パキスタン・レポート : 2005年11月 (1)

初版:2005年11月14日 更新:2018年5月16日(章立て)

2005年11月13日(日曜日)

1週間にわたるセミナー諸行事が無事終了し、今日は中西さん方をラホール市内各地にご案内させていただいていました。

ラホール博物館

インダス文明・シーク教文化・イスラーム文化・パキスタン建国の歴史コーナーなどをごらんになっていただきました。

バードシャーヒー・マスジッド

美しい歴史の重みのあるイスラーム建築をごらんになっていただきました。

ラホール・フォート

「シーシャー・マハル(鏡の間)」にいくためにたくさんの階段を車椅子で上がったり降りたり・・・・でやっとたどりついた鏡の間はな、なんと修繕工事中で足場が組まれたりシートで覆われたりでみんなで苦笑い(笑)。

フォートレス・スタジアム

マクドナルドではアラビアン・マック(鶏パティのサンド)をいただきつつ、備え付けの新聞に昨日のセミナーの様子が写真入で載っているのをごらんになっていらっしゃいました。

ワガ国境のセレモニー

人をかき分けかき分け、なんとか見えるスペースをつくったものの、クライマックスの国旗降納のシーンのときはギャラリーが前へ前へと押し寄せて見えなくなってしまい、ここでも苦笑い(笑)。

PACE(ショッピングセンター)

のフロアごとの移動にはエスカレータを利用。前輪をジャシムさんがおさえ、後ろを斉藤さんたちで支えて上り下りをしました。へぇ~車椅子でエスカレータ上り下りができるんだ、と初めての経験でしたので感動しました。

フォートレス・スタジアムでの夕食

参加したメンバーたちが店の意見用紙に「スロープをつけてほしい」「トイレをバリアフリーに改造してほしい」とめいめい書き込んでいました。
ラホールでは行くところ行くところ、電動車椅子で移動する光景が珍しいからでしょうか、ちょっと止まるとすぐ人垣ができるような状態でしたが、階段の上り下りで介助をお願いするとすぐに手伝ってくれ、何も言わなくても車椅子に手を差し伸べてくれる人もいたりしました。で、ここで夜8時半過ぎとなり、来られていたメンバーで中西さんにお別れと再会の約束をしてここでお見送りさせていただきました。

別れ際、アテンダント(介助者)のハッサンさんが小さな手帳を中西さんに差し出し
「いつも、日本のお客さんが来られると一言メッセージを書いていただいています。もしよろしければ何か書いてくださいませんか」
とお願いされていました。
中西さんはその手帳をとられて
「Thank you Shoji」
とお書きになっていらっしゃいました。

中西さんたちをお見送りした後

何人かのメンバーとフォートレス・スタジアム内を散策。ここにはおいしいコーヒースタンドがあって、クリーム・砂糖入りの甘いミルクコーヒーですがこれがなかばかのテイスト。それをいただき、あーでもないこーでもないことで盛り上がって事務所に戻ってきました。

2005年11月12日(土)

昨日(11日:金曜日)は食事後8人のメンバーが翌朝に備えて眠っていました。じゃなくてマットが足りないので介助者さんたちは寝ないで起きていました(笑)。
事務所には計5人の車椅子ユーザーがいましたが、3人の介助者さんが順番にトイレに連れて行きトイレや入浴の介助をしていました。そうやって7時過ぎにはミニワゴンなどに分乗して会場のAVARIホテルへ。
セミナーはホテルの2階にあるホールで行われました。参加した方はざっと100人強くらい。いつものセミナーでは入念に準備をして200人300人と集まるのですが、今回は支援活動にかかりきりで招待状を出せたところも限られていましたし、電話でセミナーを連絡するのがせいいっぱいの様子でした。
でもイスラマバードからはアティフさん(STEP:イスラマバードの障害者団体代表)やスーザンさん(世界銀行パキスタン事務所)がおいでになり、またテレビ局もPTV(パキスタン国営テレビ)ほか3~4局が来ていました。
セミナーは午前・午後の部に分かれて、午前は参加されたゲストからのスピーチが続きました。どの方も地震災害で被災地が甚大な被害を蒙っていることに触れて、被災地の障害者たち、被災して障害者になってしまった方たちへの支援を強く訴えていくものでした。

また会長のアシムさんは、

アシムさん(会長)
「マイルストーンメンバーは地震後即アクションを起こし、車椅子メンバーが事務所のある地域を分担して歩いて寄付を募りました。そしてわずかな時間でトラックに山積みの物資を集めて、地震3日後の10月11日に被災地にはいることができました。」
という活動の様子を話されました。

また中西さんは、

中西さん
「1995年の阪神大震災の際、従来から介助サービスを通して介助者と障害当事者のネットワークができていたところにはすぐに救済の手が伸びた一方で、そうした関係のない、身寄りのない障害者やお年寄りの方の安否を確認するのに時間がかかったケースがみられました。地震直後、被災地の自立活動センターは地域のすべての方への支援活動を展開しました。それは温かい食事を提供することであったり、身動きのとれない高齢者のもとに日に何度となく水を汲んで届けたりなどです。そうした活動をしているセンターのもとには多くの支援が集まり活発な活動を展開することができました。また、このことで地域での自立生活センターに対する認識が変わっていきました。また被災した街がアクセシビリティある街に復興するために自立生活センターはそのことを強く訴え続けていきました。そのことが復興後の街のアクセシビリティ化に大きく貢献することとなったのです。」
と日本での地震災害の経験を通して語られていらっしゃいました。

午後からは参加された方に、中西さんがこれまで1週間にわたる事務所でのセミナーでお話になられたことを新しい参加者の方にくりかえしお話になりました。その後は参加していた方から感じていることを話していただきました。みなさん「これまでのセミナーで学んだことをこれからの自分たちのために活かして活動していきたいです。」と話していらっしゃいました。

夜は、中西さん・シャフィークさんたちを囲んで食事の場が設けられました。この席上でも地震救援のプランについてや今後の展望などがいろいろ話しあわれていました。

2005年11月11日(金)

マイルストーンメンバーの送迎バスが交通渋滞にあってしまい、やや遅れて11時過ぎから今日のプログラムが始まりました。

アシムさん(会長)・シャフィークさんがイスラマバードに話し合いのため行っていることもあったのですが、今日は中西さんのそばにファルークさん(副会長・アテンダントコーディネーター)とアティフ=ラザさん(脊髄損傷グループリーダー)が座り、中西さんが英語でお話になるのをお2人がウルドゥ語で翻訳し、参加者がウルドゥ語で質問してくることをお2人の力を借りて私が日本語で中西さんにお伝えする・・・という形で進みました。

ややこしいやり方なんですが、私がまだまだウルドゥ語のボキャブラリーが少なくきちっとした概念がお伝えしにくいので、やはりネイティブのウルドゥスピーカーに伝えていただこうという狙いがありました。これまで私が関わってこなかった分野の単語がたくさんわかったので私にとってはいい勉強になりましたし、ファルークさん・アティフ=ラザさんにとってもセミナーのなかで重要な役割を担っていただくことでただお話をきくだけではない新たな刺激を受けられていたように感じました。

この日のセミナーは
1: 昨日までのお話のふりかえって(自立生活運動とは 介助サービスとは ピア=カウンセリングとは)
2: 介助サービスの実際について(斉藤さんからのお話)
3: マイルストーンでの、また参加者自分自身の将来計画(1年計画・3年計画など短中長期計画)を考えてみるという3点について進められました。

2番目の介助サービスについては斉藤さん(CIL日野)がご自身のご経験をもとにお話なさいました。
で、参加者からは実にさまざまな(ある意味ユニークな)質問がたっくさん出ていました。

Q: 2時間の介助時間終了後にも介助が必要だと思われる場合(トイレや入浴)はどうすればいいでしょうか?
Q: (介助者は利用者から見れば「空気のような存在」であると斉藤さんが話されたことに対して)空気のような存在とはどういうようにすることなんでしょうか?
Q: 同じ利用者さんに関わってきて、すでにルーティン化していること(トイレの掃除、入浴後の後始末)についてもひとつひとつ利用者さんに聞かないといけないのでしょうか?

私自身の経験から思うに、これからパキスタン各地に新しい自立生活センターが作られ、介助サービスが始まっていくとこの介助サービスの概念がなかなか理解しにくいところだろうと思います。なぜなら医師・看護職優位の「治療・看護してやっている」意識の強い社会ですので、介助者側があれこれ手をかけてしまうことはよくあるでしょうし、利用者側も遠慮したりしてもらう意識が強くて自分が何をしてほしいのかうまくいえなかったりするだろうと思うからです。

でも、話し合いの途中でジャシムさんはこう話していました。

ジャシムさん
「いま、私たちの周りにはこうした介助サービスの仕事をしてみたいと思っている人たちがたくさんいます。ただ残念なのは、政府の社会福祉制度として存在していないので生活に余裕のある人たちだけしかこうした介助サービスに従事できないことです。ですから介助の仕事を生活の糧としてできるように政府は制度化しなければならないと思います。そうすればもっと多くの人が介助の仕事に従事することができ、結果として多くの重度障害の方たちが自立生活を送ることができるようになるでしょう。」

まったくそのとおりだと、参加したメンバーは感じていました。

このセミナー中、ひとりずつに考えていることや感じていることを話していただいていましたが、「私は地域で自立生活センターを開きたいと思っています」と語る重度障害の方が何人もいらっしゃいました。ジャベーリアさん・カムランさん・ムシュタークさん・ファートマさん・・・・・。「私はピア=カウンセラーになりたいです」、サバさん、アティフ=ラザさん・・・・。

私が感じ入るのは社会では一番弱い立場に置かれやすい重度障害の方々がそうやって積極的に発言をされることです。中西さんがたびたびおっしゃいっていらっしゃいましたが、「責任を意識していくなかで活動への関わり方もかわっていく」と。参加されたみなさんのお話を伺っていると「~をする」「~になりたい」と思い発言することでご自身の自覚をよりクリアーになさっているようにも感じていました。
夜はこの日参加されていた30名近い方たちを中西さんがレストランにご招待されました。おいしい食事をいただき、近くから太鼓たたきのおっちゃんたちを呼んできて即席ダンスパーティをしたりで大変盛り上がった夜になりました。

2005年11月10日(木曜日)

今日は1日中、マイルストーン事務所で研修が行われました。
午前中~午後にかけて中西さんがお話になったのは自立生活センターとピア=カウンセリングのことについてです。

自立生活センター(CIL Center for Independent Living)

障害者なかでも最重度の障害のある方が自立生活を送ることのできるように自立体験プログラム、介助サービス、ピアカウンセリングなどさまざまな自立プログラムをユーザーに対して提供する事業体と、障害者の権利擁護運動(アクセシビリティや昨今の障害者自立支援法などをめぐる共同闘争など)を推進する運動体の両方を行う母体として各地で設立されつつある。
最重度の障害者の方にゆきとどくサービス・運動であるように、組織委員会の51%(過半数)は障害者であること、代表・事務局長など要職は障害当事者が務めるなど厳格なルールを定めている。

ピア=カウンセリング(Peer=Counseling)

当事者が持っているさまざまな課題について、カウンセラーがさまざまな方法で共有し、相談者自身が答えを導き出せるように支援を行う。
もとはアメリカなどでCo=Counselingなどと呼ばれていた手法を自立生活センターで障害当事者同士が問題解決に取り組むための手法として取り入れたもの。正式なピア=カウンセリング・プログラムではたとえば相談者の生まれてから今までのことを振り返り、どういうことがあったのかどういうことを感じていたのか・・・などを40時間あまりかけておこなうプログラムもある。制度としてのピア=カウンセリングではカウンセラーは障害当事者が務めることとし、40時間のカウンセラー研修を受けて認定された人が行うこととなっている。

昨晩あまり寝ていないこともあるのですが、今日は通訳をするのにとても疲れました。概念の話が中心だったのですが、概念をウルドゥ語に置き換えて、しかもそれをもとの日本語で話されている概念と違わないようにするのはとっても難しく、こう頭がオーバーヒートしてぼーっとしてしまうこともあったりしました(笑)。幸いなことにそうしたことを日本で研修してきたファルークさん・アクマルさんがそのつど適切に言い直してくださり、とても助かりました。

そのあと、事務所のパソコンで2本のビデオを見させていただきました。

1本目はタイの自立生活センターで活動する5人の障害当事者の方々のミニストーリーをまとめた30分ほどのものです。2本目は世界で初めて自立生活をはじめたアメリカの故・エド=ロバーツさんの特集をしたアメリカのテレビ番組でした。

1本目はそれぞれ立場や境遇の違うメンバーたちが自立生活を獲得していくことでどういう変化が自分とまわりに起こったのかが感動的に綴られていました。・・・が、このとき猛烈に眠気に襲われてあまり記憶にないのですが。。。

エド=ロバーツさんの写真は見させていただいたことがありましたが、こうした映像でみたのは初めてでした。酸素吸入器を車椅子に載せ、街を移動する姿は今では珍しいことでなくなりましたが、ややセピア色に褪せた8ミリムービーで見させていただくととても感慨深いものがありました。その彼と一緒に歩き、触れ合う彼の息子さんとの光景はとてもほほえましいものでした。

と、ここでシャフィークさんが急遽イスラマバードに上京することになりました。昨日の夜中にアシムさん(会長)、今朝の始発便で二宮さんがイスラマバードに向かったのですが、シャフィークさんも加わることになったようです。夕方4時、あわただしく彼は車でイスラマバードに向け出発していきました。
12日のセミナーに間に合わせるためにまた明日(11日)の夕方こちらに戻ってくるとのことです。

夜は中西さんたちを囲んで日本料理をホテルでいただきました。その際一緒にいらっしゃったハビブさんに「今日の研修はどうだった?どういうところを手直したらいいでしょうか?」と中西さんがお聞きになりました。すると、

ハビブさん
「話の合間合間に参加しているメンバーにいろいろ話を聞いてくださるのがとてもよかったと思います。またお話いただくことは日本で学んできたメンバーたちから聞くお話と重なってとてもよく理解できるものでした。明日もう1日お時間をいただけるとのことですが、CIL(自立生活センター)の業務の実際、介助者の仕事の実際についてお教えいただけるとみんなとても喜ぶと思います。」

そのように答えていらっしゃいました。

食事をいただいたあとは、同じフロアで結婚式が開かれていました。その控え室にお邪魔して様子を見させていただいたりしました。で、どうにも制服・私服の警官がやたらと多いなぁと思ったらなんと、パンジャーブ州首相のイラーヒー(Erahi)さんが花婿さんのところに挨拶に来られていました。おおお、パキスタンのVIPをなまで初めて見たよ(笑)。

で、ステージのそばまで案内されていくと、そこでは花婿が二カー(結婚宣誓)の署名をするところでした。以前も1回見たことがあるのですが、今回もモウルビー(イスラームの宗教指導者)が同席し。署名の後祈りを捧げて結婚が成立する瞬間を間近で見させていただくのはとても印象的なものでした。 と、ここまできて疲れや眠気が相当な感じになってきたので、ここで失礼しリキシャーで事務所へもどりすぐにバタンキューと眠ってしまいました。

2005年11月09日(水曜日)

マイルストーン事務所から車で30分ほど離れたところ(グルバルグ)に「ヒジャーズ病院(Hijaz Hospital)」という病院があります。

いま、ここには震災で脊髄損傷(Spinal Injured)を負った方々が40名近く搬送され手当てを受けています。
昨日(08日)の事務所での話し合いを受けて、今日は午前中中西さんやAPCD(アジア太平洋障害者開発センター)で活動される二宮さんが合流されてその様子をごらんになりにお出でになりました。
病院の複数の部屋に男女別に分かれてその方々はいらっしゃいました。マンセラ(Mansehra)・バラコット(Balakot)・ムザッファラバード(Muzaffarabad)・バットグラム(Batgram)・・・などなどからお出でになっていました。

そのみなさんのご様子をお伺いしつつアティフ=ラザさん・ナディームさん(脊髄損傷のグループリーダーたち)、中西さん、シャフィークさん、アシムさん、二宮さんたちで励まして回っていました。みなさんの状況はそれぞれで、ご家族がみんな助かった例もあれば何人もの方がお亡くなりになってしまった例などです。ムザッファラバードからお出でになっているある男性はお子さんをなくされてそのショックからお話になることがほとんどできず、目の焦点もほとんどさだまっていらっしゃらない、そんなご様子の方もいらっしゃいました。
中西さんはご自身の経験(頚椎損傷の障害があること、日本での震災の経験)をおっしゃいながら、「私たちは将来にわたってみなさんのご支援をしていきたいと思っています。どうか心配なさらないでください。」と励まし続けていらっしゃいました。シャフィークさん・アシムさん・二宮さんたちもご同様に。

そのあとは病院のスタッフの方々と打ち合わせの場がもたれました。

院長先生
「わたしたちはみなさんがお考えの構想(グループホームを作り自立生活プログラムを研修していただく)に賛同しています。どうかもしその構想が始まることになれば、ぜひそのプログラムについて私たち病院スタッフにもレクチャーしていただきたい。」

二宮さん
「この構想はCBR(Communnity Based Rehabilitation : 地域に根ざしたリハビリテーション)の非常に有効なケースとして期待されるものです。しかもこの計画は政府がトップダウンでおろしてきているものではなく、同じ障害を分かち合う当事者同士の中から生まれたボトムアップの動き、草の根レベルの動きです。こうした取り組みは世界でいまだ例をみません。この取り組みが始動すればこちらのヒジャーズ病院もその重要な一翼を担っていただくことになるでしょう。」

ちょうどこの病院に「インダステレビ(INDUS TV)」の記者さんがお出でになっていて取材を受ける一幕もありました。

午後、みなさんでマイルストーン事務所に戻ってからも、引き続き話し合いがもたれました。マイルストーンのメンバーが地震発生3日後の10月11日にムザッファラバードなどの被災地に入ったときのビデオ映像なども見させていただきました。倒壊した家屋にまだ家族がいてお父さんでしょうかなかば呆然としたご様子で家屋の中をのぞき助け出そうとしている姿は痛々しいものでした。

時間をかけて話し合われた結果、プロジェクトの内容は次のようなものに定まってきました。

1 被災地での障害者への支援

(Mobile IL Center(巡回自立生活センター :仮称))
被害の大きかったバラコット(Balakot)・ムザッフラバード(Muzaffarabad)などから候補地を複数設定し、メンバー(障害当事者と介助者)が現地に1箇所15日を目途にキャンプ(Mobile IL Center)を設置する。
設置後は、被災地の障害者の方々の調査・ピアカウンセリングなどを行うほか、必要な方々にはネットワークをフル活用しイスラマバードなど各地にある障害者の方のケア施設への移送を行う。
また、それぞれの地で将来自立生活運動のロールモデルとなっていただけそうな方を複数選定して、イスラマバード・ラホールで研修を受けていただく。

2 震災により障害者となった方々への支援(重度障害者への支援) → 被災各地に帰られたときのロールモデルとしての期待

震災により重度障害を負った方々に対し。病院(ラホール:ヒジャーズ(Hijaz)病院など)と連携してある程度の治療のすんだ方々をマイルストーン事務所隣の空き家を改装してつくるグループホームに移送する。そこでは重度障害を負ったメンバーからなる障害者団体と連携して、障害からおこる諸問題(排泄・着替え・その他)について適切なアドバイスならびに実際に普通の家庭生活を送る(自立生活)ためのトレーニングを行う。さらにそれぞれのご自宅に帰られたときに予想される諸問題(トイレ・部屋へのアクセシビリティ)についてともに改善の手段を考え・講じていく。また、重度障害についての正しい理解と配慮について病院と連携し、医師・看護士・セラピストなどの医療関係者や当事者のご家族と共有していく。
彼らはそれぞれのご自宅に戻られた後、地域での自立生活のロールモデルとして期待される。

3 被災地の再建におけるアクセシビリティの要求・実施への行動

緊急支援の後は街の復興が本格的にすすめられることになる。その際に、
・ 街が障害者にとってアクセシビリティのある街に生まれ変わること
・ 障害者に対して差別や偏見が起こることのない街に生まれ変わること
を被災した障害当事者の人とともに声をあげて強力に政府に対して訴えていく。

4 自立生活センターの全国組織の立ち上げ

この計画は単なる被災者救援に留まらず、障害当事者の自立生活の獲得ならびにアクセシビリティのある街づくりをめざすものでる。
その運動の中核として世界各国で運営されている「障害者自立生活センター(Center for Independent Living 略称CIL)」を各地に設置していくことを目指している。地域に根ざしたCILへの継続的な支援のために「Pakistan Council for CIL(仮称)」などの全国協議会組織を立ち上げる。この組織は今後長期的な取り組みが必要なこれらの計画実施の責任を負う。

アシムさん・二宮さんは、これらの計画を説明・支援の要請のためにイスラマバードにむけて出発されました。こうした計画が政府からのトップダウンではなく、障害当事者の方たちの中から話し合われて生み出されたボトムアップなものであることが世界でも他に例を見ないものになっています。資金的な裏づけがあるかどうかで計画の実施の度合いが変わると思いますが、彼らはまちがいなくセミナー(12日)が終わったあとすぐに何かのアクションを起こすことになると思います。
こうした話し合いや他のメンバーとの和やかな懇談を夕方6時近くまでされてから、夜はシャフィークさんのご自宅に招待していただき夕食をいただきました。フライドチキン・チキンカレー・ブリヤーニ(たきこみごはん)・サラダ・・・どれも日本人が作ったんじゃないか?(笑)というくらいマサラやミルチ(香辛料)がほとんど使われていない大変おいしく&おなかに優しい料理を堪能させていただきました。
和やかで楽しいひとときでした。

2005年11月08日(火曜日)

午前中は、中西さんたち+アシムさん(会長)+ハビブさん(シャフィークさんの弟)とご一緒に、自宅での介助サービスを利用しているカムランさんのお宅を訪問しました。

カムランさん(4歳のころ高熱が原因で脳性まひになった:これまでの日記で紹介しているカムランさんとは別)は2年前、マイルストーンの運営する「LIFE自立生活センター」の第1号利用者としてこれまでずっと介助サービスを利用してこられました。

現在は毎日08:00AM~10:00AMの2時間、男性(同性の介助者)の介助者(Attendant)さんが来ています。
カムランさんの体を起こし、胡坐を組むような座位を取れるようにする→カムランさんが自力で(ぴょんぴょんはねるような感じで)便座(インド式=和式)の手前まで行くので、服を脱がせてから座位をとって用を足せるようにサポートする。→その後シャワーの前に移動して体を洗うときのサポートをする。
ここまでの介助を毎日50分~1時間かけて行うそうです。

そしてその後、食事の介助や服の着替えの介助をして2時間のサービスは終わります。このほかに、延長サービス(Extra-service)として近くのお店(マクドナルド)や公園に電動車椅子(日本からの寄贈品です)を使って移動する際に介助者さんに付き添ってもらっていらっしゃいます。
LIFE自立生活センターの介助者さんの利用料は1時間40ルピーで、介助計画はコーディネーターのファルークさんたちが調整した週単位のものを前週の金曜日・土曜日あたりにカムランさんにお伝えしているとのことでした。

カムランさんのお父さんはかつてラホールのひとつの行政区の区長さんを務められた名士で現在は事業を手がけており裕福なお家のように感じました。パキスタンには障害者への公的年金制度がありませんのでカムランさんには収入がありません。ですから介助利用料はお父さんがおこづかいで下さったものからカムランさんが払う、そういうスタイルになっています。

現在、カムランさんの介助をジャシムさん(アシムさんの弟)、ザヒドさん、ナイームさんの3人が週交代で務めています。今日はカムランさんにジャシムさんがついて実際の介助の様子を身振り手振りでわかりやすく説明してくださいました。で、感じ入ったのは「利用者がしたいということにあわせて介助をする(介助者のお仕着せでしない)」ということを徹底して行っているということでした。
いま日本などで行われている介助サービスではごく当たり前の理念ですが、「看護・介助をしてやっている」感覚が強いパキスタンでは実に画期的なことだと思います。
お昼過ぎに事務所に戻ってきた後は、昨日と同じように中西さんを囲んでミーティングがもたれました。
昨日と同様に30人近いメンバーが集っていましたが、今日は利用者、介助者おひとりおひとりから感じていることを話していただきました。

利用者
「家族が介助をしてくれるときは、自分がしたいことがあっても”ちょっと待って、今忙しいから。”と待たされることが普通だった。でも、介助サービスだと常に介助者がそばにいてくれて、自分がしたいと思うときすぐに対応してくれます」
「これまで、外に出るがとても難しかったけれど、介助者を使うことで外にも出られるようになった。」

介助者
「2ヶ月の研修後、介助者として活動していく。介助の実際などわからないことはあったけれど、アティフさん(先輩介助者:日本で研修をされています)に教えてもらってそのつど解決してきた。」
「私は非障害者だけれど、マイルストーンとかかわって多くの障害者のともだちができとても楽しく、心から活動しています」
1時間40ルピーの介助料が払えないため、在宅サービスを利用できているのはまだ数名です。多くの方は事務所に来られたときにトイレや食事介助などのサービスを受けているという段階ですが、このパキスタン初のモデル事業をさらに進め、実際に事業を行うことでわかったことをもとに政府に対して公的介助制度の実施を強く交渉していこう・・・そのようにメンバーのみなさんは考えていらっしゃいます。
そのお話を踏まえて、中西さんが東京都や八王子市に対して闘ってきたご自身の歴史を語ってくださいました。

中西さん
「その当時はまだ休日に介助者を派遣できる制度になっていませんでした。それで私たち30名の車いす障害者が年末の御用納めの日に八王子の福祉事務所に行き、”このまま年末年始の休暇に入ってしまうと、私たち介助を必要とする障害者はトイレにもお風呂にも困ってしまいます。その私たちのために必要な公的支援を!” そのとき私たちはいい結果が出るまでそこを動かないという信念でテントや食料を持ち込んでいました。また新聞記者にも同行してもらってこの様子を書いてもらうことにしていました。そうやってひとりひとりが自分たちの窮状を強く強く訴えたのです。するとどうなったと思いますか?結果わずか1日で行政は検討すると約束し食事サービスという形で実現したんです。時間がかかると思うかもしれませんが、そうやって動いていったときすべては急速に変化していくと私は経験しました。」

中西さんの生きた言葉に参加されたメンバーは大変感じ入っていました。なかでも実際に介助サービスを必要としているジャベーリアさんたちは「うん、そうだ!」という気持ちが目にこもっていたように思います。
こうしたミーティングが夕方5時近くまで行われましたが、その間も随時情報がいろいろなところから入っていました。

シャフィークさんは午前中、チャルパーイ(簡易ベッド)を作る工場に行って交渉し、チャルパーイを提供してもらう見通しになったと話してくれました。
また、ミーティングの合間合間で話し合われたのは、地震で脊髄損傷の障害を負ってしまった人たちにどのような支援ができるかということでした。マイルストーンの傘下団体として脊髄損傷のメンバーたちが組織したグループがあります。そのメンバーのアティフ=ラザさんやナディームさんたちを交え話されていました。彼らは自分たちの経験から障害になったあとトイレや着替えなどの難しさを感じていました。それは今回の災害で脊髄損傷になった人も同様だろうと。

そういうお話を聞いていた中西さんがこういう提案をしました。「では、そういう人たちのために家を借りて、自立のためのアドバイスができるようにしてはどうでしょうか」
この提案に彼らやアシムさん・シャフィークさんも大賛成で、ではそういった家はどこかにないか・・・・ということでしたが、なんとマイルストーンの真裏の家がいま空き家になっていました(大家さんは事務所の大家さんと同じ)。早速その家を見せていただきましたがいまの事務所よりも広くてベッドをおいたりするのに都合がよいものでした。どれくらいの値段で借りれるのか、そうした交渉は明日になりそうですが即断即決→即行動のスピードのはやさに驚いていました。

いろいろな取り組みが同時進行で進んでいて限られたメンバー・お金・時間のなかどういう結実になるか予想はできませんが、一生懸命取り組むかれらの姿はとても尊いと思います。

2005年11月07日(月)

やや寝不足気味でしたが、えいやとはねおき、支度をしてNew Garden TownにあるPassport Officeに出かけました。
「バルカット・マルケット(Barkat Market)」のそばにあります。この夏ごろに新築移転されました。

2階の外国人ビザセクションに行きましたが案の定(笑)イード明けの初日ということで担当官が現われません。待つこと1時間、10:00すぎにようやく担当官が出勤。で、2日(木)にもらっていた引換証を見せましたが・・・やはり案の定(笑)、私のパスポートはまったく手付かずで申請書類と一緒に彼の机の中に入っていました。

で、結局2日のときと同じように一から説明をしなおすというよくあるパターン(笑)。でもラッキーだったのはこの担当官が親切だったこと。私の話を聞いてすぐ書類にサイン→回覧にまわして15分もしないうちに「ビザ延長(2ヶ月)」のゴム印を押してくれました(日本人は無料)。そしてぽーんとパスポートを私に投げてよこして「OK、いいよ」と一言。
これでセミナーや地震救援のお手伝いをしばらく続けさせてもらえることとなり一安心。
そこからリキシャーでマイルストーン事務所に戻ると中西さんたちが到着されていました。
事務所の1室に中西さんたちやマイルストーンメンバー、ラホールやイスラマバードで活動されている協力隊員さんが大勢集まってミーティングが昼食をはさんで04時PM過ぎまで持たれました。
合間合間の時間には中西さんとアシムさん・シャフィークさんたちを交えて現在のマイルストーンへの支援状況・DPI日本会議から送っていただいている寄付金の使途状況、地震救援計画についてなどの報告・質問・検討が続けられていました。

夜は中西さんたちをカダフィ・スタジアム(スポーツ競技場)の中にあるオープンレストランにご案内。マトンハンディ(カレー)・バーベキュー・サーグ(ほうれん草カレー)・プラオー(たきこみごはん)などを召し上がっていただきました。
今年のパキスタンは何度か暑さのぶりかえしが先月くらいまでありましたが、いまはすっかり寒くなり、夜は15度以下に下がって肌寒さを感じるようになってきました。

2005年11月06日(日)

イード最終日ということで、街には大勢の人々が繰り出していました。
若者たちは男性・女性別のグループでおめかししてあちらこちらの公園やショッピングセンターに出かけていきます。
日本のような「ナンパ」とまで行きませんが、そうやってかっこいい男性・きれいな女性を見つけてはそれぞれのグループであーでもないこーでもないおしゃべりをしていたりします。
親同士が決める結婚が圧倒的ですが、ラホール・イスラマバードなどの都市部だと自由恋愛を親が追認する形で結婚することもあったりで農村の保守的な雰囲気とは違う開放的な気風が流れていたりします。

さて、イード中の私はといいますと、検査入院されていた協力隊員さんのお見舞いをのぞけばどこへ出かけるということもなく、ずっとマイルストーン事務所にいました。
インターネットが常時接続になっているので、メールをチェックしたり、こうやってブログを更新したり。いろいろなページを見ていたりさせてもらっていました。
夕方ぐらいからはメンバーが続々と事務所に集まってきました。来週から「自立生活運動(Life Independent Living Movement)」についてのセミナーを日本からお客様を招いて行うことになっており、そのお客様を空港にみんなで出迎えにいくため集まってきています。
その間も、アシムさん(会長)・シャフィークさん(事業部長・自立生活センター長)たちと昨日話し合った地震救援の件の続きや9月に開かれたCBSHOD(障害当事者団体の開発セミナー)前後の事情などを伺ったりしていました。

マイルストーンの人たちの話
“実はCBSHOD開催2ヶ月前の2005年7月に、主管の政府局長から連絡があったんです。「これだけ準備がぜんぜんできていないようだったら、9月にCBSHODを開くことは困難だ。開催取り止めとしたいのだが・・・」。
でも、私たち(マイルストーン)はこのCBSHODをもしポシャってしまえば、障害当事者運動が盛り下がってしまうと考えていました。だから局長にこう伝えたのです。「わかりました。じゃ、いろいろな諸準備は私たちがイスラマバードに行ってさせていただきます」。

それから2ヶ月の間、メンバーでお金を出し合って、イスラマバードのホテルに寝泊りして準備作業を続けたんです。そして、準備だけでなく、実際の会議運営の部分でもラホールから25人のメンバーが行って仕事をしました。会場のマイクの取り回しや外国からの参加者のアテンダント(介助)などこまごまとした裏方の仕事をしていました。
華々しい場で立派なスピーチをする人たちはたくさんいますが、障害者へのアテンダント(介助)や長時間におよぶ裏方の仕事ができたのはマイルストーンメンバーしかいませんでした。でも、そのことを他の障害当事者の人が私たちの働く姿を見て理解したのです。どんなスピーチをしたかではなく、障害者のために実際に何をしているのか・・・「Real Work」というところが問われていくことになるでしょう。”

11時PM過ぎに5~6台の車で空港にむかいました。そして2時間ほどの延着がありましたが無事にお客様(中西正司さん:全国自立生活センター協議会(JIL)・ヒューマンケア協会代表・DPI(障害者インターナショナル)アジア太平洋会議、本間さん:DPIアジア太平洋会議、斉藤さん:CIL日野(自立生活センター))をお迎えすることができました。
アシムさんのお話では昨年(2004年)は年間で60人近い日本のゲストをラホールにお迎えしたそうですが、そのときもそして今回も20人以上のメンバーで空港にお迎え・お見送りをしています。そういうホスピタリティーみたいなところが彼ららしさです。
お客様を無事ホテルにお送りし、私とカムランさんが事務所に着いたのが03時AM。着くとほどなくグーグーと眠ってしまいました。

2005年11月03日(木曜日)~05日(土曜日)

今年のラマザーンは3日(木曜日)日没で明けました(イスラーム暦では日没~日没が1日の区切り)。マイルストーン事務所近くのマーケットも夜は大勢の人が行き交っていました。でも、例年ならあちらこちらから聞こえてくる爆竹の音も低調だったような気がします。

地震が起こってから「今年のイードは自粛して、そのお金を被災者に寄付するんだ」というお友達の話を聞いていましたが、そういう気持ちの人が多いのかも知れません。
イード初日の早朝(04日早朝)の礼拝はイスラーム教徒の義務だということで大勢の人がマスジッド(モスク:イスラーム寺院)に出かけ祈りを捧げていました。地震直後の金曜礼拝のときもいつもよりはるかに多い人たちがマスジッドに詰め掛けていたのを見ましたが、何かが起こるとまずは深く「祈りを捧げる」イスラームの人たちの姿がとても印象深いです。仕事柄ゆっくり時間をかけて祈ることができない人でも、その祈りのひと時は実に真摯で真剣です。

「インシャッラー(神の思し召しのままに)」というフレーズは時に約束を違えたときの口実にしか聞こえないこともありますが、彼らの祈りの真剣さを見ていると日本とは違う精神文化が流れているんだなぁと改めて思います。
イード初日のマイルストーン事務所は静かに過ぎていくのかと思ったらそうでもなく、たくさんのメンバーが事務所にやってきて「イードムバーラク」と挨拶していきました。いま、事務所には私のほかにカムランさん(Kamran)というスタッフが寝泊りしています。彼の両親はすでに他界され、兄弟もいらっしゃるのですがあまり仲がよいらしくなくそれまで居候していた家を出て事務所で寝泊りするようになりました。家族とともに暮らすのが普通のパキスタンでこうやって一人暮らしをするのは珍しくきまって「あなた寂しくないの?」と聞かれたり心配されたりします。マイルストーンのメンバーもカムランさんのことを気遣ってたくさん事務所に押しかけてきたようでした。

そんな彼と夜は近くのマーケットで買ってきたカレーやナーンをパクつきながらおしゃべりをしています。彼には彼女がいて結婚をしたいのだけれど、いまはお金がないからドイツに行って何年か働いてお金を稼ぎ、それで家を建ててから結婚するんだ・・・こう話して聞かせてくれます。それにイードだからということで彼女さんからもらったというプレゼントも見せてくれました。シルバーの腕時計に万年筆のセットです。それを見せてくれるカムランさんの顔はとっても幸せそうでした。
で、私のこれまでのパキスタン人とのお付き合いの経験則からいうと仲良くなったお友達はよく「俺を日本に連れて行ってくれ」「俺に日本行きのビザを用意してくれ」というのですが、カムランさんはじめマイルストーンの人たちはそういう「よこせ」「~してくれ」ということを私や関わっている協力隊の隊員さんに言うことはありません。日本人らしい気遣いというか「謙虚」さを彼らは持っています。これも日本(ダスキン障害者リーダー研修など)で学んできたシャフィークさんやアクマルさんたちの影響を受けてきているからだと思いますが、そのおかげで私たち日本人が彼らとお付き合いしていてもパキスタン人特有の「親切さ=しつこさ」に疲れることもなく、気楽に過ごすことができるのでしょう。

さて、イードは始まりまったもののどうしてもお祝い気分になることができません。バラコットでの経験や記憶が常に頭に浮かび、被災地の人たちのことを思わずにはいられません。来週から始まるセミナーは日本から大切なお客様をお招きして開かれるもので、この春からお手伝いを頼まれていました。それでラホールに滞在していますが、気持ち的には常に心はバラコットやムザッフラバードなどにあるといった感じです。セミナーが終わったらできる限り寒さが厳しくなるかの地で自分のできることをしたい、でもひとりでは何の力にもなれそうもないしなぁ・・・そんなふうに思いあぐねていました。

05日(土曜日)も昼過ぎからアシムさん(会長)やシャフィークさん、ファルークさん(副会長)たちが事務所にやってきました。はじめは遠くマルダーン(北西辺境州)の街から訪ねてこられた方たちと面談されていました。彼らは6通の手紙を持っていました。それぞれに顔写真と身分証明書のコピーが添付されていました。その手紙はマルダーンに住む障害者の方からのもので、それぞれ日常生活での不便を訴えマイルストーンで製作している車椅子をいただけないだろうかというお願いになっていました。そうした手紙を読み、持参してきた方々と話されて「だいじょうぶ、あなたたちに車椅子を差し上げますよ」とシャフィークさんは確約なさっていました。

マイルストーン製車椅子の紹介http://www.ktc-johnny.com/milestone2004nov2.html

シャフィークさん(彼もポリオによる肢体不自由障害者で車椅子を使っています)
「いま、私たち(マイルストーン)はこういう要望を寄せてくださった方たちに無料で車椅子を贈呈しています。そうして障害者が車椅子を使って街中に出てこられるようになったら、それがその街でひとつのグループになるくらいの数になったら「自立生活センター」を作ることを促しています。そして実はペシャーワルの障害者の方たちにこれまで15台の車椅子を贈呈しましたが、その彼らが自立生活センターを作ったんですよ。」

ペシャーワルに自立生活センターができたことは初めて聞きました。まだ活動はこれからだと思いますが、ラホール・イスラマバードにつぐ3つめの都市での誕生ということになりそうです。
そしてそのあと、メンバーたちでかなり長い時間話し合いがもたれていました。その後「とささん、きてもらえますか」と呼ばれ彼らの集まっているところに行くと、

シャフィークさん:
「私たちがとても心配しているのは、地震で被災した障害者の人たちがどうなっているかということです。障害者の家族を見捨てて避難キャンプに移る家族もいるかも知れません。また、障害者の置かれている実態がどうなのか、政府もつかんでいないことでしょう。私たちは彼らのことがとても心配なのです。それはバラコットやムザッフラバードの都市から離れた山間部の村々なら尚更そうでしょう。このまま厳しい冬を迎えてしまえば、彼らは寒さや空腹で死んでしまうのではないでしょうか」

ファルークさん:(筋ジストロフィーの障害があり車椅子を使っていらっしゃいます)
「それと重要なことはこれから再建されるそれらの街が障害者にとってアクセシビリティのあるものになるかどうかということです。そうしたことを現地の障害者と手を携えて訴えていくことが必要だと思っています」

アシムさん:(ポリオによる障害があり車椅子を使用されています)
「いま、こんなことを私たちは考えています。私たちが被災地の何箇所かをピックアップし、それぞれに15日前後キャンプを張ります。名前は・・・「Mobile IL Center(巡回自立生活センター)」そこには治療やセラピーのテントやピア=カウンセリング(※)のテントなどを置きます」

シャフィークさん:
APCD(アジア太平洋障害者開発センター:本部バンコク)に助力をお願いしたり、DPI日本会議で集めていただいている寄付金を活用するなどして、現地にキャンプとともに車椅子も持って行きます。アテンダント(介助者:非障害者)にもたくさん来ていただいて現地で障害者の実態がどうであるか調査をしたり、困っている現地の障害者の方のサポートをしてもらいます。それだけでなく、現地の障害者のための災害支援や街づくりとなるようアピールしていきたいです」

彼らのアイデアはどんどん紡ぎだされています。お金のかかること、彼ら自身が車椅子を使う障害当事者であることなど、彼らの語る計画が実現されるかどうかはわかりませんが、彼らがみな真剣であることは間違いありません。
Mobile IL Center(巡回自立生活センター)・・・これはとてもユニークで斬新なアイデアだと感じます。みなで声をあげ、アクセシビリティのある街に被災地が生まれ変われるように。

ピア=カウンセリング(Peer=Counseling)
Peerとは「同等の者、対等の者」という意味で、自立生活センターなので行われている活動のひとつ。特徴は当事者主権の立場から、カウンセラーは非障害者ではなく障害者が必ず務めることとなっています。

2005年11月01日(火)~2日(水)

01日00:00発のバスでイスラマバードを出発、早朝4時過ぎにラホールに到着しました。
今年のローザ(断食)もあと数日を残すころとなり、学校などは1週間ほどの休みに入ってきました。早めにラホールに来たのは、セミナーの準備のほかに、パキスタンビザの延長をすることがあったからです。
地震の知らせを聞き、急遽デリーの大使館でビザを取って10月13日に再入国しました。30日ビザなので11月11日に有効期限が切れることになります。セミナーは11月12日ごろまで開かれ、日本などからゲストをお招きし、障害当事者の自立生活運動についてや昨年のスマトラ地震で被災した障害当事者の方への支援方法などをシェアすることをねらいとしています。
ということで微妙に足りない滞在期限を延長してもらいにイスラマバードのパスポート・オフィスに足を運んでいました。

1回目:(係官)「もし地震救援で活動したいのなら、所属先のNGOからレターをもらってきなさい」
2回目:(係官)「(マイルストーンからのレターを見て)これだとラホールのパスポート・オフィスに行かないとだめだよ」

そんな経緯で、ラホールに着いたその朝に、メンバーのアクマルさんの車でAbbot Roadにあるというオフィスに向かいました。が、そのオフィスは数ヶ月前に新施設に移転していました。
それで翌日、Sher Shar Block(New Garden Town)に移転していたパスポートオフィスに向かいました。1階はこちらの人がパスポートを取得するための待合室や面接ブースが置かれています。コンピュータ化されていて整然と人々がいすに座って順番を待っていました。
私たちが案内されたのは2階の1室。そこはビザ期限の延長やリエントリービザ(再入国ビザ)を担当しているところで、コンピュータもなく昔ながらの手作業で受付が行われていました。
ここでどうにか申請書に記載し申請完了。イードを週末にはさむので来週月曜日(7日)に延長ビザをもらえる見通しとなりました。

マイルストーン事務所には、昨日も今日も15人近くの方が来られていました。シャフィークさんたちがイスラマバードに行くため、被災した方々用の差し入れの品にメッセージカードを書いて添える作業などをされていました。
いま、DPI(障害者インターナショナル)日本会議と連携して被災された方々への救援活動を続けています。たびたびイスラマバードに上京して情報を集める一方、NISE、スポーツコンプレックスなどの諸施設を訪れて車椅子や身の回りの品の寄贈を続けていらっしゃいます。
シャフィークさんといろいろお話をしていますが、彼らも厳しい冬を迎える被災地に思いを寄せています。そこに住む障害当事者の方々に届く支援ができないか、テントはどれくらいで毛布はどれくらいで・・・といろいろ試算しながら考えています。
今日のニュースでは11月02日現在の政府発表で73276人の方が地震災害でお亡くなりになったと伝えられていました。救援活動が及びにくかった山間部や奥地の実態があきらかになってきて被害の大きさを改めて感じています。

コメント

  1. なおより:

    じょにーさんへ
     以前(1,2ヶ月前)書き込みをさせて頂いた者です。こんにちは。
     救援活動お疲れ様でした。地震後の様子は、現地の知人やきむかつさんから連絡を頂いて、いつも心配していました。私にできること何だろう、と考え、できる限りでこの悲惨な状況を伝え、知ってもらうことに徹しました。何の意味も持たなかったかもしれないけど、そうしなくてはいられない気持ちでした。
     今後の支援活動でも、自分ができることを考え、やっていきたいです。
     

  2. kyosenより:

    ビザ延長できてよかったですね。
    「やればできるじゃーん」と言っちゃいそう。
    もうしばらくはパキスタン滞在ですかね。
    日本は紅葉シーズン、木々が色づいてます

  3. ラホールもずいぶん冷えこんできたように思います。15度くらいですから凍えることはないんですけれども。
    ビザはたぶん普通に観光延長でって言えばよかったかなぁとも思いますが、まこれもひとつの経験ということでよかったかなぁと思います。
    なおさん、Kyosenさん書きこみありがとうございます。

  4. ヨシアキより:

    ラホールの仲間の様子や中西さんの様子がうかがえて、大変参考になります。日本では、シャフィークさんが日本に来られなくなった事についてのメールが回っていますが、シャフィークさんの現在置かれている状況は日本のみんなはよく理解していますので気にしないで下さいとお伝え下さい。じょにぃさんも通訳を一人で続けることは大変ですのでお体大切にして下さい。

  5. harukoより:

    じょにーさんの頑張りを知ると自分達のことで手いっぱいの私達が恥ずかしくなります。でもお体に気をつけて下さいね。

  6. 通訳は大変ですね。お疲れさまです。
    被災地では強い者は(モノをとる力があるので)さほどのサポートは必要ありませんが、(女だけの世帯など)弱い者は何も手に入れられず、非常に厳しい暮らしになっているように思えます。
    障害者の方々は特に表に出ることが難しいと思いますので、サポートする側がしっかり見てあげなければいけませんね。
    PS
    アブ&ニサールがイードのとき、ラホールに行っていてラホールは暖かくていいぞ、と言ってましたが…イスラマとはだいぶ差があるのでしょうか?
    イスラマにお帰りになったら連絡ください。

  7. johnny@ktc15-1より:

    セミナーは無事全日程を終了しました。
    土曜日(12日)のセミナーはAVARIホテルでSTEP(イスラマバードの障害者NGO)のアティフさん、世界銀行パキスタン事務所のスーザンさんをお招きし開かれました。
    救援活動と平行して行われていましたので案内告知が十分でなく、およそ100人強の参加となりましたが、PTV(パキスタン国営テレビ)ほか多数のメディアが取材されていました。
    中西さんは精力的に講演・参加者との懇談をされていました。
    夜はホテルの中華レストランでパキスタンに来ていらい一番おいしい中華料理をいただきました。あーしあわせしあわせ(笑)。
    今日(13日)中西さんたちお客様をラホール市内の名所にご案内し、夜の飛行機でご帰国されます。
    みなさん大変お元気にラホールでお過ごしになっていらっしゃいます。
    私はお見送りを空港でさせていただいたあと、その夜中か明日イスラマバードにもどると思います。
    ヨシアキさま(T田さん?)、Harukoさま、きむかつさんいつもありがとうございます。