アフガニスタン・ペシャワール会職員拉致事件に思うこと。

初版:2008年8月30日 更新:2018年5月25日(リンクチェック・章立て・文章手直し)

事件の経過

週明け。
アフガニスタンから飛び込んできたニュースに釘付けになった。

Wikipedia | アフガニスタン日本人拉致事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E6%8B%89%E8%87%B4%E4%BA%8B%E4%BB%B6

2008年8月26日(火曜日)、アフガニスタン東部ジャララバードで活動する非政府組織「ペシャワール会」の日本人ワーカーが、何者かに拉致された。
2008年8月27日(水曜日)、アフガニスタン国内で日本人男性らしい遺体を発見。
2008年8月28日(木曜日)、発見された遺体を拉致された日本人男性と確認。
2008年8月29日(金曜日)、亡くなられた日本人男性を偲ぶお別れの会が現地で行われる。ご遺体が日本に向けて出発。
2008年9月1日(月曜日)、故郷の静岡でご葬儀。

ペシャワール会を知ったきっかけ

ペシャワールという地名は小学生のころから知っていた。

”ソ連侵攻後、パキスタンへ逃れてきたアフガニスタン難民のキャンプがペシャワールという街にできた”

勉強嫌いだったから大口たたいているだけだったけれど、小学生のころ外交官になって難民とか大変な人たちを助けるんだ、そんなことを思っていたから、難民キャンプの様子がテレビで流れるとじっと見入っていた。

そして2003年春。
私は協力隊員としてパキスタンに派遣されることになり、長野・駒ヶ根訓練所に入所した。

訓練所で初めてペシャワール会の存在を知った。
テレビ番組の録画だったか、本だったか、任国講座という講義で聴いたからだったか、定かではない。

協力隊、JICA、国のODA事業とは一線を画した活動をされていること、
私が小さいときから地名だけは知っていたペシャワールでずっと活動されていること、
などなど。

現地に行く前だったから、”国の事業と一線を画して”といっても、どう違うのかイメージは掴みにくかった。
ただ、素直にへぇ~一生懸命やっていらっしゃるんだなぁ、そういう印象だった。

駒ヶ根訓練所での訓練が終わり、パキスタンに派遣されたのが2003年7月。
現地に着いてからは言葉の壁、異文化での生活、仕事での不慣れ、、、そんなことが一気に押し寄せてきて、あれよあれよと1年が過ぎた。

パキスタンだけでなく、協力隊を派遣するにあたっては、その地域で安全に活動できるかどうか、JICAは慎重に判断をする。

1995年にパキスタンへ協力隊員が派遣開始され、ペシャワールにも隊員が赴任したことがあった。
でも、印パ緊張、911事件、宗派間の衝突など不安定要因があって、私が赴任した2003年当時は、ペシャワールを含む北西辺境州(N.W.F.P)のほとんどの地域で活動はできなかった。

隊員の活動地域はイスラマバード・ラホールなど大都市が主で、国土の半分以上の地域への旅行も制限されていた。
だから、同じ国で活動をしてはいるけれど、ペシャワール会との接点がないままだった。

NHKでのペシャワール会特集(2004年)

派遣から1年が経ったころ、日本の友人からNHKでペシャワール会の特集番組があったことを知らされた。
衛星放送で再放送が見られるかも・・・とJICA事務所に夜遅く行き、テレビの前で今か今かと待ったが、電波状態が悪かったか視ることができなかった。
でも、ありがたかいことに、その友人が録画したテープをわざわざパキスタンまで送ってくださった。

戦乱と干ばつの大地から~医師 中村哲 アフガニスタンの20年:NHK-ETV特集(2004年7月17日放送)
http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2004/0717.html

番組は、代表の中村哲さんが出演され、
なぜペシャワール会を立ち上げたのか、
そしてこれからどう進んでいくのか、
を豊富な映像資料をもとに紹介されていった。

自分がいまリアルタイムで活動しているパキスタン、
そこで見聞きし暮らしてきたのと同じ風土、顔立ちの人々が映像に映る。
その映像の中に自分をオーバーラップさせやすかった。

医師としての医療活動にとどまらず、井戸掘りと用水路づくりに活動を発展させていく行動力、着眼力には驚くしかなかった。

日本では、パキスタンについて、
”おっかない、怖い”
イメージがあるのではないだろうか。

確かに、身の回りの用心は日本よりも慎重になるが、当時のイスラマバードはパキスタンの中では平穏なもの。
生活に慣れると、夜遅くにバザール(市場)とかへ出かけて帰るってのもよくあったし。
コンビニと自動販売機と公衆トイレがないだけで、生活の苦労はそれほど感じない・・・・そういう風に当時思ったりしていた。

せっかくの異文化での2年間、いろいろなことを知りたいという気持ち。
それと、現地生活に慣れ、マンネリになることを避けようと思っていた気持ち、それがきっとあったのだ。

だから、協力隊では行くことのできない、住むことのできない地域で活動するペシャワール会にとても興味をもったのだと思う。

日本の友人から送っていただいたビデオは、街のビデオ屋でCDに焼き直してもらい、希望する隊員さんに見てもらったりした。

ペシャワール会病院の見学(2005年)

ぜひペシャワールの本部病院を見たい!
そういう気持ちが募っていった。

ペシャワール会の公式サイトを見て、手続きを確認し、見学させていただきたい旨を連絡した。
そのころのペシャワールの情勢は比較的落ち着いていたこともあって、ペシャワール会事務局の方からもJICA事務所サイドからも訪問の許可をいただくことができた。

日程を調整し、活動中の隊員さんにも声をおかけしてペシャワール会現地病院(PMS)を訪れることができたのは帰国半年前の2005年1月のことだった。

Peshawar Kai Medical Service : ペシャワール会病院の見学(2005年1月16日)
https://ktc-johnny.com/2005-01-16-peshawarkai.html

熱心に働く日本人職員の方たち、
一緒に働くパキスタン・アフガニスタン人スタッフにも熱心に仕事する方がいて、
きちんとした組織運営がされている病院だと思った。

その時、中村哲さんはいらっしゃらなかったけれど、中村さんの思いがスタッフに伝わっている、そういう志を場の雰囲気の中に感じた。

スタッフの方たちとの懇談(2005年1月)

訪問時に思いがけず、日本人職員の方々のご好意で、当初予定になかった昼食会を持ってくださった。
質問させていただいたり、職員の方のお話を伺うことができる、貴重な機会だった。

訪問後、帰国、そして事件を知る

帰国後も、ペシャワール会のサイトで現地報告を読ませてもらっていた。

近年(2008年当時)、パキスタン政府がアフガニスタン難民を全員帰国させる方針に転換し、そのため、援助団体として活動を認められていたペシャワール会が、拠点をアフガニスタンに移さなければならないかもしれない、、、そうした情勢の変化も気になっていた。

そして、先の事件が起こるほんの数日前。
一緒にペシャワール会病院を訪れた協力隊OBの方が中村哲さんの講演会に参加し、その様子を知らせてくださった。
OBの方のメールを読みながら、ペシャワール会のことを思い返していた。

それから間を置かずの悲しい事件。

お亡くなりになった日本人ワーカーさんが体験されたこと、感じたことの幾分かは、私も経験してきているように思えた。
そうであるから、

”危険であることは承知しているけれども、何とかこの人たちのためになることをしたい”

と思われたのではないか。
私の限られた経験の中で考えてみても強く伝わってくるような気がしてならない。

他方、その日本人ワーカーさんが拉致されたと聞くや、1000人もの現地住民が捜索・追跡を手伝っている。
ペシャワール会への現地の人々の信頼の大きかったことを強く感じるニュースだった。

Daily JCF | NGOメンバーの死と<不朽の自由作戦>=OEF(2008年8月28日)
http://jcj-daily.seesaa.net/article/105634994.html
事件の報道についてまとめられたもの。

お亡くなりになったワーカーさんが、アフガニスタンに渡られてから4年8ヶ月が経っていたという。
私がイスラマバードで活動していたころにアフガニスタンに来られ、そして今までずっと活動を続けておられたことになる。

その献身的な活動に敬意をささげ、心からそのご冥福をお祈りします。

事件を機に考えたこと

今回の事件は、私が暮らし見聞きした場所に近いところで起こったことだから、ショックは大きかった。
事件が起こる前は好意的に扱われていたペシャワール会が、この事件を機にバッシングされはじめていることに大変驚いている。

こうした風潮は、2004年のイラクでの日本人拉致事件以後、日本人の海外危険地域での渡航・活動に対して厳しい論調が目立つようになってからより強くなったように思う。。

Wikipedia | イラク日本人人質事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E4%BA%BA%E8%B3%AA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

1993年、カンボジアの平和維持活動に従事していた日本人国連ボランティアが銃撃されて死亡した事件があった。

Wikipedia | 中田厚仁
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%94%B0%E5%8E%9A%E4%BB%81

国連ボランティアとNGOワーカー。

働いた場所も、その危険度など実情に違いはあるけれど、その国に対して何かをしたいという志を持って渡っていったことは同じ。

でもそれを受け止める社会の雰囲気は変わってしまったようにも思える。
私が悲しく思うことは、
”事件に遭った人々を厳しく指弾する意見にそのまま反射的に反応して、徹底的に追い詰めるかのような風潮”を感じることだ。

いつの世も変わらないことだと思うが、

いまは正義だ、まっとうだと思われていることが後年正反対の評価を受けることがある。
シロがシロとも言い切れないし、限りなくシロに近いクロもあれば、クロに近いクロもある。
単純に割り切れない世界。理不尽なこと、不条理なこともたくさんある。
「毀誉褒貶(きよほうへん)」、自分の人格を出して活動すればするほど、評価の声もバッシングの網もかぶることもある。

いつかパキスタン協力隊の先輩とお話をしているときに、昨今のきな臭いパキスタン情勢の話題が出た。

私 :「パキスタンもいろいろな事件があって、支援事業も大変ですよねぇ」、
先輩:「そういうところで右往左往しても始まらない。どんなことになっても支援を続けていくんだってハラでいるよ」

中村哲さんのことば(2004年番組にて)

今回の事件を機に、改めて2004年に放映された番組を見直した。

アナウンサー:
この20年間、一度も、もう疲れた、嫌になった、あきらめようかな、とそういう考えが浮かんだことははないんですか?

中村哲さん:
いやしょっちゅうありますね。
けど、ま、ここでひきさがっては男がすたる と、ま、ちょっとこれは語弊がありますが、やはり、こんなことくらいで日本人がくじけておれるかという気持ちがあるのと、まぁ自分がいなくなったらこの人たちは困るんじゃないか、と、思ってですね、ま、仕方がないけど、ま、ちょっとがんばるかということで月日が流れていったような気がしますね。

わかりやすい筋書きとしてはですね、
中村医師という立派な高潔なヒューマニストがいて、そこで忍耐強く粘り強くがんばってそれに感動した人々がそれに付いてくる、というのが話としてはわかりやすいんですよ。
ところが実態はそういうもんじゃなくて、もうだめかな、という時にいやーもうちょっとがんばってみるか、と、このまま帰って行くのも、自分の恥がどうのこうのじゃなくて、こんなことくらいで日本の男がひきさがっちゃ、世の中つまらないよ、という気持ちと、それと、残された人が困るんじゃないかという気持ちでですね、
ま、いわばかろうじてつないだ、ということはたくさんありますね。

ペシャワール会では、日本人スタッフのアフガニスタン国外退去などの対策をとるとニュースなどで伝えられている。
これ以上の悲劇が出ないようにそうした対策は必要だ。
親よりも先に子どもが死んでいく不幸はない。

しかし、先のインタビューの中で中村さんが話されているように、このままでは放っておけない、そういう切実な気持ちで何度も挫折の危機がありながら続けてこられた活動であると思う。

国連もJICAも入るのが困難な場所で。
その事業は未だ途中。

現地の人を感染症から救う、飢えさせない、生活の基盤を作ろうという願いから始められた井戸掘りだし用水路建設だし農場整備だから、現地の人が望む限りこの事業が成就することを切に願っている。

ペシャワール会からの号外

2008年9月24日(水曜日)
今日、ペシャワール会から会報の号外が届いていた。

会報号外

会報号外

その中の一部記事は以下のリンクで読むことができます。

追悼:現地ワーカ伊藤和也さん
http://www.peshawar-pms.com/kaiho/ito/tsuitou3.html

現地の人たちの話、ペシャワール会の方の話、どれも胸を打たれるものだった。
そして、お父さんの話を読ませていただいて、亡くなった伊藤和也さんを育てられたご両親・ご家族の懐の大きさを強く感じた。

現実に心配していたことが起きてしまいましたが、私たち家族は決して和也をかわいそう、気の毒など思っておりません。小さい時からやさしく他人思いの子で、妹・弟に対してもいつも自分は一番後でいいと言って何でも譲っていました。

(中略)


むしろ今回の事で改めて我が子がこんなにもたくましく成長していることに喜びさえ感じます。


(中略)


和也は新たに別の世界に旅立ちましたが、また大好きなアフガニスタンの地で心暖かな村の人達と一緒になって井戸を掘り、川を造り、作物を育て、子供たちと仲良く話をしていると思います。私たちは決してアフガニスタンを憎んでおりません。恨んでおりません。ほんの一部の人間によりこのようなことになりましたが和也も同じ気持ちだと思います。


(中略)


たまに帰ってまた出掛けるとき、いってらっしゃいと声をかけると、行くんじゃなくてアフガニスタンに帰るといって出ていきました。「アフガニスタンの夜空は星がキレイだよ」と言っていました。和也はアフガニスタンの星になりました。そして我家の大きく輝く星になりました。逢えなくなったことは寂しいですが、和也はアフガニスタンで生きております。


(中略)


今回の事で和也は私たちが無くしていたもの、忘れていたものを教えてくれました。思いやり・人の心の暖かさ・そして急ぐ事無くゆっくりでも少しずつ積み上げていく事の大切さ、道徳の心を。

伊藤正之様挨拶より
http://www.peshawar-pms.com/kaiho/ito/ito1-3.html

このお父さんのお話を読ませてもらって、改めて人にとって大切なものは何かを考えさせてもらっている。

この会報号外が届く前にも、ある報道記事にも私は大変胸を熱くし、やはり人にとって大切なものは何なのかを考えていた。

瞬間瞬間を迷いなく生きた(同僚の方の言葉)

「瞬間瞬間を迷いなく生きた」伊藤さんの同僚が振り返る
YOMIURI ONLINE(読売新聞:2008年9月1日(月曜日)配信:リンク切れ)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080831-OYT1T00731.htm

伊藤ワーカーさんとずっと一緒に働いていらっしゃった同僚ワーカーさんのインタビュー記事。
そのワーカーさんが、

4年以上にわたる共同生活を振り返り、「大好きな村人のために瞬間瞬間を迷いなく生きたと思う」と語った。

というくだりにとても強く心を動かされた。

仕事上での悩み、問題はきっと山積みだったに違いない。
それだけではない。日本に居てても十分わかるアフガンの治安悪化、それにペシャワール会を評する様々な声・・・。

そうした波に微動だにしない信念で仕事をされていた姿を、さきのワーカーさんのことばに私は強く感じる。

さきのお父さんの言葉にもあった「私たちは決してアフガニスタンを憎んでおりません。恨んでおりません。」というところ、ご本人もまったく同じ思いにちがいない。

アフガニスタンにとっても日本にとっても世界にとっても、有為な人材を失ってとても悲しく思うが、その生き方、姿勢を学べていることをとてもありがたいことだと思う。

ペシャワール会の活動(テレビ報道)

Youtube : 伊藤さん殺害から1年 アフガン…日本人医師の挑戦(1)

テレビ朝日「ニュースステーション」2009年報道