
11:00~15:30 受診者数 180人

キャンプ2 Adhi アディ医師、H村医師、Kadir カディル看護師
10:45~16:00 受診者数 178人

2箇所合計受診者数 358名 となった。
この日が、今回の南部パキスタンでの活動期間中、もっとも多くの患者さんを診察できた日であった。

動画:キャンプ1の全体風景

動画:キャンプ2の全体風景

この日は本当に暑かった!9月16日にタッタに来て以来、雨は一滴も降っていない。乾ききった空気と刺すような日差しで、歩いているとフラフラしてしまいそうな位だ。そんな中先生方は奮闘してくださっている。

夕方、簡単なミーティング。

これまで、私たちはインダス川西岸で活動してきたが、9月29日水曜日にインダス川東岸を視察してみて、より被害が大きく、支援を必要としていると思われるため、情報収集と、西岸での活動をフォローしてくれるオーガナイザー探しを行っている。

医師5人体制で行える診療活動は翌週月・火・水の3日のみ。
何とかより被害の大きな、支援の必要な場所に行きたいとメンバー全員が思っている。

2010年10月03日(日曜日) 今回のプロジェクト期間での最後の休日

10時前、ネット(WIFI)を利用したい方(Y田医師、Usman ウスマン医師、Adhi アディ医師、わたし)で事務所に出かける。
事務所でネットを利用していたところ、昼前にThatta事務所の現責任者の Ayaz アヤーズさんが出勤してきた。
先週まで被災地各地での物資配布活動に追われていたそうだが、先日現在も水害の被害が続くJATI ジャーティという街を視察してこられたところだった。

先日来、夜のミーティングでは医師から「より被害の大きく、支援の行き届いていないところに入ることはできるか」という要望を受けた。

オーガナイズしてくれそうな方と接触をしてきていたが、同じような要望を Ayaz アヤーズさんにお伝えした。すると、ご自身がつい今しがたまで見てこられた被災地経験と重ね合わされたのか、すぐに携帯で各所に連絡をとってくださった。
Sujawal スジャーワルから Jati ジャーティの間のテント村での活動をオーガナイズしてくださった。

動画: Ayaz アヤーズさんが、現地の担当者に電話で依頼をしてくださっているところ

こうして、私たちはインダス川を渡り、東岸の地で2箇所の医療キャンプを開くことができる見通しになった。

それにしても、グッドネーバーズさんとの活動でもたびたび感じたことだが、行き詰まった時にふいに助け舟となってくださる方が現れて、その後の活動が円滑に進んだり、その日のその時にしか会えない人に会えたりといった不思議な感覚を覚えることがあった。

これがその時で、「インダス川を渡ってより奥地へ」という狙いで初めアテにしていた方が都合が悪くなり、どうしようか思いあぐねていたところに、フイにAyaz アヤーズさんが現れて一気に話が進んだのだった。このタイミングをすごく不思議に今でも思っている。

トータルのマネジメントは、日本のように効率よく行かなかったとしても、パキスタンの人たちはみなそれぞれ善意で動き、応援してくれている。そうした善意の思いの積み重ねが、現地で思いがけない、いい方向への話の展開であったり、人との出会いなど見えない大きな力として作用したのではないかと私は思う。

また、アヤーズさんは同時にシンド州のテレビ局「KTN」のプロデューサーとも連絡をとられて、10月5日(火曜日)夕刻~夜予定でインタビュー・AMDA紹介などを盛り込んだミニ収録を行うような話にまでなっていた。
(5日には実現しなかったが、帰国前日の8日に、こちらもフイに実現してしまった。本当に不思議。)

今日は午後から、通訳者のAhtab アフターブさんの家での昼食のご馳走、夜は宿舎の隣家の方からの夕食のご馳走をしていただいた。
ラザックさんはじめバングラデシュの方々も時にイニシアチブをとりながら楽しまれて、よい一日を過ごすことができたと思う。

2010年10月04日(月曜日) Sujawal – Jati 間でのキャンプ

カラチ・UPAPより車(ランドクルーザー)1台到着。
今日はYamin ヤミンさんが遠方の家庭に帰っていたために、都合2台で9:30すぎに宿舎を出発。

Thatta タッタを出発後、車はSujawal スジャーワルに入った。この街も長く水に浸かり多くの被害を受けていた。この数日来よその場所に避難していた方たちが続々とSujawal、Jatiジャーティの町に戻ってきていて、町は活況を呈しつつある。

SujawalのNRSPオフィスに到着、ここで担当者の Areem アリーム職員に会う。彼がこの地域での活動のオーガナイザーだ。彼のバイクに先導されて、車は Jati ジャーティの方に進む。約20分ほど進んだ道路ぞいの村 Village Ichaliye Ahmed ビレッジ・イチャーリェ・アフマド が第1活動ポイントとなった。

そこから、次のポイントにいくメンバーが分かれてより先の Jati ジャーティに向かって進む。
かなりバンプのある道を30分ほどすすみ、Haroon JATI ハルーン村(JATIジャーティ地区)に到着。

それぞれの拠点で

ポイント1(Ichaliye Ahmed)
11:30~15:00 141人

ポイント2(Haroon JATI)
12:15~16:00 148人

の診療活動を行った。
これらの地にはここ半月来よその場所で避難していた人たちが帰ってきているところで、避難先ではメディカルサービスがあったものの、帰ってきたこの場所にはそうしたサービスがまったくなく、私たちAMDAメンバーがこの地でのはじめてのメディカルサービスとなっているようだ。

この先 JATI ジャーティの町でも状況は同一のようで医療サービスをリクエストする人たちが多数いた。
帰りしな、今回のオーガナイザー関係者の父親を道路脇で診療していたところ、近くに住む方たちが診療を希望し、ドクターたちが対応する場面があった。

2010年10月05日(火曜日)

本日はYamin ヤミン運転手が戻ってきたので、
Thatta タッタNRSPから2台、Karachi カラチUPAPから1台の3台体制で活動を行えた。

通訳の到着が遅れるなどしたが、9:30すぎに宿舎を出発。
Sujawal スジャーワルの道中でオーガナイザーの Areem アリームさんをピックアップ。
そのまま Sujawal スジャーワル ~ JATI ジャーティ間の道路に点在する村落へ入っての活動を行う。

第1グループ(Usman ウスマン医師、Y田医師)
Village Leemoon Meuer 11:30~15:30 141名

第2グループ(Haque ハク医師、H村医師)
Village Hassan Ali Leghari 12:15~16:15 110名

行きの道中に時間がかかるために活動の入り時間が遅くなっているが、各地点で全ての患者を受け入れ積極的な診療が行われた。
(Adhi アディ医師は体調不良(腹痛)のため、本日は静養、その後快復される。よかった。)

2010年10月06日(水曜日):多国籍チーム活動最終日

本日が多国籍医療チームでの活動最終日。
前日体調不良で休養していたAdhi医師も回復され参加。
朝、出発前に宿舎前で集合写真を撮影。

本日もカラチUPAPから車を1台借用し、Thatta事務所からの2台を含めて3台での運用体制とした。
Sujawal スジャーワルにて、NRSPスジャーワル事務所のAreem アリームさんをピックアップして、本日の活動場所に向かう。

道中、道路復旧の作業トラックをやり過ごすために(道幅がせまくやりすごすのに非常に苦労する)時間がかかり、早く宿舎を出発できたのにも関わらず遅い診療開始となった。

動画:2010年10月06日 道中トラックとすれ違うのに難儀をする様子

第1チーム(H村医師、Adhi アディ医師、Kadir カディル看護師)
Suleman Leghari スレーマン・レガーリの小学校校舎
11:00~17:00 131人診療

第2チーム(Y田医師、Usman ウスマン医師、Haque ハク医師、M本看護師、Uttam ウッタム看護助手)
Moosa Lothio モーサ・ロティオの小学校校舎
11:30~17:30 130人診療

宿舎に帰着後、インドネシア・バングラデシュチームは市街バザールでの買い物、隣家での会食などを楽しまれていた。日本チームの先生方にはその間、宿舎でゆっくりと仕事・休息などに充てていただいた。

2010年10月07日(木曜日)

本日、インドネシア・バングラデシュチームの先生方がタッタ発。

今回バングラデシュチームは約10日ほどの短い滞在であったが、Razzak ラザック調整員は、Mustafa ムスタファ地域ダイレクターなどこの地域での重要人物との会談や各医療キャンプ地での積極的な交流など、非常にアクティブに活動をされていらっしゃったことが印象的。

Haque ハク医師はウルドゥ語(ヒンディ語)ができるために、患者・地元スタッフとのコミュニケーションも良好にとれ、とても評判が良かった。

Uttam ウッタム看護助手はあまり医療従事経験がないようだったが、臆せず積極的に活動し、写真撮影等記録係としての役割も同国チームの中で負っていて熱心な仕事ぶりだった。

インドネシアチームは、医療団としては一番最長期間の活動となった。
Usman ウスマン医師、Adhi アディ医師ともに麻酔科が本業とのことだが、活動開始後目を見張る仕事ぶりで、1日150人を超える多数の患者が詰めかけた日も彼らの手早い診療活動のおかげで非常にスムーズに短時間で見終えることができたことは特筆される。

また日を追うごとにウルドゥ語・シンド語を駆使されるようになり、簡単な症状なら通訳なしでテキパキと診断・処方されていたことも印象的だ。

Kadir カディル看護師は口数が少なく寡黙な印象だが、多くの患者への配布が予想されるビタミン錠は、錠剤を入れた袋をあらかじめ何袋も用意しておいたりするなど的確な準備・判断が冴えていた。

バングラデシュチームが合流して以降、2チーム運用での活動だったが、全く問題なくそれぞれが協力的機動的に活動を展開することができたと思う。

2国チームのみなさんを見送って、残った日本人チームが宿舎を出発。
Sujawal スジャーワルで本日も Areem アリームさんをピックアップして。
今日の目的地Akber Mughal アクバル・ムガルは、Sujawal – Jati Roadから横道に入った奥の集落。

しかし、洪水発生から1ヶ月半以上たった今も村への唯一の道は冠水したまま。その道を先導の村人の後について進む。
(進む様子の動画はこのページの最初で紹介)

村では小学校の教室をお借りして本日の医療活動を開始。

動画:2010年10月07日撮影 診療キャンプを置いた学校にて

教室にあった国旗掲揚棒にAMDA旗をつけさせてもらって掲揚させていただく。この日は風が強く一日中旗はたなびいていた。

H村医師、Y田医師、M本看護師の体制
11:00~16:30 120人の方の診察を行うことができた。

活動終了後、最終日に備えて医薬品チェックをしたところ
必須な数種類の医薬品(咳止め用シロップ、点耳薬など)が足りないことが判明。
この段階で手持ちのパキスタンルピーがあまりなく、両替がタッタ市内ではできないこともあり、
いろいろ相談・考慮した上で、NRSPタッタ事務所が持っている医薬品を分けていただけないか交渉することに。

ちょうどこの日、Badin バディンからMustafa ムスタファ地域ディレクターが戻って来られていたので、
当方の医薬品に関する窮状と支援をお願いしたところ快諾。
必要とする医薬品のうちいくつかの種類について調達することができた。
(また、明日最終日夜の夕食をムスタファさんが招待してくださるとのお話をいただいた)

また、足りない医薬品についてはタッタ市内のお店を先生方に回っていただき、必要数を調達。手持ちのギリギリのルピーで支払うことができた。(お店側はディスカウントまでしてくださった。感謝)

こうしてみなさんに支えられて明日の最終日の活動を万全の準備で迎えることができた。

2010年10月08日(金曜日):最後の医療キャンプ

今日は、これまで通勤に問題(遠距離通勤のため遅れることが多かった)Abda アブダ通訳も8時過ぎに宿舎着。Nazir ナジール通訳も9時前には宿舎まで到着。予定していた9時までに宿舎を出発することができた。
Sujawal スジャーワルで Areem アリームさんをピックアップして、Sujawal – Jati Roadを進む。

当初予定していた村には昨日他の医療チームが入っていたとのことで、本日最終日はJati ジャーティの町に向かって奥へ奥へと車を走らせた。
結局、今日は今回のパキスタン医療救援活動全日程の中で宿舎からは一番遠く、最もインドにも近く、医療支援が必要とされる地域での活動となった。

1箇所目:Haji Umer Jat ハッジ・ウマル・ジャット(Jatはカースト名)の集会所かもしくは個人宅
11:15~15:00 61人の診療
(金曜礼拝で休憩が長引いたこと、女性診療については細村・米田両医師が別会場まで往診したため、時間に比して診察者数が少なくなっている)
隣が茶店になっていたりで、ペプシなどのソフトドリンクを差し入れしていただいたり、扇風機をそばに置いて風を送ってくださるなど、いままでにない配慮のある会場となった。

なお、この地ではNRSPタッタ事務所から食糧配布の事前調査チームが展開していて、顔なじみの職員さんとも親しくお話をさせていただく場面もあった。

2箇所目:Memoon Mallah メモーン・マッラーの路上(その奥地は道路整備中で大きな砂利が敷いたままで、その先に進むことが難しい)
15:30~16:45 54人の診察

動画:2010年10月08日撮影 今回の最後の医療キャンプ地

2箇所目は一転して、多くの人々が詰めかけ、整理することもままならないままの混雑の中、しかも屋外の道路上での医療活動となった。
机も椅子も満足になく、先生方には立ったままか、チャールパーイと呼ばれるベッドに座って診察いただくというご苦労をおかけした。

先生方のまわりには診療を求める人、様子を見守る村人が多数ひしめき合い、集中力を維持することが非常に困難な状況下、努めて冷静に的確な診療を行う姿勢を先生方から強く感じた。

M本看護師にも、まわりに多くの関係ない村人がいるなかで薬の処方を行っていただく不便をおかけしたが、大きな混乱は起こることなく、必要とされるすべての方への医療活動を短時間で的確に行うことができた。

先生方に多大なご苦労をいただいたが、無事診療活動は終了。とても疲れた一日だったが、行けるところまで足を運んで、それぞれがベストを尽くしての活動はきっと深い充実感を得られたことと思われる。

夜はタッタ事務所内で、Mustafa ムスタファ地域ディレクターの招待による夕食をいただく。
また、このあと、私ども4人にシンド州伝統の羽織り布をプレゼントしていただいた。

Mustafa ムスタファさんから医師に羽織り布を贈呈

また、シンド州のテレビ局KTNが取材に訪れ、私どもの活動についての取材、それと私へのインタビュー(ウルドゥ語)をしていった。
(10月09日土曜日夜に放送されたとのこと。どう編集放映されたかは不明。)

Ayaz アヤーズさんにインタビューする、シンド州のTV局KTNクルー

2010年10月09日(土曜日)

先生方には深夜、というより明け方までデータの分析、まとめの作業をしてくださる。大変に感謝。

朝までに

・今回の活動の記録(動画・写真)
・参加者氏名、活動期間(ワード文書)
・1枚1枚のカルテからデータを拾い上げてくださり作られたデータ一覧(エクセル文書)
・それを視覚的に分かりやすく構成したプレゼン文書(パワーポイント文書)
を同梱したDVDを、

・Mustafa ムスタファNRSP地域ディレクター
・Ayaz アヤーズNRSPタッタ事務所長
・Masood マスードUPAP代表
あてに3枚作成。

朝9:30に事務所着。いらっしゃったMustafa ムスタファ地域ディレクターに今回の活動終了の報告ならびに診察した患者の疾病内容についてご報告させていただく。

動画:2010年10月09日撮影 AMDA医師団から報告させていただいている様子

AMDAのパキスタン水害救援にかかわるER(緊急医療活動)

南部Sindh シンド州 Thatta タッタ県
9月17日~10月09日までの間で、19日間 のべ26箇所で医療活動
診療患者数 2515名
医師7名、看護師・看護助手4名、調整員3名 計14名
所見:
15歳未満では風邪(32%)、皮膚疾患(15%)、耳鼻科疾患(14%)、下痢(8%)、肺炎(6%)、栄養失調・貧血(5%)。15歳以上は、慢性疾患(28%)、胃炎(17%)、皮膚疾患(11%)、風邪(10%)など。下痢は北部に比して少なくマラリアは非常に少なかった。胃炎、全身倦怠感、疲労など精神的、身体的ストレスを訴える患者も多く見られた。

北部KPK ハイバール・パフトンハー州 Nowshera ノウシェラ県
9月2日~9月30日まで(途中イード休みをはさむ)活動
診療患者数 2464名
医師4名、看護師2名 計6名
所見:
当初懸念されていたコレラやマラリアの流行はない。
主な疾患は下痢(22%)、急性呼吸器感染症・耳鼻疾患(21%)、皮膚疾患(15%)、眼の疾患(12%)、マラリア(6%)

Mustafa ムスタファさんが非常に興味深くデータ内容をご覧になっている様子が印象的だった。

しばらく事務所で過ごしたあと、Ayaz アヤーズ・タッタ事務所長にも同様に贈呈させていただく。
Ayazさん「みなさんには大きな活躍をしていただき本当に感謝しています」とのお言葉をいただく。

残った医薬品については、リストを作成してMustafaさんに提出。「私どものほうで活用させていただきます」ということでそのまま託させていただく。

いったん宿舎にもどり、荷物の整理。
タッタ事務所事務長のMirchoo ミルチューさんがおいでになったので、私どもが今回の活動中に買い求めた生活用品などについて引継ぎをする。
宿舎内に掲示していた地図、日程表などは、翌週この同じ宿舎を使って活動を予定しているシンガポールのNGOへの引継ぎのつもりで置いていくことにした(このまま残っているか本当のところ保証はないけれどできれば引き継いで欲しいな)

今回宿舎に掲示していた現地地図や日程表・動向表など

12:00すぎ、タッタの宿舎発。
14:30すぎ、カラチ・UPAP事務所着。Zahool ザフールさん、それに11日まで延泊予定のHaque ハク先生(バングラデシュ)に歓迎していただいて昼食。

そのあと、薬代金の支払いのために移動。
これまで私とは電話だけでのお付き合いだった店主のMujeeb ムジーブさんだったが、とても物腰が柔らかく好人物。
支払いも無事済ませることができた。

時間が迫っていたが、街中での両替、ならびにクリフトンビーチでのラクダ・馬のり体験まで楽しむことができ、いったんUPAP事務所まで戻ってハク先生とお別れのあいさつをしたあとに空港へ。

空港には20:00すぎの到着だったが、チェックイン・イミグレともに非常にスムーズに進む。
H村医師、M本看護師、わたしはドバイ行きエミレーツにて
Y田医師はバンコク行きタイ国際航空にて
それぞれ予定通り出国。
帰国後それぞれ本部に帰着の連絡有り。

2010年10月10日(日曜日):関西空港着

夕方定刻で関西空港に到着。蚊に刺されまくったひと月だったが、下痢・発熱なし。
でも眠い。無茶苦茶眠い。睡眠時間は毎日2時間~4時間くらいだったし。
飛行機の中でも9割方寝まくっていた。
あさって12日(火)にAMDA本部のある岡山に行く。13日(水)に記者会見予定。

2010年10月12日(火曜日)~13日(水曜日):岡山で記者会見・残務整理

調整員としての諸報告(会計報告含む)と記者会見のため、岡山市内のAMDA本部へ。

AMDA本部

岡山駅西口から歩いて20分くらいのところにある。今年6月に現在地に引越しされたそうで、リフォームされた内装はとてもきれいだった。

特定非営利法人AMDA(アムダ)と控えめな表示。

13日(水曜日)午前に報道関係者の方への記者会見があり、早速その日の夕方に民放の山陽放送 http://www.rsk.co.jp/、岡山放送 http://www.ohk.co.jp/news/ のニュースで私の撮影した動画を織りまぜて報道してくださった。
翌朝には、毎日新聞(岡山版)、朝日新聞、山陽新聞にも掲載していただく。

夜は菅波代表、職員のみなさまと食事。いろいろなお話をお聞きしとても勉強に、また明日への活力にさせていただくことができた。
ご縁って不思議、でもいいご縁をいただいたと思う。夜遅くに西宮帰着。(了)

1.渡航に向けて | 2.GNJPさまと | 3.AMDAさまと