パキスタンメモ : 1 / 2 / 3

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メモ帳その1: 協力隊活動を充実させるために大切だと思うこと
(2003/09/03)
現地に来て1ヶ月が過ぎて感じたことをまとめてみました。

メモ帳その2: パキスタンの人々に学ぶこと(2003/12/24)
こちらは現地に来て5ヶ月ほど経ったころの印象をまとめています。

メモ帳その3: 偶然(たまたま)という名の必然(2004/01/21)
活動先のセンターで悲しい出来事がありました。


メモ帳その1: 協力隊活動を充実させるために大切だと思うこと (2003/09/03)

2003年7月15日(火)11:00に成田を出発し、バンコクを経由して翌朝(っていうか日本時間では15:00)イスラマバードに到着してから、今日で50日近くが経ちました。
その間、表敬訪問(日本大使館&こちらのお役所・勤務先)・現地語学訓練(1日4時間×3週間)・ホームステイ(3日間)などを経て、ほぼ10日前の8月25日から活動が始まりました。
・・・と、ちょっと前置きが長くなりましたが。
率直に言って、イスラマバードでの活動については、他国の活動よりも恵まれている(だろう)部分とそうではない(だろう)部分があると感じています。

恵まれている(だろう)部分:

「住居」
セキュリティの関係ということがあるのですが、住まいは大きな家の1フロアを間借りまたは1戸建てを借りることになります。(寮に住んでいるという隊員もいますが)
大抵、ベッドルームは2つ~3つ、バス&トイレも同じ数、あとキッチン・リビングというのが多いようです。
ソファやベッドなどの基本的な家具ははじめからついている・・・ということもよくあります。
また、日本に比べて1部屋1部屋が大きいのと、クーラーがはじめからついていることも多く、蒸し暑い夜も快適に過ごすことが可能です。
家賃はJICAが負担します。(光熱費は、自分の活動費からの支出になりますが)

「食生活」
豚肉は買うことがまず難しいですが、鶏肉・牛肉・マトンなどは比較的安価に購入できます。
ファーストフード系で言えば、伝統的なもの(サモサ・パコーラー・カレーなど)は油っこいものが多く野菜も不足しがちですが、野菜や果物は豊富に安価で売っているので、自炊をすれば問題はありません。
また、自炊を苦手としていても、和韓洋中のレストランは(和は1軒だけですが)たくさんあって、そうそう飽きはこないと思います。
また、ビール・ウイスキー・ウオッカ・・・などのアルコール類も多少手間のかかる手続が必要ですが買うことができます。
食材のことで付け足すと、高価ですがみそやみりん・・果てはたくあんや梅干しまで買うことができます。
また、豆腐・もやし・冬は白菜といった日本でおなじみの食材も手に入ります。日本でもおなじみのケンタッキーやサブウェイ・ピザハットもあります。

「お金を出せばモノが手に入る」
イスラマバードでは、お金を出せばいろいろなモノが買えます。
パソコン(デスクトップ・ノート・・ペンティアム4タイプも)・家電(ソニーのハンディカムやデジカメも普通に)・デジカメプリント(1枚10~14ルピー・・・20円~30円)・服・靴・宝石・貴金属・ギター・キーボード・・・活動費(月額365米ドル)をうまく使えば、まずまず快適に生活が可能です。

「対日感情の良さ」
こちらに来てからずっとそうですが、日本に対するあこがれの声は聞いても、日本がきらいだというパキスタン人には、まだ会ったことがありません。(アメリカを嫌いだという人は多いですが)・・現地ではスズキの軽4や軽トラックがタクシーやバス・マイカーとして幅をきかせており、(トヨタ・ホンダといったメーカーももちろん)・・・そういえばトヨタのハイエースも大活躍です。・・・バイクもスズキ・ヤマハ・カワサキなど日本のメーカーのものが目につきます。
こちらの人にとって「日本の品物は素晴らしい」という何か統一したモノの見方があるような感じさえします。
まわりくどい話しでしたが、よく聞く「日本人とバカにされて石を投げられる」ということは、まずありえないと思います。
そのことは、活動をする際においても、デメリットではないと思います。

「大勢の隊員が同時に活動している」
2001年の9.11の後に一斉退避などがあり、派遣が見送られた時期がありましたが、現在は政情も安定してきたこともあって、前隊次・今隊次ともに7,8人前後の隊員が派遣されています。
イスラマバードに居住して活動する隊員も多くなってきて、異国の地で日本人がいなくてさびしい・・ということはまずありません。
これは、各隊員の精神的な安定を図る意味でも大切な要素の部分かもしれません。
週に何度か隊員同士で集まって食事や買い物をしながら親睦を図るということが普通です。

そうではない(だろう)部分

「男性優位の社会」
イスラム国家のパキスタンでは、女性の屋外での活動・行動にかなりの制約があると思います。
店の売り子はまずもって男性です。(ケンタッキーやサブウェイも男性の店員だらけですし)また、買い物に来るのは男性ってのが普通です。
家族と連れ立って・・とかっていう女性は見られますが、昼間、単独で歩いている女性はあまり多くありません。
頭をドゥパターという布で覆って歩く人も多いです。
これは、女性隊員の行動の制約にもつながってきます。
昼間、街中をひとりで歩いたりバスやタクシーに乗ることはできますが、やはり日本のそれとくらべるとなんとなく制約されている気持ちになりがちだと思います。
これは、男性隊員にも言えることで、日本のように職場で女性に気軽に話しかけるということは難しいです。
フランクに話せる友だちが、男女それぞれ同性同士に偏りがちになっています。
このあたりのところは、やはりストレスになりやすい要因だと思います。

さて、いちおう簡単ですが僕なりに見聞きしたり感じたことをあげてきましたが、表題の「イスラマで協力隊活動を充実させるために大切だと思うこと」としては・・・・
「パキスタン人・日本人と分けへだてなく全方位に縁のあるところから自分を深めていく。」
イスラマバードに来てみて、ちょっと期待が外れた部分があります。それは、住まい・食生活などで満ち足りていることと、意外と日本人同士のつきあいに時間を割いている気がすることです。

僕は思い詰めてしまうところがあって、「24時間現地の人と生活を共にし、現地の人と同じレベルの生活をしたいんだ!!」って思ってきました。
それが一見出来そうにない(満ち足りた環境)のでイライラした時期がありましたね。
でも、ちょっとそれはせっかちなものの見方だなぁ・・・と。
ここは、ちょっと表現しにくいんですが、「日本人・パキスタン人」と区別して考えるのはちょっと違うかなぁと思っています。
イスラマに来る飛行機の中で書いた詩にもありますが、まずは、良い・悪いってレッテルはつけないで、その人のありのままをみつめたいって思います。

実際に会い、話しをしたり、食事をしたり、遊んだりするなかで感じたことを大切にしたいって思います。
うまく伝えられないのがちょいともどかしいですが、このあたりはまた書きたいと思います。


メモ帳その2: パキスタンの人々に学ぶこと (2003/12/24)

  • 客人歓待のこころ
    私は、いろいろおしゃべりをするのが好きなので、イスラマバードのあちらこちらに出かけては、おしゃべりをしてきた。
    どんなときでも、初対面の私に対して、まずは「お座りなさい」と席を薦められ、それから「お茶を飲むかい?」ともてなされてきた。
    こうした経験は、今までの日本での人生経験のなかでは人付き合いの濃い農村部で暮らして以来のことだったように思う。
    とにもかくにも、まずは「おかけなさい」と薦める気持ちっていうのが、私にはとても新鮮な刺激だった。

    「パキスタン人は仕事をしない」「パキスタン人は要領が悪い」など、ときどき悪口が聞こえてくる。
    でも、私は、今のところそのことは気にならない。
    むしろ、何か時間に追われて疾走するかのように生きている日本人がなくしてきた大事なものを、この国の人たちは大切にし続けているのではないかと感じている。いろいろなところでもてなされると、一層実感させられるのである。

  • 子どもの扱いが上手
    活動先は、15才以上の青年(男女)を受け入れている。活動開始から1ヶ月ほどは自由に各クラスを回っておしゃべりしたり観察したりする機会を与えられた。そのときに感じたことは、男の先生も女の先生も、うまく生徒とつきあっているなぁということだった。
    言うことを聞かないと、容赦なくたたくのだが、概して言葉かけだけで生徒を落ち着かせ、活動させているように見える。
    また、先生などの年上の人には礼儀正しくしないといけないというしつけが、家庭でもできているようで、完全にはウルドゥ語を話せない私の指示でもわかろうと努力するし、言ったことがわかれば、その通りに行動する。

  • 「ごめんなさい」は言わない。
    これを「学ぶこと」に含めるかどうかは意見が分かれると思いますが。
    「寛容である」「のんびりしている」ということといったいなのかも知れないが、「時間に遅れた」「モノを忘れた」とか、日本なら「ごめんなさい」と謝るような場面でもパキスタンの人は平然としている。今まで、何着かシャルワールカミーズを仕立ててもらったが、そのお店は、はじめの約束の期日には1回もできたためしはない。「体調がよくなかった」「電気が停電して」という言い訳はあるが、「ごめんなさい」という言葉は聞いたことがない。
    日本では、考えられない感覚だが、最近、その感覚に随分と慣れてきたように思う。
    むしろ、こうした図太さみたいなところが、ちょっとやそっとの失敗ではへこたれない強さになっているのかなと思えてきた。


    メモ帳その3: 偶然(たまたま)という名の必然 (2004/01/21)

    今回の「メモ帳」はパキスタンのこととは直接関係ないかもしれません。あるのかも知れません。
    今週、悲しいニュースが活動先のセンターに伝わりました。
    1人の女生徒が、高熱のために先週亡くなったとのことでした。その子のことは、私もよく知っていました。
    先月の17日にSAARC(南アジア地域協力連合)の視察団がセンターを訪れました。(日記参照)
    で、日記には載せていませんが、その後、何人かの先生&生徒と一緒に国立図書館のホールでひらかれた発表会に行ってました。
    その発表会では、歌の上手いある女生徒が「マオーンキドゥアー(母の祈り)」という曲を歌いました。発表の後は、先生や生徒たちと図書館内のチャエハーナー(食堂)でカレーを食べ、帰宅しました。
    亡くなった女生徒は、その時に一緒に参加して見ていたのでした。

    歌の発表をする生徒を撮るために、デジカメを持って行ったのですが、ある先生のリクエストで見ている側の写真も撮っていました。
    その中に、亡くなった彼女も写っていました。
    お金持ちの人はさておき、一般のパキスタン人にとってカメラは高嶺の花。ですから、よく写真を撮ってとせがまれます。
    気軽に写真を撮れるほど豊かな人は、うちのセンターでは少ないです。
    亡くなった彼女にとって、生前最後に近い時に撮った写真だったかも知れません。

    なじみの写真屋さんで大きめのサイズでプリントしてもらい、額に入れて彼女のお友だちから届けてもらうことにしました。・・・・「日本人から」ではなく「パキスタンの友だちからの贈り物」として。
    額に入れた写真を見ていると、”この写真を撮ったのって、たまたまだったのだろうか?”と考えていました。
    協力隊を志して5年の歳月がながれ、そしていま、パキスタンの地にいるのですが、めまぐるしく過ぎ去った1つ1つの出来事を振り返るとき、それらはいまこの地で活動するために必要な何かの意味があったことではないか、そんな風に思えて仕方がありません。

    過去と現在と未来はバラバラのことではなく、リンクし合っていて、過去の出来事の積み重ねの上に今があり、いまをどう生きるかが未来への舵取りとなる。そんなことかなぁと改めて感じたりします。
    亡くなった彼女にとって学校代表として出た最後の場面に私が居合わせたことは、きっと何かの意味があったことだろうと思います。

    私のよく知る生徒が突然亡くなる経験は、7年ほど前にも日本で経験しています。
    ある晴れた晩秋の朝、担任していた生徒の家から火災が発生し、家に1人でいたその生徒が大やけどをして担ぎ出されてきました。
    その生徒は、火災が起きて学校に電話してきたのでした。それを教頭先生が受けたそのとき、たまたまいつもより早く私は出勤してきていてすぐさま彼の家に向かうことができたのでした。
    そして、彼と一緒に救急車に乗り、市内の病院へ向かったのでした。おおやけどを負っていたにもかかわらず、彼は一言も「痛い」とか「苦しい」は言いませんでした。手を握りながら、学校で一緒に歌っていた歌を一緒に歌っていました。
    彼は翌朝早朝に息を引き取りましたが、意識が薄れゆくなかで恐らく最後に会話を交わせたのが私だと思います。

    あの朝は、たまたま30分ほど早く出勤したつもりでしたが、それはほんとに「たまたま」だったのだろうか・・・答えを知ることはできませんが、私の中では「たまたま」ではないような気がしています。
    協力隊の2次試験で「任地はどこでもいいです」と答え、パキスタンが任地になったのですが、この地に来たことは「偶然(たまたま)」だったのでしょうか?
    自分なりの答えは、自分なりに活動を尽くした後に出てくるのではないかと思っています。


    初版 2003年7月  最終更新日 2004年01月21日

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