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初稿:2010年9月13日 更新:2018年5月21日(章立て、再構成)
目次 | Table of Contents
はじめに
2010年9月1日(水) – 2010年9月10日(金)の間、グッドネーバーズ・ジャパン(GNJP) http://www.gnjp.org/ の被災地救援活動のお手伝いをさせていただきました。この記事ではその活動の記録を綴ります。
活動地 Khyber Pukhtoonkhwa ハイバル・パフトゥンハー州(略称KP、旧北西辺境州) Nowshera ノウシェラ郡 Risalpur リサルプール市
協力隊平成15年度1次隊同期のAさん(ニカラグア・薬剤師)が国際緊急援助隊の活動でパキスタンに来られました。
緊急援助隊でのご活動のようす(ブログ)
http://j-diario.blogspot.jp/2010/
被災地の子どもたちの笑顔
今回の北部パキスタンでの救援活動中で、私がたびたび実感したこと。
それは、大水害で多くの被害を受けたけれども、子どもたちは変わらず強く明るく元気に暮らしているということだ。
動画:Risalpur リサルプールのテント村の子どもたち(2010年9月10日金曜日)
このテント村には、Pashto パシュトン人の方たちが暮らしている。
前日9月9日の日没で、KPK(カイバール・パフトゥンハー州)のラマダーンは明けて、EID イードを迎えた。パキスタンのお正月初日がこの日だった。
新しい服(寄付される)、おもちゃ、装飾品、香水、メヘンディを身にまとう子どもたち。
部族慣習の強いパシュトン人たちだが、大人たちは私たちに対して大変慇懃に接してくれるし、子どもたちは、この映像に出てくるくらいまでの子たちは男女の壁はなく、無邪気な子ども同士の遊びを楽しんでいる。
一緒に言っている「Pakistan Zindabad パーキスターン ジンダーバード(パキスタン万歳)」は、パキスタンのどの場所に言ってもみんながこの掛け声ひとつで盛り上がれるという超有名なフレーズだ。
この写真の子どもたちの笑顔には何の混じりっけもない。
好奇心旺盛で無邪気な笑顔に救われる思い。
動画:リサルプールのクリスチャン避難キャンプの子どもたち(2010年09月07日火曜日)
こちらは、↑のキャンプから程近いところにある、クリスチャンの学校内のキャンプで子どもたちと「Jeevay Jeevay Pakistan ジーヴェイ・ジーヴェイ・パーキスターン(パキスタンよ永久に)」という曲を歌っている時の様子。
こうした Milli Namma ミッリーナッマ(国民愛唱歌)と呼ばれる曲や国歌、パーキスターン・ジンダーバードのような掛け声は、パキスタンのどの場所・どの民族・どの宗教の人もよく知っている。
子どもたちにとっては、国・民族・宗教・テロ・ターリバーンがどうとかこうとかは関係がない。
楽しいもの、興味のあるものには、目を輝かせてそのまなざしを向け、一緒に笑い・遊ぶ。
パキスタンでは、人口増加率が著しい。人口増加は世界の問題であるが、反面、街は子どもたちや若い人達でにぎやかで社会に活力があることを肌身に感じる。
そうした実相が伝わりにくくなっている今の報道のあり方は残念に思うことがある。
イスラマバード到着:2010年9月1日(水曜日)
未明の関空発フライトで朝方バンコク着。
12時間以上次便待ちになるので、カオサンまで出てきて思いっきりマッサージしてもらう。
足に1時間、タイ式1時間の2時間、400BHTほど。
夕方、空港にもどりチェックイン。
背中に「SRC PB」とインドネシア国旗を胸、帽子につけた一団が。
Satuan Reaksi Cepat Penanggulangan Bencana
災害緊急援助隊 Rapid Reaction Unit for Disaster Management のみなさんらしい。
他に国際機関の欧米人、日本人、大多数がパキスタン人。
あと10日ほどで EID イードなので、故郷で過ごそうと帰省中の海外在住パキスタン人も多いようだ。
待合室で仲良くなったのが、オーストラリアに住んでいるという、アボタバード出身の若い青年。
留学でオーストラリアに行き、そこで仕事をみつけて住み始めた。
2年ぶりに故郷へ1ヶ月の予定で帰るんだという。
家系がパシュトン系だということで色白だが、穏やかな人柄だ。
座席の背中越しには、セーブ・ザ・チルドレンの仕事をしているという子連れのアメリカ人女性が、先程のインドネシア人援助隊の方たちと話している。
このインドネシアの方も Nowshera ノウシェラに入られるそうだ。
で、アボタバードの青年越しに座っている日本人のお若い男性の方とお話をすると、4日ほどの日程でイスラマ・ピンディに観光で滞在においでになるのだという。宿の予約もされていないということなので、イスラマバード空港に着いたおり、もし良ければご一緒においでになりますか?とお誘いする。
30分遅れてバンコクを離陸。2-4-2 のシートパターンを持つエアバス?機は9割方埋まった搭乗率。
大きな揺れもなく22時半(日本時間は4時間足して、2日午前2時半)にイスラマバード空港着。
情報で、水害援助にあたる外国人はアライバルビザが取れると書いていたが、イミグレの一番右の外国人専用ブースの上に、Respectable Foreign Donor という張り紙がしていたので、本当にそういう対応をしているのかも知れない。
イミグレを済ませると、先程の日本人男性さんが、そばにある両替ブースに行っていたので私も5000円ほど両替してもらう。(都市部ならパキスタンでは日本円両替できます)
空港の両替はレートが悪いはずだが、それでも 10000JPY=9600PKR になっていた、ほぼ1ルピー=1円。円高ルピー安が更に進んでいる。
荷物もピックアップ、その荷物を検査機にかけるのも終えて(パキスタンでは到着しピックアップした荷物をX線にかけないといけない・・・たった1台でやろうとするから、すぐつかえて大渋滞する。詳しくチェックできないだろうし、無駄なセクションだと思う)、エントランスへ出ると出迎えに来たすごい数のパキスタン人たちが。
2003年7月に協力隊で赴任した時のような、日本にはない独特な香りに包まれた記憶と同じ匂いだ。
で、分かりやすい場所に数人の韓国の方とパキスタンの人たちが。
グッドネーバーズ・パキスタン事務所長のソンさんたちだ。大変にこやかな表情で歓迎してくださる。
・・・と、私、今回のイスラマ到着時にもうひとつ大切な仕事がある。
それは、後輩協力隊員さんにあたる Nさんの旦那さん(フンザ人)の兄弟に託されたパソコンとカメラをお渡しすること。やっぱり日本で買う製品が人気あるし信頼できますし。
でも、すごい人だかりでなかなか見つからず、その間にソンさんとお話する。
ソンさんはパキスタン在住15年。驚いた。ウルドゥ語が大変流暢だ。
以前は別組織にいらっしゃったそうだが、2005年の大地震以降グッドネーバーズさんとご一緒されているとのこと。
アボタバードに事務所があるほか、 Haripur ハリプールに職業訓練センターを設置して活動されているそうだ。
出迎えに来てくださっているとき、よく着こなされたシンプルなシャルワールカミーズ(民族服)のいで立ちだったが、普段からシャルカミで過ごされているという。パキスタンでの生活をよくご理解されていると思う。
そうしていたら、お目当てのアンゲーズさんとお会いできた。
ずっと長いこと待っていてくださっていて、あらかじめNさんにお願いしていた「T○○○」の私の名前の紙もお持ちだった。
関空から機内持ち込みで運んできたから、絶対壊れていない・・はずのパソコン・デジカメをお渡しする。あーよかった。で、先程の日本人男性さんに、このアンゲーズさん、フンザの人でとても信頼できるから、もし良ければ彼にラーワルピンディのホテルに連れて行ってもらったらいいですよ、とオススメする。
アンゲーズさんも、それはいいね!と、コミッティーチョークそばにあるフンザ系のホテルに友達価格で泊まれるよう言ってあげるよ!と勧めてくださる。
私たち日本人といるより、折角のパキスタン旅行、
ローカル、しかも安心感フレンドリー感日本人との相性の良さ感ではピカイチのフンザの人と過ごすのがなにより楽しいですから~とお二人を送り出した。
(あとで、アンゲーズさんから電話で「彼の滞在中、あちこち回ってあげることにしたよ」と報告が。そう、パキスタンの楽しさはこういうとこなんだよなぁ)
ソンさんは大型のハイエースで来てくださっていた。自分で運転されている。
英語での会話もいいが、ウルドゥで会話するのがパキスタンらしくていい。
私たち協力隊員とおなじ職場に、韓国の協力隊(KOV)の方が居ててとても仲良くさせてもらっていた。
韓国のボランティア(KOV:韓国海外奉仕団)
http://ktc-johnny.com/2004-10-11-kov.html
日本語、ハングルがお互いに分からないので、ウルドゥ語に英語の単語をまぜて会話していたものだ。
日本・韓国のボランティア同士で結婚したケースもあり、異国の地で協力しあって生活していた・・・そういう記憶がソンさんとウルドゥ語で会話をしているとよみがえる。
ソンさんが予約をしてくださっていた、イスラマバードのゲストハウスに到着。
本当に偶然だけれど、昨年12月に私がイスラマバードに来たとき泊まっていたゲストハウスの2軒となりだ。
今回泊まるこのゲストハウスもつながりにくいがWifiがあって、こうやってブログを更新できる。
ソンさんのお考えは、明日、というか、今日2日(木)にNowsheraに行って、物資配布可能な場所をリサーチするということだ。
グッドネーバーズさんは韓国、日本からそれぞれ資金の提供を受けていて、こちらで購入・配布の計画だ。
購入関係ではすでにリサーチされていて、格安で買えるお店は見つけていらっしゃるとのこと。
日本を発つ前にずっとお世話になっていたベーグさんと電話ができた。
TV局クルーのみなさんのアテンドが終わると、今日2日はお時間があるようだ。
現地の情報、車の手配等、いろいろご相談させていただくことにする。
ノウシェラ(Nowshera)初訪問:2010年9月2日(木曜日)
Nowshera ノウシェラ市街の家で被災の様子を見せていただく
Nowshera ノウシェラ郡にて被災した方に水害の様子をお聞きする。
動画中、お父さんの証言
河が氾濫し始めたのが、日中の12時半、私たちの家に水が押し寄せてきたのが午後3時15分頃だった。
チャシュマ(泉)のように水があちこちから湧いてくるような、そんな水の出方で一気に周り全部が水に漬かっていった。
子どもたちが歩くこともできないような水のかさになるところ、私は子どもたちを抱えてチンチ(Qinqki:乗合バイク)まで連れていった。
その最中、ほら足をみてごらん、こんなふうにケガをして化膿しているだろ。
家にあった家具は嫁入り道具もみなだめになった。
この建物(の呼び名)はUsman Buildingと言います。
朝食をとり、09:30にイスラマバードの宿舎を出発。ソンさん(GNPK所長)の自家用車で、ソンさん自らが車を運転して Nowshera ノウシェラに向かう。
高速道路、GTロード(一般道)を使い、12:00すぎにNowshera ノウシェラ郡に到着。ここでソンさんは携帯電話で連絡をとりながら、知人と会う場所を相談。
12:30すぎ、 Risalpur リサルプール市に到着。市内の軍の駐屯地そばにあるクリニックに到着。
このクリニックのドクターをソンさんの車に乗せて、ノウシェラ市街から程近い、テントキャンプを訪問する。
UMMAH http://www.ummah.net/ イスラームの同胞組織からの援助で設置されたテント村。でも半数はキリスト教徒、半数がムスリムの構成になっている。(2010年9月2日)
ここで被害に遭われた家を順番に見て回り、被害状況を把握する。
ここには数軒の家が入居していたが、洪水によって完全に破壊された。
人々は着のみ着のままで逃げるのがやっとで、全ての家財道具は流されたか泥と瓦礫の下にある。
↑の写真の建物の中に入ってみる。完全に屋根や壁が崩落し原形をとどめていない。
建物は見た目が大丈夫でも、中は水に浸かり、泥が堆積していて、住むことができなくなっている。
洪水の襲った地域では、電気水道ガスなどの基本インフラがダメになっている。中でも清潔な水を確保できるかどうかが、感染症予防では重要となる。このキャンプではこのような据え置き式の水タンクが置かれていた。
一応水は確保出来ているが、どこから取水した水かわからないし、炎天下むき出しでタンクが置かれているから100%安全な水だとは言えない。
このキャンプで皆が言うのが「洪水が襲ってきたあと、はえがものすごく発生して困る」というものだった。
キャンプで聞き取り調査をする、パキスタン事務所のソン所長(右から2人目)。とても流暢なウルドゥ語でお話になるし、民族服のシャルカミを自然に着こなしている。
テント、水タンクこそ設置されたが、メチャクチャになった家の中は手がつけられる状態ではない。この地域の家はパキスタンでは一般的なレンガ積み&モルタルorコンクリート塗りの建物が多い。そして鉄筋などは入っていないか、日本の感覚に比べてひどく少ないので、こうした洪水にももろい。
水の通り道になったところは壁が崩落するし、仮に崩落していなくとも、とても弱くなっているので、そうした場所からモノを取り出そうとするとその振動衝撃で崩落する恐れがあるから手がつけられない。
ソンさんの車のエンジンの調子が悪く、Nowshera ノウシェラ市街の町工場に立ち寄って修理ができるか尋ねた時の写真。
右がソンさんの車だが、その車の天井から1mほどの高さの壁に色のついた線が見える。洪水がこの印の高さまで上がったという痕である。この撮影場所は、通常の水面より10m近く高いところにあるので、洪水の威力の凄さがわかる。
ソンさんの車の真向かい、向かって左側の2階建ての建物の1階に町工場が入っていて、旋盤など水に浸かった機械類の修理清掃がようやく終わって試運転をしているところだった。
Nowshera ノウシェラからの帰路、カブール川を左に見ながら。訪れたとき、水はひいていたが、その爪痕が土のひび割れなどに窺うことができた。
Risalpur リサルプールのクリニックのドクター、↑のインタビューで協力してくださったお父さんに車に同乗してもらって、車の修理ができるところはないかNowshera ノウシェラ市内を回った。
表通りだけでなく、裏通り、地元の人しか分からないところを移動したが、いずれも市民の人たちは落ち着いた生活をしているように見受けられた。
建物も、ある程度しっかりした造りなら破壊されていないようだが、床上、1階が完全に水に浸かる被害を受けている家屋が大半で、家財道具、商売道具への被害は深刻なものがあると見受けられた。
今回、グッドネーバーズ韓国、日本それぞれから資金援助がパキスタンの事務所口座に寄せられている。
ソンさん、彼の友人たちで手分けして調査し、主にクリスチャンなどパキスタンではマイノリティにあたる被災者への支援をされたいお気持ちがとても強いように感じられた。
目下、ラーワルピンディの工場に
ベッド用マットレス、枕、夏冬用それぞれの布団、毛布を1200組発注している。
それが出来上がるのが来週火曜日(9月7日)または水曜日(9月8日)だという。
それを順次調査した場所にトラックなどで運び、配布をするという計画だ。
おそらく、9月10日頃、EID イード(断食月明けのイスラームの大きなお祭り)があるので、そこが活動のひとつの区切りになるが、その前に確実に配布できるところを特定してボランティアの人たちと手分けして活動したいというのがソンさんのお考えだった。
こうした仕事をソンさんお一人でやることは難しい。1200組もの生活物資ユニットの配布は簡単なことではないので、私も知りうるパキスタン人とのコネクションをソンさんにご紹介して活用していただければと思っている。
夜、宿舎に、ベーグさんhttp://www.pakistan.jp/ が来てくださる。同じ日の未明まで、日本のTV局の水害取材のコーディネート一切を担当され、パンジャーブ州南部、Multan ムルターンを中心にして動かれていた。
とてもハードなお仕事だったから、お疲れもまだ完全にとれていらっしゃらないご様子だったが、ベーグさんがご覧になったパンジャーブ南部の様子、私たちが見てきた Nowshera ノウシェラの様子の情報を交換しながら、種々お話をいただく。
ベーグさんが取材に訪れた地域はいずれも、水害の被害が甚大だった。町中すべてが水に浸かり、ヘリコプターで物資を輸送しても、着陸できる場所がないので物資を投げ下ろすしかないような場所だらけであったという。
感染症、まず目につくのが、結膜炎の大流行で、みな目を真っ赤にしていたという。
ソンさんがベーグさんと会うのはこれが初めてだが、ソンさんは今回の被災地を回って感じられているクリスチャンへの方たちへの意識から、ベーグさんはご自身の宗派であるイスマイリー派の立場への意識から、それぞれパキスタンにおけるマイノリティーの人たちへの支援が後回しになっているのではという危機感を強くもっていらっしゃると感じた。
そして最も注意を払わなければならないこととして、支援物資の配布だとベーグさんは挙げていて、ソンさんも深く同意していた。
例えば、無制限に物資を配布するようだと、バイクや携帯電話で連絡をとりながら、情報を集める、支援物資かすみとりマフィアのような人たちがいて、連絡しながら配布場所配布場所で被災者を装ってモノをもらうことを繰り返すといったようなことだ。
ソンさんもそこはとても考えるところだ、と言い、ラーワルピンディの工場からそれぞれ目的地限定で必要な物資を積み、その配布場所にダイレクトに届けようと考えていらっしゃる。
配布が大げさなものにならず、確実に届けたいと思う人のところへ・・・というのが、支援物資配給にあたる人たちの大きな課題であろう。
イスラマバード・元同僚さん宅へ:2010年9月3日(金曜日)
夜半過ぎから雷を交えた激しい雨が降る。朝方には上がり、暑いけれど爽やかな風がそよいでくる。
ずいぶんと過ごしやすくなった感じだ。
昨日は昼間食事をする余裕もなく(フィールドに出ているときは、断食月中だし難しい)、かなりクタクタの状態で帰ってきたので、朝までまどろんだり寝たりを繰り返した。
朝食はソンさんとご一緒に。食事をしながら、今日の活動予定や世間話などをして過ごす。
08:30 宿舎発。ブルーエリアにあるCITI BANKにソンさんがご用事があるのでそれについていく。
昨年末来た時も感じた重要施設のバリケード化がここでも進んでいて、車止めや金属探知機つきのチェックポイント、ショットガンを持った警備員が10人近く常駐して目を光らせていた。
しばらく時間があったので、同じ並びにあるOxford オックスフォード大出版のお店に行き、Sindhi シンド語-英語の辞典があったので購入。初心者用と銘打ってあったが、値段はわずか160ルピー(160円)という安さ。いい買い物ができた。
小1時間してソンさんが所用をすませて戻ってくる。
それから、車を走らせてイスラマバード市内の、ソンさんのご友人のお宅に伺う。ソンさんは15年パキスタンに住んでいるが、今日お会いした方は16年住んでいらっしゃるという。それほど長くパキスタンで暮らす外国人を余りしらないから驚いた。
そちらでの用事を済ませて、今度は私の都合でブルーエリアの両替商の多いエリアに行ってもらう。
数軒回って良いレートのところ・・・と3軒ほどまわったが、
2009年12月 10000円→9400ルピー
2010年09月 10000円→9900ルピー
とさらに円高ルピー安になっていた。このままだと10000円→10000ルピーの大台は時間の問題だろう。
両替をしたときの計算書・証明書。もしルピー→円に再両替したいときは、この紙が必要になる。
昼食はイスラマバード市内にある韓国料理レストランで。
ここには協力隊員時代たびたび足を運んだ。ここの女主人も変わらずお元気。
昨年末来たとき、10数名の韓国ボランティア(韓国海外奉仕団:KOV)さんがいるとお聞きしていたが、先月8月に全員パキスタンを退去されたとのこと。残念なことだけれど仕方がないこともよくわかる。
食事をいただいたあと、少し宿舎で休む。
14:30 宿舎から近いところに住んでいる、もとカウンターパート(協力隊員の活動先での同僚)のSeemi シーミーさん宅にソンさんと一緒に伺う。
ムルフン村案件が8月に行われると決まった7月頃にシーミーさんのところに電話をした。
ところが「この電話は使われておりません」という案内が。
知っている全部の家電・携帯にかけたけれども全部同様。
これは何かあったなと思って、Facebookでつながりのある他の同僚に聞くと
” She is out of country ”
という返事が帰ってきた。
あーこれは、海外に移住されたかな・・・と思っていたが、朝、念のためにシーミーさんの携帯に電話をかけると普通につながった。
シーミーさん、旦那さんの Hashimi ハシミさんそれぞれのご両親はデリー近郊のご出身、パキスタン建国時カラチに移住してきた Muhajir ムハージルと呼ばれる方たちの子どものお二人はきれいなウルドゥ語を話されるネイティブ・ウルドゥ話者だ。
そんな訳で、パキスタンに住みつつも親戚はインドに住んでいるのでたびたび行き来するし、欧米などへのご旅行もよくされる。で、ムスリムではあるけれど、インドでお会いする方のようにオープンで気さくなご一家だ。
そのシーミーさんにはお嬢さんが3人いるが、みんなアメリカ・カナダに嫁ぐか大学で勉強している。
シーミーさんの職場の学校が夏休み・水害の影響よる臨時休校で長くクローズされているので、その間3ヶ月間、カナダ・アメリカの娘さんのところを訪れていたのだという。
で、イスラマバードに戻ってきたのがつい3日前というタイミング。いや~良かった、会えて。
ラマダーン中は、ムスリムの人の前で食べ飲みはご法度のような雰囲気がパキスタンにはあるが、こちらの家に来ると断食中であろうと紅茶やお菓子やフルーツが出てくる。
私もそういうときは遠慮しないで食べるので、ガツガツしているのをニコニコしながらシーミーさんが見ている、そんな雰囲気だ。
そうしていると、旦那さんのHashimi ハシミさんが金曜午後の礼拝から帰ってきた。
ハシミさんはイスラマバードで物流・貿易通関事務扱の仕事をしている。
ソンさんがこれからの水害救援計画について話すと、「もしよければ、うちの会社の方でトラックとか手配できるし、海外から救援物資が来るのなら税関での手続きがスムーズになるように手伝えるよ」と申し出てくださる。
何か人肌脱ぐようなことになれば、太っ腹になるのがパキスタン人の気質。
もし、そういうことになればぜひご助力おねがいします、とソンさん。
こういう繋がりの間を取り持てるいい機会にもなって良かった良かった。
楽しい時間を過ごさせていただいたあとに、ソンさんとスーパルマルケット(イスラマバード市内有数のショッピングエリア。スーパーマーケットがインド英語なまりになっている)に出かける。
地図を買うためだ。
グッドネーバーズさんとの活動が終わってすぐに、別のNGOさんとご一緒に活動をさせていただく予定がある。
その活動先に想定されている場所の地図を買いに来たのだ。
イスラマバードで有名な書店
Mr.Books ミスターブックス (スーパルマルケット F6エリア)
London Books ロンドンブックス (コサールマルケット F6エリア)
Saeed Books サイードブックス (ジナースーパル F7エリア)
があって、特に上2つの書店にはパキスタンのDistrict ディストリクト(郡)単位の地図が置いてある。
Mr.Booksに行ってみると、ちょうどEid(イード)前で、日本の年賀状にあたるEid Cardが特別販売されていた。
このMr.Booksの店員は親切で、探している地域の名前を言うとずっとひとつひとつ表示を見ながら地図を探してくれた。
ひとつだけ見つからなかった地域図はあったけれど、大概のお目当ての地図は買えたので満足する。
どれも1部100ルピー~200ルピー(100円~200円)。
その後、映画DVD、パソコンソフトなどを買い、F7ジナースーパルのそばにある中国料理店へ。
ベーグさんが薦めてくれたお店だが、ありえない量の空芯菜が出てきたり、本場の辛いマーボ豆腐が食べられたり、と堪能させていただいた。
夜、バンコク経由でイスラマバードにK事務局長さんが到着。
わざわざベーグさんが運転してくださる車でイスラマバードの宿舎までお連れする。
Saaya(障害当事者団体)の方とリサルプール Risalpurへ:2010年9月4日(土曜日)
今朝も6時過ぎから雨が降ったが、1時間ほどで止み、爽やかな風がそよいでいた。
ここ数日は朝方に雨が降り、しのぎやすいイスラマバードだ。
朝食時、パキスタン事務所長のソンさん、日本のK事務局長さんたちと種々打ち合わせ。
朝食後、お願いしていた09:00よりも早く、08:40過ぎにベーグさんの会社 http://www.pakistan.jp/ にお願いしていた車・ドライバーさんが到着。 Shah Faisal シャー・ファイサルさんと言い、Passu パスーご出身のフンザ人。ゴジャール地方の研究を長年にわたってされている、日本大学・水嶋一雄先生の現地ガイドをされていて、その思い出話を話してくださる。
ソンさんがサンプルとして預かってきたマットレスなどを見せていただいたり、画像・動画のデータをシェアさせていただいたりしたあと、09:30前に宿舎を出発。
10:00前、I-10エリアにある、障害者団体 Saaya Association サーヤ(Shade,カバー、護るの意)協会を訪問。
Saaya Associationhttp://www.saayaassociation.com/
昨日(9月3日金曜日)、ソンさんと夕食を食べているときに、Saaya代表の Mian Asim Zafar アシムさんから電話が。
「明日(9月4日土曜日)、私たちは Nowshera ノウシェラに行って、障害者の方のところに車いすや食糧・衣類・生活道具を届ける予定です。もしご都合が良ければご一緒しませんか?」
という内容だった。
そのことを、ソンさん、K事務局長さんにご相談すると、それはいいねと賛成してくださった。
それで、今日は彼らの事務所に伺うことに。
Saayaさんには、昨年末イスラマバードを訪問したときに伺って以来、Facebookなどでお付き合いを続けさせていただいている。代表のAsim アシムさんは、もとは別の障害者団体の代表をされたこともあったが、新たに団体を興し、学生さんを中心にたくさんのメンバーをリクルートしている。
つい先日引越されたという新事務所は、I10マルカズ(市場)の真ん前にあった。
事務所で、アシムさん(車いすの方)からお話をお聞きするソンさん(手前)とK事務局長
アシムさん:今回の水害でパキスタンは大きな被害を受け、たくさんの被災者が生まれました。その被災者の方たちの中でも、障害者の人は(物資を配布する場所にアクセスすることが非常に困難で)大変な状況にあると思います。
その人たちに私たちは、アクセスのための車いす、食糧、衣類、生活必需品を届けたいのです。
8月20日に第1回目の現地訪問を行ないました。今回は2回目で、Nowshera ノウシェラ郡のキャンプに行きます。近隣のMardan マルダーン郡の障害者リーダーの方が場所の選定交渉などで動いてくださっています。
ソンさんも彼らの活動に大変関心をお持ちになり、今後も情報交換・協力をしていきたいとおっしゃっていた。
物資の積み込みの準備を手伝ってくださる、Sha Faisal ファイサルさん。今日はいろいろなところでアシストしてくださった。多謝。
11:00すぎ、アシムさんたちSaayaのメンバーの方が6~7人、K事務局長さん、わたしたちでイスラマバードを出発。ソンさんはお車の調子が悪く修理を依頼するために残られた。
おととい、9月2日木曜日に通ったときと同様、イスラマバード→Nowshera ノウシェラまで高速道路・一般道を使って向かう。今回、ノウシェラまで高速道路一本、2時間あまりかけて行ったが、避難民の方が道に出ているとか、テントを張っているとかということはなく、非常にスムーズな流れでノウシェラまで到着。
(帰り道、高速道路の入り口が不案内で、Charsadda チャールサダまで走り、そこから折り返したが、高速道路上は全く問題なくきれいで流れもスムーズだった。)
ノウシェラのランプを降り、一般道を走るとほどなく Risalpur リサルプールに到着。
おととい
9月2日木曜日に最初に訪れたクリニックの間近に、Ummahが設置したテント村があった。ざっと100家族600人程の方が住んでいるように見受けられた。パシュトン人・ムスリムの人たちのテント村だ。だから、表には女性は出てこない。男性、子どもたちが道路から見えるエリアに住み、女性たちは離れたエリアにテントのまわりを布で囲い暮らしている。
Saayaのメンバー Muhammad Bilal Rao ビラールさんに水害の被害状況を話していただく。
今回の車いす配布の協力をしてくださっている、Mardan マルダーンの障害者リーダーの方、このテント村の世話役の方に障害者の方たちを紹介していただく。
Asim アシムさんたちがひとりひとりに声をかけ、「車いすがあることで、寝たきりにならず、また大地を歩けるようになるんだよ」と説き、車いすの利用を勧めていく。
動画:車いすの使用を勧めるアシムさん
動画:生まれてはじめて車いすに乗る
生まれて初めて車いすに乗った方たちばかり。乗り心地を確かめていらっしゃる。
この子もポリオのようで、自力で歩くことができない。アシムさんが、子ども用の車いすを持ってくることを後ろのお父さんに約束をしていた。
男性の障害者の方へお配りした車いす・生活物資などと一緒に記念撮影。
今回の訪問に際して、SamaaTV サマアテレビ(民放局) http://www.samaa.tv/ が取材に訪れていた。
男性障害者への配布を終え、続いて女性障害者への配布をするために女性居住エリアに入る。
動画:女性障害者にアシムさんが車いすを使うことを勧めている。
マルダーンの障害者リーダーさんがウルドゥ語→パシュトン語で通訳をしてくれている。
女性たちは、それぞれの家族のテントの中でひっそりと暮らしていらっしゃる。
対象になる方のテントのもとにアシムさんたちが一軒一軒まわり、障害の状態・生活の状態について尋ね、車いす・生活物資を手渡していく。
その際にこの居住区の世話人、マルダーンの障害者リーダーさんがウルドゥ語→パシュトン語の通訳をしてくださっている。
一般に、パシュトン人にとってアシムさんたちパンジャービー人はあまりいい印象を持たれないことがある(地域格差・民族間の微妙なメンタリティーの問題)。
そういう部分でのトラブルを回避すること、それにパシュトンコミュニティーの独自性(男性優位の社会、ジルガ(部族長会議)の尊重)を考慮すると、地元の方の協力は絶対に欠かせない。
一般の報道では、パシュトン人の住むKPK(ハイバール・パフトゥンハー州)はターリバン、イスラーム原理主義者が跋扈し、危険だという印象を持たれやすい。
確かに、Peshawar ペシャーワルや部族地域など近年テロ事件が相次ぎ、厳重な注意を払わなければならない地域が増えた。
キャンプにてSaayaのみなさんと。活動中はずっとシャルワールカミーズ(民族服)を着用している。
しかし、概してパシュトン人は義理や人情をとても重んじていて、礼を失さない限り、彼らはとても親切に私たちを遇してくれる。しかも、日本人に対しては非常に親近感を持っていて、接し方も丁寧だ。
今回の訪問も、シャルワールカミーズ(民族服)着用で臨んだが、それに関係なく、このキャンプの人たちは「サール(Sirのインド訛り、尊称)」と私たちを呼んでくれていた。外国人への攻撃云々はこのキャンプについていえば全く皆無だ。
車いすを勧められた女性が、試乗しているところ。少し小さいサイズだったようで、後日大きい車いすを持ってくることに。
パキスタン国民がみんな所持している身分証明書(シャナーハティ・カード)。
近年、このカードに障害者であることを証明する車いすマークが付いた。
障害年金等、公的な制度はまだ未整備だが、これも、パキスタンの当事者さんたちが運動をした成果である。今回も、支援物資配布の対象先特定の根拠になっている。
このキャンプには写真のように、大型の水タンクが設置されていた。
しかし蛇口をひねっても一滴も出てこない。
みな、援助でもらったか、復旧したお店に行って水ボトルを買うか、巡回する給水車から水をもらっているようすだ。でも、給水車はいつくるか分からないし、シャワーを浴びるとかという水の余裕はまったくない。
ファイサルさん、何度も言っていたけれど、
「ココハ、生活二必要ナ、ファシリティが足リテナイネ」
煮炊きをするコンロもないし、あっても地面に石を置いて急ごしらえのカマドを作っている程度。
私たちが来たあとに、どこかからの援助物資が届いた。
届くとなるとみんなこのようにすごい人だかりになる。
配布する先をリストアップする、それを調整するコミュニティの人がいる、ということをしないと適切な物資配布は難しいと感じる。
16:00すぎ、配布活動を終えて、私たちは帰途についた。
キャンプのそばを幹線道路が走っているが、先程車いすをもらったひとりの若い青年が、キャンプから離れたところまで、ずうっとずうっと夢中で車いすを漕いでいる姿がとても印象的だった。
18:00すぎ、イフタール(断食明けの祈り・食事)前にイスラマバードに着く。
その後、ベーグさんもかけつけてくださり、ファイサルさん、K事務局長、私の4人で、ジナースーパル(F7)にあるカーブルレストラン(アフガニスターン料理)で夕食。
串にさして炭で焼いたカブーリーティッカ、シークカバーブ、マントー、カブーリープラオー(たきこみごはん)などをいただく。メチャクチャうまい。
ベーグさんのムルターンでのお仕事の様子その他をお聞きしたりして時間があっという間に過ぎていく。
ジナースーパル内で若い青年たちが募金箱を持って水害支援の募金を募っていた。
募金・衣類寄付所などで募金箱を置いている様子はみたことがあるが、自ら募金箱を持ち歩きながら募金を募る姿は初めて見たとベーグさん。
あと5日ほどで EID イードを迎える。そろそろ故郷でイスラームのお正月を過ごそうとする人も出てきたし、マーケットにはいろいろな買い物を楽しみに来る人たちですごいラッシュになっている。
アティフさん(障害当事者団体STEP代表)宅へ:2010年9月5日(日曜日)
今日は現地に行く用事はなく、基本、宿舎で過ごす。
宿舎の2軒となりのゲストハウスを、難民を助ける会さん http://www.aarjapan.gr.jp/ が事務所兼宿舎で利用している。
難民を助ける会さんはいち早くこちらの現地に入って積極的な支援活動をされている。
http://www.aarjapan.gr.jp/activity/report/2010/0828_382.html
で、このゲストハウスの主人&息子さんとは昨年末に宿泊して以来仲良くさせてもらっている。
今日も朝10時頃伺うと、主人&息子さんが居て再会を喜び合う。
「おまえ、いつでもうちんとこに泊まりに来いよ」と言ってくれるし。
ドゥードゥパッティー(ミルクティー)をごちそうになりながら、近況をお伺いする。
やはり、水害救援活動で日本・欧米の多くの方が投宿していて、Nowshera ノウシェラだけでなく、Swat スワート、Charsadda チャールサダなど各地に数日行ってはイスラマに戻ってくるといった活動の様子らしい。
お忙しいところを恐縮だったけれど、上階にいらっしゃった難民を助ける会の日本人スタッフのお二人に下までおいで頂いてご挨拶させていただく。
連日、いろいろなご活動で動かれていて頭が下がる思い。
夕食をご一緒できそうな感じなので、再度夕方このゲストハウスに伺いご都合をお聞きすることにする。
15:00すぎ、昨日お世話になった Asim アシムさんが宿舎に娘さんと来てくださる。
昨日(9月4日土曜日) Risalpur リサルプールでアシムさんたち Saaya Association サーヤ協会の人たちが行った障害者支援活動の動画・画像を私も撮らせていただいていたので、そのデータをDVDに焼いてアシムさんに差し上げた。
アシムさんから、明日(9月6日月曜日)のイフタール・夕食のお誘いを受ける。
明日は、日本大使館訪問・両替・携帯購入・リサルプール訪問を予定しているが、それが終わって夕刻までにイスラマバードに戻ってくればアシムさんのお宅にお伺い出来そうだ。
動画:アシムさんの自家用車の乗り方&運転の仕方
アシムさんはポリオのために両足が使えない。それで両手だけで運転ができるように改造されている。
難民を助ける会のKさんから携帯に電話。
今日急用が入り食事をご一緒できないお詫びと、ついさきほど、そのアシムさんらしき人にお会いしたというお話を伺う。ま、すごい偶然。明日、よければそのアシムさん宅においでになりませんかとお誘いをする。
これで、夜時間が出来たので、障害者団体 STEP ステップhttp://www.step.org.pk/ の代表 Muhammad Atif Sheikh アティフさんと、その妹の Abia Akram アビアさんのご自宅にK事務局長とお伺いする。
宿舎からタクシーで30分ほど走らせたイスラマバード市内の閑静な住宅地にお二人とご両親、親戚が住む大きなご自宅があった。
アティフさんからSTEPの活動について話を聞く、K事務局長。左となりがアビアさん。
STEPでは、今回の水害に関しての情報・支援センターを立ち上げている。
ただ、企業等支援してくれる特定のものが現在無いために、ひろく支援を求めている状態。
ただ、アティフさん、アビアさんともに国連・国際援助機関の人には名の通った方達であるので、きっと良き支援の手は差し伸べられると思う。
今回グッドネーバーズさんの活動は、緊急支援の枠組みだが、復興活動もK事務局長のご構想の中に入ってきつつありで、もし実現すれば、アティフさん・アビアさん・アシムさん・その他の有力なリーダーのみなさんと連携協力しつつ進められればとってもいいのに・・・そう思いながらお話を聞いていた。
ノウシェラ訪問・アシムさん宅へ:2010年9月6日(月曜日)
朝食後、09:00にベーグさん http://www.pakistan.jp/ が運転してくださる車で、日本大使館へ。
国会議事堂・大統領府・首相府前の道は完全にクローズ、迂回路は大変な渋滞。それでもベーグさんはきっちり時間前に私たちを大使館まで送り届けてくださった。感謝。
大使館では安全担当の書記官さん方から現地情勢のブリーフィングを受けたり、私どもの活動について情報交換したり。大使館=日本政府としてどういう援助を被災地域にしていけばいいかご検討中の様子で、私たちが具体的にどういうモノを配るかなどをお尋ねになっていた。
10:20すぎ、大使館発。そのままブルーエリアで両替。ベーグさんお薦めのお店だったが、
10000JPY(円)=9950PKR(ルピー)
になっていた、2日に両替した時よりも更に1万円あたり50ルピーの円高ルピー安。
G9カラチカンパニーで携帯電話を購入し、G10のベーグさんの会社近くでShah Faisal ファイサルさん(愛称シャフーさん)とドライバー交代で、モータルウェー(Motor Way 高速道路)経由でNowshera ノウシェラへ。
道はクリアーで快適に走行ができる。
約2時間でNowshera ノウシェラの下り口へ。Risalpur リサルプールの市内を通り、9月2日(木)にソンさんと訪れたクリスチャンの避難キャンプを訪問。
動画:9月2日訪問時の別動画。状況は4日経ってもまったく変わっていなかった。
築50年以上の古い建物であったとのことで、数日間水に浸かっている間にレンガ積みの建物は強度を失い崩落したものと思われる。
この日も雨は降っていない。雨季が終わって乾燥しているとはいえ、日中は30度を超えている印象。
扇風機もなく蒸し風呂になるような中、テントか木陰で日差しを避けて過ごすしかない。
動画:Nowshera ノウシェラの避難キャンプのある場所の様子について説明
この運河から取水し(おそらくフィルターで濾過して)生活用水として使用するため、目の前にある軍駐屯地からポンプを借りて試運転しているようだ。
当面1ヶ月くらいは、給水車に頼ることになるのでは、と避難キャンプの方が言っていた。
キャンプのみなさんとお話。
9月2日火曜日にお伺いしたときにくらべて、救援物資は行き渡っているようで、食事・水(タンクが1つから3つに増えていた、目の前の軍駐屯地から1日2回水が給水車で運ばれてくる)・医薬品(結膜炎用の目薬などが届いているようだ)などが行き渡っている、と責任者の方が話していた。
ただ、これは「非常時のなかで」ということだから、
・テント生活自体の改善(仮設住宅とか)
・壊れた家の修理
・生活手段の保証
の部分は全く何も手がつけられていない。
キリスト教徒の方は、ムスリムと比べると男女の社会性差が開いておらず、同じ場に男女が同席することに抵抗感がない(保守色の強いムスリムなら、成人の異性を同席させることは基本的にない)。
自己紹介や帰るときなどに、私たち男性スタッフに女児だけでなく成人女性が握手をしてくることがあったりする。
キリスト教徒は公式発表で人口の97%がムスリムと言われるこの国では圧倒的にマイノリティだ。
だから、こうした非常時の支援では軍が積極的に参画するなどするが、就職・居住などいろいろな面でムスリムのそれとはことなる扱いを受けることが多々有り、差別される側にある。
だから、自然とクリスチャンのコミュニティの結束は固く濃密なものになっていく。
今日は、このキャンプを見てイスラマバードに戻った。
宿舎に戻り、イフタール前に、Asim Zafar アシムさんが車で迎えに来てくださる。
宿舎から30分ほど車を走らせた郊外のベッドタウンにアシムさんの住んでいる借家がある。
ここで奥さま、お子さん3人と暮らしていらっしゃる。
アシムさん宅でいただたイフタール。中央にある黒い粒がカジュール(なつめやし)。
このあとに食事がどぉーーーんと運ばれてきた。
着いてほどなく、18:40前後のIftar イフタールが始まる。
はじめに、カジュール(Dates:なつめやし)を食べ、それからフルーツサラダ・サモサなどを食べる。
夜の19時~翌朝4時ごろまでに食事をすべてとることになるから、普通に3度分の食事を摂ると太ってしまうことが多い。それで
アシムさん宅ではイフタールと夕食をかねていて、それから朝の食事を摂るようにされているとのこと。
子どもたちも30日間のRoza ローザ(毎日の断食)のうち、5日間挑戦したとのこと。
日本人からすると、断食の概念は理解しづらいものがあるが、アシムさん然り奥さん然り、断食をし、善きことを行うことを、パキスタンの人たちはムスリムとして誇りに思っている。
昨日のアティフさん宅といい、今日のアシムさん宅といい、パキスタンで暮らしていていいなと思うのは、こうした一般のお宅に遊びに行った時だ。
特別な娯楽はなく、ただおしゃべりして、ごはんを一緒に食べて、ドゥードゥパッティー(ミルクティー)を飲んで。
基本それだけのシンプルなものだけれど、
特に日本に帰って日が経つにつれて、こうしたシーンを懐かしく思い出すものだ。
イスラマバードの宿舎への帰りは、アシムさん・K事務局長さん・わたし・アシムさんの車いすでいっぱいなのに、さらに3人の子どもたちが後席のK事務局長さんのまわりにつめこまれた(笑)もので、すごいことに。
屈託なくおしゃべりしまくり、英語をお使いになるK事務局長に関係なくウルドゥで質問しまくるお子たちのバイタリティーに脱帽だ(笑)。
宿舎に戻り、アシムさん宅で撮らせていただいた写真をプリントしにジナースーパー(市場)に出かける。
ここにあるある写真屋さんとは隊員時代から懇意で、1枚10ルピー(10円)のデジタルプリントをいつも8ルピー(8円)の友達価格でやってくれる。
パキスタンの人たちは写真に写ること、写真をもらうことが大好きだ。
仲良くなって、写真をプリントしてあげると本当に喜んでくれる。
動画:Iftar イフタール後の買い物で賑やかなJinnah Super ジナースーパー(市場)
DVDを買ったり、シャルワールカミーズを追加購入したり。
短い時間だったけれど、ショッピングする人たちに混じって楽しい時間を過ごすことができた。
もうあと数日でイードだ。
リサルプールへ:2010年9月7日(火曜日)
いま宿泊していた宿舎のネット環境が悪すぎ(Skypeすらできない)ので、宿を替えることになった。
ベーグさん http://www.pakistan.jp/ の紹介&友達価格にしていただき、F8・アユーブマルカズ近くの閑静な住宅街の中にあるフンザの方経営のゲストハウスに移る。
部屋もグレードアップ、装飾品・調度品にフンザの刺繍や写真があったりして、気分はフンザに泊まっているような錯覚さえ覚えてしまいそう。
ベーグさんは、日本のTV局の取材に同行するため、私たちの車のドライバーをしてくださっているのは、ずぅっと、Shah Faisal シャフーさん。
新しい宿に着き、お茶を飲みながら、シャフーさんにこんなものがあるよ、紙を差し出す。
坂本九さんが歌った「見上げてごらん夜の星を」のウルドゥ語バージョン。もとはヒンディ語バージョンがあってその資料をもらったことがあり、それをウルドゥ表記になおしてみた。
フンザは夜空が素晴らしい。天の川がはっきり見えるし。その場所でこの歌歌ったら楽しいだろうなぁ。そう思ったので、ムルフン村のリンゴ案件が決まったとき小ネタで作ってた。
シャフーさん、日本語が上手だし、日本の人とお仕事もしているし、でとても興味深そうに見てくださっていた。
ひと休憩して、Risalpur リサルプールに向けて出発。
今日も晴天。朝の予報ではPeshawar ペシャーワルなど38℃ということだったので、日差しは大変厳しかったけれど、雨が降らず湿度が低いので風が吹くととても心地良い。
リサルプールに向かう途中、支援物資を積んでいるのであろうトラックと行き合うが、このように「救援物資」と書かれた横断幕を張ったトラックは、今回の水害救援に際しては非常に少ない。
なおかつ、イギリスという国名を出しての横断幕を張ることは、襲撃の対象になりかねないからオススメできないのだけれど。
車は快調に走り、2時間足らずでRisalpur リサルプールに到着。市街軍駐屯地そばにあるクリスチャンの病院にDr.Francis フランシス先生を訪ねる。
事前にソンさんから電話を入れてもらっていたので応対もスムーズにしていただき。
大変びっくりしたのは、ソンさんが発注した1200枚のマットレスのうち、半分の600枚がすでに病院に運び込まれていたことだった。残り600枚も明日(9月8日水曜日)届くという。
それに、ソンさんの助手として活動されている現地スタッフのダニエルさんが配布対象先の300家族を選定し終わっていて、そのリストアップが出来ていたことだった。
それぞれの家族の代表の身分証明書番号、男性女性の数などが詳細に記載されている。
地域にある教会。おそらく英国統治時代からの歴史があるのだろう。
この敷地内の学校におもにクリスチャンの避難民の方(ムスリムの方もいる)が避難生活をしている。
不自由な生活だと思うが、信仰を保っているからだろう、落ち込むようすはうかがえず、子どもたちは屈託がない。
動画:避難所に充てられている学校の教室にて
イスラマバード・ジナースーパーで行われていた被災者への募金・物資受付所
後ろに写っているひとが「宗教に関係なく、私たちは人道的な行動をしないといけない」と力説。
夜、AARのみなさん、アシムさん、ソンさん、それにラホールから来られたAtif Raza アティフ・ラザさんと食事。みんな懐かしい友達ばかりだ。
リサルプールへ・救援物資調達・配布準備:2010年9月8日(水曜日)
朝食時に最終調整。今日、Risalpur リサルプールで最終調整し、あす朝、現地で1200ユニットの寝具類を配布予定。ソンさんがいろいろな調整をしてくださる。更にはアシムさんも4日の日に訪れた場所での障害者家庭への配布に際して調整役を買ってくださることに。
いろいろな方がいろいろなご縁の糸を結び、助け合い助けて救援活動を進めている。
そのことに深く深く感謝。アッラーに、ゴッドに、仏さまに感謝。
おそらく10日金曜日、もしくは11日土曜日が EID イードになる。
EID=イスラームのお正月の前に配れればグッドタイミングだ。
動画:Risalpur リサルプール(Nowshera ノウシェラ郡)のあるクリスチャンコロニーの被災状況
動画:Risalpur リサルプール(Nowshera ノウシェラ郡)のあるクリスチャンコロニーの被災状況
動画:Risalpur リサルプール(Nowshera ノウシェラ郡)のあるクリスチャンコロニーの被災状況
動画:Risalpur リサルプール(Nowshera ノウシェラ郡)のあるクリスチャンコロニーの被災状況
救援物資配布活動:2010年9月9日(木曜日)
8月23日の記事でご紹介した、友人の Khursheed Alam クルシードさんが身を寄せている Peshawar ペシャーワルから Nowshera ノウシェラまでわざわざ会いに来てくださった。
彼はこの一年間で、至近距離での自爆テロ被災経験、豪雨による土砂崩れに車が巻き込まれて九死に一生を得るなど壮絶な出来事があったが、お会いする限りでは5年前6年前の彼とは変わっておらず、お元気なままだった。
物資の配布途中だったので、短い時間しかお話できなかったが、彼がまたいろいろなことを乗り越えられて、障害者・社会的弱者のために活動されるためのサポートができればいいと思っている。
クルシードさん sadadir@yahoo.com の話:
私は、SADA(Special Abilities Development Association)の代表をしています。
しかし、この4~5年、政府軍とターリバーン・テロ組織との戦闘が住んでいたTimergara タイマールガラで激化し、当局の指示で活動を止めるようにという勧告を受けるほどでした。私が住んでいたタイマールガラはSwat Region スワート地方ですが、そこには多くの障害者がいて、ここ2~3年はそうした人たちを支援する活動をしてきました。8月からの水害で最初に被害にあったスワート地方では多くの被害を受け、Mobile 携帯電話、一般電話などの通信インフラがまだ復旧していない状況です。
私たちSADAは、他の多様な団体とPWDs(Persons with disabilities:障害者)のために活動をしてきましたが、今まで有力なDonors 援助者、INGOs(International NGO 国際的な団体)を得ることができませんでした。
水害の前も Jang ジャング(戦い)のために大きな被害を受けましたが、この水害でさらに大きな被害を被っています。この地域の障害者たちは山岳部に住んでいる人も多く、水害後、インフラ・道路の破壊により多くの困難を被っています。
私たちSADAはそうした被災した障害者のために活動をしたいのです。
しかし、どういう問題がありのかわかりませんが、それを援助してくださる団体・機関はありません。
Swat スワートでは、HI(Handicap International 国際的なリハビリテーション機関)が活動していますが、私の本拠地のDir ディール地方では活動をしていません。
Nowshera ノウシェラ、Risalpur リサルプール、寝具を発注したお店(ラーワルピンディ)を回っていて、ホテルの自分の部屋に戻ってきたのは日付を超えた午前1時半だった。
06:30に朝食、07:00すぎに出発。
今日は順番に配布をしていく。2日間で何とか配布を終われますように。
やはり明日10日金曜日がイードの可能性が高い。正月が押し迫り、ピンディ・サダルは午前0時を回ってもすごい人出だった。
あまり寝る時間はなかったけれど、06:30に朝食。07:30前に宿舎を出発。
途中、Saaya Association サーヤ協会の Muhammad Bilal Rao ビラールさんをピックアップする。若い彼は、ぜひとも今日お手伝いしたいと申し出てくださって。
道中、ヒンディ・パンジャービー・フンザの曲を聴いて盛り上がりながら、最初の配布地に向かう。
動画:支援物資の配布に際して気をつけたいこと(Nowshera ノウシェラにて)
動画: 支援物資の配布(Nowshera ノウシェラにて)
今回配布の対象になったクリスチャンの人たちは、行く先々の場所で事前に連絡を済ませていて、配布後速やかにそれぞれの家に物資を持って帰っていった。
どうにかこうにか、物資はNowshera ノウシェラ、Risalpur リサルプールに届けることが出来た。
イスラマバードに戻ったのは21時過ぎ。
ホテルはフンザの方が経営しているホテルで、注文するとフンザローカルの食事が出てくる。
みんなで舌づつみをうつ。
リサルプール~帰国へ:2010年9月10日(金曜日)
公式には明日11日土曜日が EID イードになったが、すでに街中は今日からイード気分。閉まっている店も多い。
朝、現地出発前に、AAR 難民を助ける会さんが宿泊されるホテルにAARの方をお訪ねする。
しばらくの間、お互いの活動の状況、連絡先等などの交換をさせていただく。
AARさんはこれからもこちらを拠点に活動を展開される。無事有意義なご活動ができますように。
昨日(9月9日木曜日)の日没で、KPK(カイバール・パフトゥンハー州)ではEID イード(断食月明けのお祭り)を迎えた。イスラマバードはまだイードを迎えていなかったが、多くの方が地方の故郷に帰っており、食料品店・ガソリンスタンドを除く大方の店はすでに閉まっていた。
道路も仕事・公用中の車はほとんどなく、ガランとしていた。
イスラマバードを出たときは夕立のような激しい雨が降っていたが、道中雨は止み、Nowshera ノウシェラに近づくに連れていつもの厳しい暑さが降り注いできた。
はじめに、クリスチャン病院に Dr Francis フランシス先生を訪ねる。先生と一緒に、近くのパシュトン人居住地域に行き、物資の配布を行う。
その途中に私とK事務局長さんは車で、UMMAHテント村に移動。
前日、世話役のInayat イナーヤットさんに託した30組の寝具類の配布状況を確認するためだ。
前日配りきれなかった残りの支援物資を該当する方々にお渡しする。
白い帽子はパシュトン人が夏季に好んで被る典型的な帽子。バングラデシュ製だった。
動画:テント村周辺の被災状況(2010年09月10日)
テント村はメイン道路沿いの高台にあるが、もともとは下の方に住んでいた。そちらのほうに歩いて行きながら、今回の水害は想像を超える規模で村むらを襲っていたことを改めて実感する。
さて、そのイナーヤットさん。とても仕事に誠実な方で、リストにあげられていた方には可能な限り配布をしてくださっていた。
彼はテント村から程近い場所に家があり、そこの寝室&倉庫のような場所に、配り終えていないマットレスや布団などを置いてくださっていた。
動画: 対象者以外で集まった人々に世話役のInayat イナーヤットさんが説明をする(2010年09月10日)
このテント村に配らせていただいているのは、障害者または老齢の未亡人など弱者の方30人。
ウルドゥ語で disabled 障害を表す معذور maazuur マーズールというのは原義が「免除された」つまり施しを受ける対象の人であるということ。
障害者以外にも社会的弱者である未亡人や老齢の人もその対象に入ってくる。日本人が考える障害者とパキスタンの人が捉える障害者のくくりが弱冠違うが、あくまで現地の方の考えを尊重することが第一だろう。
このテント村で調整役を買ってでてくださっている Mr.Inayat Ali イナーヤットさん(ウルドゥ語で「親切」という意味)に、このテント村の障害者(社会的弱者)の方たちがどのような困難に直面しているかお聞きしてみた。
動画: テント村の障害者たちが直面している問題を説明するイナーヤットさん(2010年09月10日金曜日)
インタビュー中たびたび出てくる「サル」という単語は、Sir サー(尊称)のインド訛りだ。
Mr.Inayat Ali イナーヤットさんの話
このテント村の障害者たちが直面する一番大きな問題は、住む家を失っていることです。
そのことにとても、 (Pareeshan パレーシャン) 困っています。しかし、それに対して政府な何もしてくれていません。
みんな、どうすれば家を建て直すことができるだろう?、そのことを考えています。
それで、私たちは今まで、(アシムさんたちSaayaのみなさんの協力で)Wheel Chairを提供させていただくことができましたし、マットレスや毛布なども今回提供していただくことができました。これからも必要なニーズに応じていろいろな支援をしていきたいと思います。
今回の水害によってこうしたテント村が数えきれないほどできた。
もしかしたら、僅かばかりだけれども、こうした支援が届いているのはラッキーなほうなのかも知れない。
これからしばらくしたら、AMDAさま http://amda.or.jp/ とご一緒に南部シンド州の被災地に入ることになる。
そこでは必要な支援が届いているのか、自分の足で歩き、見聞きしていきたいと思っている。
動画:テント村で正月を過ごす子どもたち。爆竹を鳴らして遊んでいる(2010年09月10日金曜日)
テント村はとてものんびりした雰囲気だった。
大人たちはテントや木陰でのんびり過ごしていて、はしゃぎまわっている子どもたちの歓声があちらこちらから聞こえてきていた。
全壊した家はさほどではないように感じるが、水に数日間浸かった家は多くががレンガ積み&漆喰またはモルタル仕上げの脆弱な構造のため、ひび割れ・亀裂が走っている家がとても多い。泥にまみれ、悪臭を放つ家を綺麗にし、電気配線などを修繕して住めるようになるまでに相当な手間をかけなければならないだろう。
そういう困難があるけれども、子どもたちの元気な声を聞くと正直ホッとする。
動画 リサルプール市内にて。水牛の一群をやりすごす(2010年09月10日金曜日)
動画: 鈴なりになって人々が乗るQINKQI(キンキ:乗合バイク)りサルプール市内にて
ドライバーのシャフーさんいわく、「EID イードを迎えると、みんなで連れ立ってピクニックに出かけたり、親戚の家に出かけるんだ、それでこれだけ人がいっぱい乗っているのさ」と。
それにしても、EID イード初日を迎えたRisalpur リサルプール市内では、どの乗合バス・車もこんな感じだった。まさに「鈴なり」。
動画: 鈴なりな「スズキ」(乗合自動車) リサルプール市内にて
こちらも同様に人で鈴なりになっている、スズキ製の小型トラックを改造した乗合バス。
窓から手を振ると陽気に手を振りかえしてくれる人が多かった。
水害後、しばらく雨がなく猛暑だったNowshera ノウシェラやRisalpur リサルプール。
風が吹くと土煙が舞うほどだ。
酷暑はテント生活には良い影響を与えないが、反面、マラリアを媒介する蚊の発生はある程度抑えられているように思われる。
ついひと月前の水害時、地域全体がすっかり水に使っていたとはとても信じがたい気持ちになる。
地震と違い、破壊の痕が分かりにくいことも、世界の関心をよびにくい理由のひとつになっているのだろうか。
ギリギリの時間でイスラマバードに到着。
荷造りをし、イスラマバード空港に着くと、しばらくしてベーグさんが日本のTV局の方と一緒に現れた。
ベーグさんは、自衛隊が派遣されているムルターンを中心に、TV局の取材クルーさんと一緒にあちらこちらを駆けまわっていらっしゃった。
パキスタン出国のギリギリのタイミングでまたお会いできたことをうれしく思いつつ。
またお会いできることを楽しみにしつつ、ベーグさん、シャフーさん、ソンさんとあいさつをかわす。
飛行機は定刻でイスラマバードを出発。大きな揺れもなくバンコク着。
ややしばらくトランジットしたのち、9月11日(土曜日)夕刻関西空港に到着した。