初稿:2005年11月23日 更新:2018年5月16日(章立て)
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2005年11月21日(月曜日):ムザッフラバード
朝食をとり荷物をまとめたあと、ムザッフラバードに移動しました。
ムザッフラバードを州都とするアーザード・カシミール州(Azad Kashmir:自由カシミール州)は内務省の許可がないと外国人が立ち入ることのできない地域でした。しかし地震後は許可なしで外国人が入ることができるようになっています。
バラコットを出発しておよそ2時間、山々に囲まれたムザッファラバードの街が見えてきました。やはりこの地でも川沿いや大きな空き地にはいくつものテント村が設置されていました。
↑また、この朝にはNWAで活動されているきむかつさん(blog.kimkatsu.com)が私たちのところにお出でになりました。
きむかつさんはNWAがイスラマバード郊外に設置するテント村への入居希望調査のために訪れていらっしゃいました。ご自身の旅を中断されての活動に頭がさがります。

ムザッファラバード
私たちの車は市街を進んだところにあるカシミール大学に到着しました。ここには空き地という空き地にテント村が設置されていて、各種NGOが医療キャンプを運営していました。
ここでもそれぞれのキャンプを回って実態調査です。
やはり怪我のために寝たきりになっている方が何人もいらっしゃいました。脊髄損傷のような大きな怪我の方はイスラマバードなどに搬送されたとのことでしたが、それでも家族と離れ離れに暮らすことが難しい婦人や女性の方がテントの奥でひっそりと横になっているというケースが見られました。
そうした方のリストを作りつつメンバーたちで励ましの言葉をかけていらっしゃいました。
夕方日没前まで活動をしたあと、夜遅くにイスラマバードに戻ってきました。
やはり現地に足を運び、現地の方の声に耳を傾けることでマイルストーンのみなさんの脳裏にいろいろな構想が浮かんできているようでした。
2005年11月20日(日曜日):バラコット
水たまりに氷は張っていなかったので氷点下にはなっていなかったようですか、空気が乾燥しているからでしょう、刺すような寒さを感じていました。またそのせいでのどがいがらっぽく風邪をひきかけていたように思います。
メンバーの方は休んでいらっしゃったので、少し早起きして街の中をひとりで歩いて周っていました。
被災後1ヶ月経ち、八百屋・雑貨屋・ミーターイー屋(お菓子屋)・食堂・ローティ屋などがポツリポツリと開くようになってきました。バスもマンセラ・ラーワルピンディ方面などへ行くワゴンやバスが以前よりも多く行きかうようになってきました。
また、テントや仮設ハウスで学校を再開し始めています。
多くの方がより暖かいイスラマバードなどのテント村などに避難していく一方、住み慣れた場所を離れることのできない多くの方がこの地で越冬しようとしています。
朝食をとったあと、メンバーのみなさんはとても精力的に動きました。
軍のメインキャンプで自分たちの活動について責任者の方に説明したり、各キャンプ地をまわって脊髄損傷など重篤な障害を負った方がいらっしゃらないか聞いて回っていました。
あるキャンプでは、MD(筋ジストロフィー)の障害を負った方と出会いました。その方はその障害に加えて足を怪我されていました。
また地震のショックから会話がスムーズにできなくなっていらっしゃいました。その方と会ったシャフィークさんは早速イスラマバードにいるスーザンさん(世界銀行)と連絡をとり、移送できるような段取りを組んでいました。
また、あるキャンプでは19歳の息子さんを亡くされたお父さんに対しその場でご冥福の祈りをともに捧げるということもありました。
あるキャンプでは年老いたお父さんがCP(脳性まひ)のお子さんと暮らしていらっしゃって、地震後そのお子さんが食事をほとんどとれなくなっていることをとても心配していらっしゃいました。
それぞれのキャンプで重篤な障害のある方のリストを作ってもらいながら、行けるところにはその場所まで行っていろいろなお話を聞いたり励ましたりしていらっしゃいました。
「寝たきりだとトイレを我慢したり、水を飲むことを控えたりして、そのために腎臓などを痛めかねないことがあります。どうかしっかり水分を補給してくださいね」
「寝たきりの方の体位は定期的に変えるようにしてくださいね。でないとジョクソウになってしまいますよ」
重篤な症状の方は地震発生後にヘリコプターなどで各地に搬送されたと聞いています。でもさまざまな事情で現地にとどまる方もまだまだいらっしゃることが、こうしてキャンプをまわって知ることができました。
夜は軍のメインキャンプで現地で活動するNGOのメンバーを集めてのブリーフィングが行われました。
そこでは軍が集約した被災地域の情報を集まったNGOのメンバーに伝え、さらに各NGOが入手した情報を教えてもらう情報交換の場となっていました。
その場でもシャフィークさんはメンバーを代表して
「私たちは現地でとどまっている障害者の方たちをサポートしたいと考えています。何か情報がありましたらぜひ私たちに伝えてください。」
とアピールしていらっしゃいました。
そのあと、ヘリポートを管理している軍の方に招かれました。
そこでは軍の方の苦労話もお聞きすることができました。
「支援物資を被災者に平等に配りたいのだけれど、これがとても難しい。たとえば昼間テントをもらえたとしても夜のうちにクルクル巻いて売ってしまう。で、また”テントをください”と別のNGOに頼んでもらう・・・そんなことがあるんですよ」
「被災直後はヘリで運ばれてくる物資の受け入れ、分配で夜11時12時まで働き、また翌朝は5時6時から仕事・・・その連続でしたよ」
「とっても大変な仕事の日々だけれど、私たちには熱い思いを持って活動しているという誇りがあるんです」
軍人さんの生の声を聞くのは初めてですが、ずいぶんとしっかりした方たちだなぁ、そのように率直に感じました。
さて、この2日間の活動でこのバラコットをMobile IL Center計画のフォーカスポイントにしたほうがいいとメンバーの皆さんは考えるようになっていました。
当初は15日間ずつ6箇所で活動するという構想を持っていましたが、自分たちが活動できる範囲と実際に目の当たりにした被災地の現実とを比べ合わせて
バラコット = イスラマバード = ラホール
の3地点を重点ポイントにして翌春までの計画を練ってみようか・・・そう考え始めています。
2005年11月19日(土曜日)ラホール→バラコット
シャフィークさんたちマイルストーンのメンバーは真夜中にラホールを出発しました。
朝7時、イスラマバードに着いたシャフィークさんからの電話で私も合流。まずは現地で使うテントをもらいにラーワルピンディに向かいました。
テント屋さんには布製・ビニール製などなど各種テントが置かれていました。店主さんが来るまでしばらく待ちましたが防水製の丈夫なテントを10張分けていただき、車に皆で手分けして積み込みました。
そしてバラコットに向けて出発。大きな渋滞もなく昼過ぎにアボタバード(Abbottabad)・マンセラ(Mansehra)を通過しました。マンセラを過ぎたあたりで昼食をとったあと、午後2時過ぎにバラコット市街に到着しました。
マイルストーンの方たちはバラコットには地震後はじめて来られました。おそらくバラコットにおいでになった方ならだれもが感じられたことと思いますが、マンセラまでの車窓からの景色では地震の被害をそれほど感じないのが、バラコット市街に入った途端すべての建物が崩れ落ちているか大きなダメージを受けている光景にショックを感じずには居られなくなります。
マイルストーンの方たちもその光景の違いに大きなショックを感じていらっしゃるようでした。
市街の入り口で車を停めて地震の様子を住民の方に早速お聞きしていらっしゃいました。
そして家族を失った子どもには温かい言葉をみなでかけあって励ましていらっしゃいました。
先月、NWA(日パ・ウェルフェア・アソシエーション)の救援活動をさせていただいて以来、1ヶ月ぶりに私もバラコットに入らせてもらったことになります。
被災後1ヶ月経った市街地は、道路にあった瓦礫や捨てられた夥しい衣類は除去されて通りやすくなっていました。それと街全体を覆っていた死臭もありませんでした。
しかし、崩れ落ちた建物は、車や家財道具を取り出すために壁や天井を崩したほかは何も手がつけられていませんでした。運よく崩れなかった建物もひびが入り、地震時の恐怖もあいまって建て替えなければならないでしょう。私の印象ではバラコットの市街地はほぼ100%の建物がそうした状態だと思われます。
私たちはまずテントを設置できる場所を探して何ヶ所かの軍のチェックポイントで尋ねてみました。そして市街中心を流れる川の川原に臨時ヘリポートやテント村があり、その中のスペースにまずはテントを設置しようということになりました。
近くのテントの方にも手伝っていただき、1張りのテントを設置しました。「Mobile IL Center Balakot」の小さな小さなオフィスがここにスタートしました。
1ヶ月前に来たときも日没後はとても肌寒く感じたものですが、11月後半のいま、一層寒さが厳しくなっています。それと空気が大変乾燥しているので、のどを痛めたり風邪をひきやすくなっています。
夕食は再開していたローティ屋さんから買ってきたローティ(窯焼きパン)とザヒドさん(介助者さん)が作った卵入り野菜カレーでした。焚き火に当たりながらいただくその夕食は素朴でとても美味しいものでした。
私たちが持ち込んだ寝具はまくらと毛布と少しの寝袋でしたが、地面にビニールシートを張っただけのテントでは寒さが身にしみてとても寝られるものではありませんでした。幸い、ヘリポートを管理している軍の方からマットレスや毛布を貸してもらうことができ、どうやら休むことができたのでした。
2005年11月18日(金曜日):イスラマバード
シャフィークさんから連絡があり、バラコット行きを明日(19日:土曜日)の予定で進めていらっしゃるようです。詳しい計画をお聞きしだい、アップしたいと思います。
資金的なこと、それに現地に赴いてわかったことなどで計画は変化していくかもしれません。でも彼らはきっとその都度「これだ」とベストな方策を考えて実行していくことと思います。
資金的なことで言えば、現在彼らを応援する方はたくさんいて、それぞれのお立場で支援の方策を講じていらっしゃいます。彼らもそのことにとても感謝していますが、彼ららしいのはそれにおもねらないで援助に依存しないでまずできることをやっていこうとする意気盛んなところです。
「俺たちがやらないでだれがやる?」という日本人泣かせな心意気を彼らがもっていることは彼らを知る方ならきっと頷かれることと思います。
ですから、なおさら日本人としてなんとか応援してあげたいと思うのかもしれません。
2005年11月17日(木曜日):ペシャーワル
09:30AMラーワルピンディ発のバスでペシャーワルに向かいました。
先週のセミナーにペシャーワルからアヤーズさん(Mr.Ayaz Khan)という方が参加なさっていらっしゃいました。彼はペシャーワルの職業訓練校に学ぶ学生さんですが、マイルストーンのようにペシャーワルでも自立生活センターを立ち上げたいと考えていらっしゃいます。
マイルストーンは積極的に各地の障害者の方々に車椅子を寄贈していらっしゃいます。ペシャーワルには15台、マルダーン(Mardan)には6台、アボタバード(Abbottabad)には20台といった形です。また地震後イスラマバードにある救援キャンプなどにはすでに20台、30台の車椅子を贈っています。
そうした形で障害のある方が車椅子を使って街に出られるようにしたい、そしてそうやって自立生活の第一歩を踏み出す方がその街で一定の数になったときに自立生活センター(CIL=Center for Independent Living)をその街に立ち上げる支援をしていく・・・そういったことをマイルストーンの人たちは考えています。
そしてその動きがペシャーワルでも起こりつつあるということです。
おそらく近日中にセミナーでも話し合われた「Mobile IL Center(巡回自立生活センター)」のプロジェクトが始まることでしょう。そうなるとペシャーワルに行くこともしばらく難しくなるかもしれない、その前に彼が参加したときの写真を彼の元に届けておきたい、そんなことから日帰りでのペシャーワル行きとなりました。
バスでは日本語をお話になる在日パキスタン人の方(アサド=アリさん Mr.Asad Ali)とお話していました。その方は日本で車の輸出業をされていらっしゃる方ですが、今回の地震災害にとても心を痛めていらっしゃって支援物資を何度も被災地にお送りなさっているとのことでした。
で、聞くとペシャーワルには同じ業者仲間の方たちが同じように継続して支援活動を続けていらっしゃると聞きお会いすることにしました。
その方はアルージさん(Mr.Arooj Ahmed Ansari)といい輸出業を営む方でした。彼も今回の災害にとても心をいためていらっしゃって、バラコット(Balakot)では20日間救援キャンプを設置して活動されたほか、バラコットから奥地にある全壊した私立小学校の再建にターゲットをしぼって全面的な支援をしていくとのお話でした。
で、早速ラホールにいるシャフィークさんに電話をつないでいただいてお二人の間でお話をしていただきました。5分ほどの限られた時間でしたがお互いにその志に深く共感されていらしたようでした。
電話の後アルージさんは私に「もしバラコットで困ったことがあれば私たちが応援するからね」と励ましてくださいました。
またここにひとり、真摯な人を見つけたように思います。
その後、学校の放課の時間にぎりぎり間に合ってアヤーズさんに写真とCDをお渡しすることができました。彼からお家にくるように誘われましたが、帰りのバスの時間があり今回は断念。こうした地震救援の取り組みがひと段楽したときにゆっくりお邪魔させていただこうと思います。
2005年11月15日(火曜日):イスラマバード
昨夜(14日:月曜日)にイスラマバードに戻ってきました。
で、NWA(日パ・ウェルフェア・アソシエーション)で活動を続けていらっしゃるきむかつさん(blog.kimkatsu.com)のご案内でイスラマバード郊外に建設中のキャンプを見させていただきました。
場所はファイザーバードから空港方面に10分ほど走ったところにあります。
近くには川も流れ見晴らしのよい静かなところです。
ここではトイレが造られているところでした。
↑トタン屋根ではなくコンクリート屋根のしっかりした造りのトイレです。
↑こちらは汚水浄化槽。数メートル掘り下げた後にこのように石や砂利を敷き詰めています。利用開始後にたまる汚水はバクテリアの力で浄化させるしくみだそうです。
このあと、ローティを焼くタンドール(窯)の発注のためにラーワルピンディに向かいました。
ここではローカルスタッフの力を借りて一度に多くのローティを焼くことのできる窯の見定めと発注などがされていました。
トイレやタンドールなどまず最低限の設備を整えたあとにできるだけはやく被災者の方たちをキャンプにお迎えしたい、その気持ちで仕事を続けられていらっしゃいました。
夜は協力隊員さんとご一緒にきむかつさん、日パのお母さん(督永さん)ご家族、ケイコさんとご一緒にお食事をいただきました。
きむかつさんはアジア→中東の旅の途中のさなかにパキスタンでこうした地震救援活動に関わられることになった方です。もし移動が1日早かったら、もし次の訪問国のビザが予定通りおりていれば、もしNWAの情報を見つけることがなかったら、このようにイスラマバードで活動はなさっていらっしゃらなかったかも知れません。
それは私も同じで、もし9月からのパキスタン訪問を計画していなければ、はたしてパキスタンまで来てこのように取り組んでいたか・・・・。
みなさんそれぞれ、見えるような見えないような不思議な結びつきの糸をたぐりよせるようにしてここに集まってきたのかもしれないなぁ、そんなことをふと思っていました。
NWAの方々が取り組まれている活動、マイルストーンはじめ障害当事者の方々が取り組まれている活動、それぞれスタンスや方向性は異なりますが、いずれの方々も思っているのは被災者の方に届く支援をしたい、その心意気ではまったくぶれていないと感じます。
おいしい夕食をいただきながらいろいろなお話を聞けて楽しいひとときが過ぎていきました。