雑記帳 : 駒ヶ根訓練所にて

ktc-johnny.com(トップページ)  > 雑記帳 : 駒ヶ根訓練所にて

パキスタンに派遣される前に経験したことや、思い浮かんだあれこれをまとめています。

  • 私の原点~「地球のステージ」公演 ( 2003/06/21の日記の再録 )
  • みんなが、元気に日本に帰ってこれますように。 ( 2003/06/18の日記の再録 )
  • 語学交流会を振り返って ( 2003/06/07~08の日記の再録 )
  • 所外活動を振り返って (2003/05/29の日記の再録)
  • なぜ協力隊を目指したのか ( 2003/03/27 )

    私の原点~「地球のステージ」公演~

    地球のステージHP http://www.e-stageone.org/index.html

    Youtube : 地球のステージ1-3 : 桑山さんご本人が解説されています。


    今日は、自分の一生の原点のひとつになった日かも知れません。
    それは、「地球のステージ」というコンサートを見させていただいたことによります。

    15:00-17:00まで、森のステージでそれは行われました。
    この日は、体験入隊の中学生や市内・市外の市民の方も多数来所されて、立ち見が出るほどでした。
    公演して下さったのは、桑山紀彦さんといって、医業の傍ら、NGO等で世界各地に赴き、援助活動を行っていらっしゃいます。
    公演は、大型スクリーンで世界各地の映像・写真を映しながら、ある時はトーク・ある時はギター&バイオリンなどで演奏&歌唱・・というスタイルで進んでいきました。

    はじめての海外旅行先であったインド~NGO活動に足を踏み入れることになったフィリピン~ケニア(キリマンジャロ)~ペルー(チチカカ湖・アコンカグア)~アラスカ(マッキンリー)~スペイン~ソマリア~東ティモール~ユーゴスラヴィア~パレスチナ・・・・とすすんでいきます。

    私がこころに残った場面、言葉を記します。(正確ではないけど)

    東ティモールでのアメリカ人医師の言葉
    人生には、自分でとめられないものが3つある。
    ひとつめは、「生まれること」
    ふたつめは、「老いること」
    みっつめは、「人を好きになること」
    理由もわからないが、人を好きになることは、とめられやせん。ボランティアだから東ティモールにいるってんじゃなくて、東ティモールの人々が好きだからいるんじゃ。それ以外になにが必要かね?」
    フィリピンで出会った、目の悪いおばあちゃんに、桑山さんが目薬を渡したとき・・涙をポロポロ流してお礼を言われたこと・・生まれて初めてのことだった・・・
    スペイン~バルセロナでの、とても仲の良いおじいちゃんと孫娘の笑顔。
    ソマリアで、治療を受けに来た子どもの母親が目立つ派手な服を着ているのを、なぜ着ているのか桑山さんが尋ねたとき・・
    「子どもたちが、家に帰ってきたとき、暗い色の格好をしていたら、こころまで暗くなるでしょ。私は一家の太陽なのだから、こうして明るい服を着て、みんなを元気づけているのよ」
    ユーゴスラヴィアのサッカー場だったところにつくられたお墓・・等身大の大きさで土葬されるので子どもの背丈のお墓が多いことに桑山さんが、足がすくんでしまったこと。
    ユーゴスラヴィアに帰国して、父親と再会した21歳の娘・・・地雷を踏んで両手首・片足首を吹き飛ばされた・・・笑顔の何と美しいこと。
    25メートル四方(50メートル四方)のせまい難民キャンプ・・一歩も外へ出ることのない難民たち。
    パレスチナで、救援のために向かったパレスチナ人医師の最期。
    ジェニンでの虐殺・・・世界が全く報道しないこと・・・パレスチナ人のことば「ただ、真実のみ見に来てほしいだけです」

    特に、ソマリア~ユーゴスラビアの話になってから、涙がつぎつぎ流れてきてしょうがありませんでした。
    なぜ、涙がでるんだろう・・・理由のひとつは、あまりにも悲惨でかわいそうだと感じたからだと思います。
    そして、もうひとつは、自分がこの5年間探し求めていた答えに出会えたから、それに出会えたうれしさみたいなものもあったと思います。

    私が、協力隊を志したのは、教師を年度途中で辞めるなど中途半端に生きようとしている自分を立ち直らせるための目標としたからです。
    たぶん、派遣されれば、ほぼ順調に2年間の任期を終えて、日本に帰ってくると思います。
    そして、結婚して、子どもが出来、北海道でペンションを開き、農業をやり、好きなホルンを吹き、障害者サポートをやり・・・・・健康であれば、70歳80歳で一生を終える・・・・ということになるでしょう。
    そういうシナリオは頭に描くことができていましたが、どうも何か足りないと感じていました。なんのためっていうか、どういう生き方をしたいのかというところで、何かひと味足りないな・・・と。
    それが、このコンサートに出会って、自分なりの、ひと味がはっきりとわかりました。
    それは「ありのままの”ひと”を、じっと見続けること」です。
    涙が止まらなかったシーンのひとつに、日本でおじいちゃん・おばあちゃんが道を歩いているシーンがあります。
    ほんと、なんの変哲もない、普通その場に居合わせても、何の感慨も持たない光景なのですが、とてもいとおしいものに感じてなりませんでした。
    自分のからを一歩出て、他人にこころを寄せていくとき、見えてくる光景が一変しました。
    何気ない日常が、こんなに新鮮に見えるものか・・・と。

    今の日本は、信じられないような事件が多発していますが、その原因の根っこは、人々のこころの眼が、他人を見ているようで見ていないことにあるのだと、理屈ではなく、感覚の部分でわかりました。
    人生のプランとしては、やはり北海道に帰って、結婚して、農業やペンションをやり・・・というスタイルは変わらないと思います。
    それにひと味を足すように、他人の風評や意見ではない、自分のこころの眼で世界をうつしとり・こころを寄せていく・・そういうスタイルをとてもとても大切にして生きていきたいと固くこころに誓いました。
    桑山さん、スタッフのみなさん、私の人生にとって大切なものを教えていただき、ありがとうございました。


    みんなが、元気に日本に帰ってこれますように

    3時からの講義は、「海外交通事情」でした。
    まず、今までになくなられた協力隊員の先輩方を追悼しつつ、その事故現場の写真やメモリアル(墓標・墓碑)の写真のスライドをみました。
    そして、先週、各グループで話し合った記録をもとに講師の先生がコメントをつけていきます。
    時には厳しく、時には賛辞の言葉をかけられながら・・・・・・

    これは、とても自分のためになりました。
    任国の交通事情は、すべて違いますが、いろいろなケースを聞いていると、まるで自分のことのように感じ取ることができます。
    とても、自分のためになった講義でした。
    そして、思い半ばでこの世を去らなければならなかった先輩たちのことを思うと、せつなく、悲しくなっていました。

    そして・・・・・
    15年1次隊の仲間が、みんな、元気に任国から帰って来て欲しいと、強く思うようになりました。
    まずは、自分が気をつけていくことだと思いますが、それでもなにかできないかな・・・・・と考えまして、自分のホームページのトップに、四つ葉のクローバーの画像を貼って、その願いを表そうと思いました。
    もしかしたら、感傷的すぎると思われるかも知れませんが、自分への安全に対する自戒の意味もこめてやりたいと思います。
    15年1次隊の仲間全員が元気に帰国するまで、このスタイルで、自分の願いを表していきたいと思います。
    まずは、無事に訓練を修了することが先決ですが、みんなの無事と活躍を祈ることのできる自分であり続けたいと願っています。


    語学交流会を振り返って

    この日記は、日曜日の夜に書いてます。え、なんでかって。
    いろいろスケジュールがたてこんでいて、パソコンに向かえたのが、やっと今になったからです。
    ほんと、密度の濃い1週間でした。
    午前中は、語学交流会の準備などで過ごし、午後になりました。
    ウルドゥ語のゲストは2人ということは聞いてましたが、どんな方かは知らないままちょっとどきどきしながらそのときを待ちました。

    ゲストのお一人はサフェールさんといい、情報処理にかかわるお仕事で日本においでになったそうです。
    背の高い180センチくらいの方です。なんせ、とても澄んだ目をされていると感じましたね。

    もうお一方はアンジュムさんといい、看護についての研修で、日本においでになったとのこと。
    やさしい物腰の、そして、あたたかい雰囲気を持ったナイスレディです。

    13時から15時までの2時間は、語学クラスでの交流の時間でした。
    一応、おりがみやけん玉などの日本の遊びを紹介する準備はしていましたが、結局お2人にウルドゥ語を教えて頂くという時間になってしまいました(笑)。
    そして、、、15時からは、「森のステージ」というところで全体の交流会がありました。
    はじめの15分ほどは、ゲストの方とご一緒にトークをさせて頂いて、その後は、アトラクションの準備をさせて頂いてました。
    ・・・・・・実は、ずうずうしいかも知れませんが、この全体交流会で3つの出番がありました。

    ひとつは、オカリナ演奏でした。
    約15人ほどの方で「いつも何度でも」という曲を演奏しました。みんな練習し始めて日が浅く、もっと練習すればいい音が出ると思いますが、今できるベストの演奏ができ、とってもよかったと思います。
    それと、会場の入退場を「さんぽ」の曲にあわせながらぞろぞろ・ずんずん歩くのはとってもユーモラスだったと思いますし(笑)。

    しかも、みんな民族衣装で入退場&演奏しましたからね(笑)。

    ふたつめは、阿波踊りでした。
    徳島出身の方が3人いらっしゃいますが、みんないいキャラ(謎)をしていて、その人柄にひかれてでしょう、たくさんの方が集まって披露することができました。
    しかも、照明&スポットライトもこころよく引き受けてくださったので、とてもダイナミックなものになりました。
    まず、場内の電気が消えて真っ暗になります。そこへ、かけ声をかけながら男おどり&女おどりのダンサーが入場していきます。
    ・・・・場内のセンターに着くと、すでにまわりもいいノリになっていて、一緒になって踊って下さるかたも出てきました。
    そして、男おどりだけ、女おどりだけのスペシャルステージも織り込みつつ、最後はステージで乱舞して、「15年1次隊、ヤーッ!!」とせりふをきめてフィニッシュでした。
    踊りって素晴らしいですね。
    無心になって踊ってると、心が弾むだけでなく、余計なものがとれていって、澄んでいくような感覚でした。
    そして、何よりもゲストの方をはじめ、仲間のみんなも楽しんでくれたのがうれしい。
    いいひとときになったのがうれしかったです。

    みっつめは、スピーチ。
    各言語ごとに1分間で、お礼の言葉を言うことになっていました。
    僕のウルドゥ語は、終わりから1つ前の出番でした。
    発表される方は、カンペなしで、生き生きと話をされていたので、すごいなぁ・・・・、と見ていました。
    僕は、小道具がないと生きていけない人(笑)なので、
    ちょこちょこっとJOCV(協力隊)や自分の名前を書いたボードを持って、いざ、壇上へ。
    壇上で話すって、気持ちがいいですねぇ。
    約2,3分話させていただきましたが、場内のみなさんに「ジョニーってよんで!!」とお願いして、場内中の方が(ゲストの方含む)、
    「ジョニーっっっっっっっっっっっっ!!!」
    って、言って下さった時は、気持ち良かったっすねぇ。
    あと、サフェールさん、アンジュムさんのお名前を呼んで、パキスタンメンバーと「パーキスターン、ジンダバード!!(パキスタン万歳!!)」って、言った時も、気持ちよかったですねぇ。

    実は、今週が4月に入所して以来、一番きつかった1週間でした。
    いろいろな経緯で、いろいろな出演の機会をいただいたのですが、1日のなかで、自分の裁量になる時間(昼食後・夕食後・21時から就寝まで)が、練習時間に充てられてしまい、休息の時間が十分にとれなかったので、四六時中眠かったし、なによりこころの余裕もなかったです。
    でも、この日記でも書いてますが、こうしたことは、ここでしかできないなぁ・・・と思いながら、投げ出さないでやり抜けたと思います。

    んで、その結果はというと・・・・・・。
    特に、スピーチが終わってから、「いや~、今日のスピーチは、とっても良かったよ!!」と声をかけて下さることが、いつもの3倍増しでありました。
    それと、ゲストの方も「Nice Speech!!」と声をかけて下さいました。
    この日、17時半にゲストの方は、KTCをバスで出られたのですが、踊り仲間のツヨポンと一緒に阿波踊りを踊りながらお見送りすると、バスの中でも一緒に踊って下さっていました。
    「いや~、ジョニー。アトラクションごとに”あっ、またジョニー出てる(笑)ってみんなでいってたんよ」なんて感想もいただきましたが、なにより、参加されたみなさんに楽しんでいただけるひとときをつくるお手伝いができたことを、とてもうれしく思ってます。

    オカリナの主宰をした、うりちゃん。
    沖縄の歌の紹介・演奏をした、はーみ&るみねぇ&ゆきのさん。
    阿波踊りの主宰をした、さなえちゃん&ゆり&みっちゃん、照明でお手伝いしてくれた、てっちゃん&りょうくん&しげさん。
    ビデオの撮影をしてくださった、いけやん。
    それにそれに、出演されたすべての仲間と、一緒に楽しんで下さったゲストの方々&仲間&語学の先生方&職員の方。
    本当に、本当に、ありがとうございます。

    んで。
    17時半に、ゲストの方をお見送りした後、急いで身支度して、街中へ繰り出しました。
    今日は、とても多くの方が繰り出しましたねぇ。(バスがすし詰めでしたから)
    駅前の「わかまつや」というところ(ブラジル料理のお店)で「三十路会」の第2回目の飲み会が。
    今日は、前回の半分くらいの人数でしたが、なぜか23歳前後の、活きの良い(笑)メンバーも加わり、楽しいひとときでした。
    飲み会恒例の「女の子のなかで、気になる子はだれ?」っていう話とか、脱ぎ出す人もいて落ち着いていて、それでいて楽しいひとときになりました。
    本部長、きよちゃん、うらん、まきさん、ゆうじさん、つむぎさん、たのしゅうございました。
    一生の思い出に残る1日です。

    「2003年6月8日(日)」

    え~、土曜日の日記は、日曜日に書いて、日曜日の日記は月曜日に書く・・・そんな今日この頃ですが。
    前夜は、いい酔っぱらいになって、KTCに帰ってきました。
    んで、カップヌードルをすすってから、快眠・快眠・快眠・・・・。

    日曜日は5時に起きて、ちょいと準備を。
    実は、前日の交流の際に、サフェールさんが、「日本の都道府県について、どんなのがあるか教えて下さい」とおっしゃっていたのですが、説明できないまま終わってしまったので調べてみようかと。
    図書資料室に行くと、ちょうど良いことに「JAPAN ALMANAC」っていうデータ本があり、そこに英語で都道府県の位置やデータが書いてあったので、ラッキーとばかり、借りました。
    あと、アジアのフォークソングを収録した本も見つかり、それも借用。
    駒ヶ根の地図に英訳をつけたりコピーしたりして、時間を過ごしました。

    8時過ぎ。
    バスで、光前寺まで行き、ゲストを待ちました。待つこと15分ほど。ゲストの方々が到着。
    サフェールさん・アンジュムさんと固い握手をして、再会を喜び合いました。
    そして、サフェールさんが「アーゲーチャレン(先へ行こう)」とリードして下さり、一同はまず光前寺へ。
    この日は、朝から快晴で、アルプスの山並みもくっきり見えて、とても気持ちがよかったです。
    光前寺では、山門~石畳~光り苔~三門~鐘楼~本堂~お墓~三重の塔を順番に。
    鐘楼では、「パーキスターン ジンダバード!!(万歳)」とばかり、サフェールさん・アンジュムさんともに鐘をついていらっしゃいました。
    お二人とも日本のお寺には興味しんしんのようで、「私はイスラム教だが、日本の神とはどんなものぞや」とか「あなたは仏教徒か」と盛んに質問されていました。

    その次に、徒歩で2キロほど離れた「駒ヶ根ファームス」というところへ移動です。
    途中、オカリナで「さくらさくら」を吹いたり、パキスタンの歌を歌ったり、写真を撮ったりわいわい言いながら歩いてました。
    他のグループのゲストともお話をしたりね。

    そして、歩いている内に気づいたのですが、お二人と私たちの距離が、とても近くなっていることに気づきました。
    昨日は、どちらかって言うと何となくOfficialな感じで、うち解けつつあるが、なんとなくFormalなところも・・・ありましたが、今日は、腕を組み、肩を組み、笑い、会話も弾む・・・・そんなひとときでした。
    んで、サフェールさん・アンジュムさんが特によろこんで下さったのが、

  • 都道府県の資料などを渡したとき・・・「バホット アッチャー へ」と喜んでくださいました。ちょこっとだけでも、お二人のリクエストに答えられたようでうれしかったですね。
  • 駒ヶ根ファームスについて、アイスクリームを買うときに、実はサフェールさんが買ってあげると言って下さったのですが、ここ(駒ヶ根)では僕たちにおごらせてくれ、と言ったとき、「よくぞ言ってくれた、それでこそ、もてなしの心だ!!」 という感じで喜んでくださいました。
  • サフェールさんに「あなたはJICAからいくらお金をもらうのか」と聞かれ「額はたぶん少ないけど、パキスタンのために一生懸命がんばるよ」と答えたとき、サフェールさんの顔がぱっと輝いて「よくぞいった」と握手してくださいました。

    時間は、あっという間に過ぎ去り、サフェールさんとは固く抱き合って、アンジュムさんとは固い握手をして、名残を惜しみながら、いったんのお別れをしました。
    「いったん」というのは、お二人とも、秋までにはパキスタンに戻られるので、またお会いすることができるということ。
    「困ったことがあったら、電話してね」と電話番号の他、メールアドレスまで教えて頂きました。
    こうして、日本にいながら、パキスタンの友人を2人つくることができ、うれしいです。
    11時過ぎにゲストの方を乗せたバスが、駒ヶ根ファームスを出発しました。
    そのバスをまた、ツヨポンたちと、阿波踊りをしながら見送りました。
    また、バスの中から身を乗り出すように見て下さる方もいて、うれしかったですね。

    バスを見送りながら、肩の荷が下りた心地がしました。
    とてもきつい1週間だったけど、このときのためにあったんだと、なんかすべての疲れが洗い流されていく心地がしました。
    このあとは、ダディと一緒にプラプラとベルシャインの方へ。
    途中通り過ぎた、バス乗車のメンバーからは「あの2人濃い~ね」と言われてたようですが(笑)。
    TSUTAYAでCDを返却・レンタルしたり、ベルシャインや駅前で買い物をしたりしてKTCに戻ってきました。
    その後は、散らかりまくった部屋をきれいにしたり、HPの更新&レポート作成&その他いろいろをして過ごしました。

    いよいよ、土日休みはあと2回。
    実質2週間ほどで、語学などの主要なプログラムは終了してしまいます。
    みんなとの別れがあるということでもあります。
    別れのことは、考えたくない・・・・そんな日々になってきました。


    所外活動を振り返って

    今日は、所外活動(3回目)の日でした。

    所外活動ってゆうのは、KTC(駒ヶ根訓練所)の「実施要領」ってのを見ますと・・・・

    “駒ヶ根市内の各種社会福祉施設や、農家への協力活動を通し、地域社会との交流を深めつつ、不慣れな社会での振る舞いと行動を考える機会とする”ということであります。

    私なりに要約しますと、”駒ヶ根の人たちと仲良くなりましょう”ってことになります。
    4月に入所してすぐ、活動先一覧を参考に希望調査がとられます。(希望通りいくとは限らない)
    僕は、協力隊に行きたいと思ったのが、5年前の北海道の牧場でのことだったので、「牧場のあるところに行きたい」という希望を出しました。
    その願いが通じたのか、活動先はY本H志さんという、稲作&肉牛肥育のお宅でした。

    5月8日(木)(1回目)
    大雨で、ずぶぬれになって、お宅に到着。早速、着替えのつなぎを出して下さる。
    田植えの準備の予定だったが、雨でできないので、終日、牛舎内の仕事(掃除・ワラ切り)。
    ・・・むちゃくちゃ軽作業。切ったワラをベッドに見立てて、ハイジの気分になりまくり。
    昼食は、焼き肉(豚)&サラダ&スパゲティ&レンコンの煮物&手作りピザ・・・もういっぱいすぎて食えましぇ~ん。

    5月16日(金)(2回目)
    The田植えの日。苗代で育てていた苗を田植機にセットするための肉体労働Only。

    1 苗床を覆っていたシートの骨組みを外し、30本ずつ束にする。
    2 田植機用に育苗箱に入った苗が苗床にしっかり根付いているので鎌などを使って根切りする(1000枚以上はあったはず)
    3 根切りした育苗箱をユニック(トラックについているクレーンのこと)で運べるように大体40箱ずつ鉄製のトレイに入れていく
    バケツリレーよろしく、1箱5,6キロはある育苗箱をこの日だけで500以上は受け渡ししたんですよね。これが一番きつかったなぁ。
    4 代掻きが済み、田植え直前の田を何往復もして、農薬をまく。
    ひざまでつかるぬかるみの中を歩くのは、ダイエットにとても効果的なことが分かりました(笑)
    このような仕事を5時過ぎまで、びっしりと。疲労がすぐ来たことに、自分はまだ若いんだ(笑)と喜びつつも、日曜日までぐったり。

    んで、3回目の今日となりました。
    今日は、その育苗箱をひたすら、Wash Wash Wash・・・・・・・・・・。
    育苗箱洗い機ってのがありまして。水を出しながらブラシが回転して、どろを落とす仕組みになってます。
    それに通して、落としきれなかったどろをたわしなどでこすり、水洗いしてパレット(フォークリフトのツメが入る木の乗せ台のこと)に載せる。・・・・・それを分担して、5時過ぎまでやってました。
    はっきりいって、仕事は大変です。きつくて。
    でも、このY本H志さん宅に来た、先輩・私たち・後輩の方は、みんな、また、ここに遊びにくるでしょう。
    なぜか。
    それは、Y本H志さんご夫妻の人柄&これでもか!っていうもてなしにあると思います。
    まずはお父さん。声をがなりたてるってことはないですが、よく働き、それととても優しい。おかあさんが惚れるのも無理はないな(納得)と。

    そして、名物はお母さん。
    まず声がでかい。ずけずけストレートに話されるんで、その魅力にみんな引き込まれていきます。
    そして、心遣いがとてもきめ細やか。1回目のときの着替えもそうでしたね。
    それと、よく動く動く動く。
    みんなは、まずここに惚れていきます。

    そして、もてなし。見返りなど、何も求めていませんが、食事がゴージャスすぎます。
    3回目の今日などは特に。
    こちらのお宅では、「村沢牛(むらさわぎゅう)」という銘柄の黒毛和牛を肥育されていて、それを京都の市場に出荷されています。高い部位は100グラム2000円以上はするんですよ。昼食は、そのお肉を京都の精肉店から送ってもらって焼き肉♪ ← 炭で焼きながらですよ。
    すいません、今まで食べていた肉、あれは牛肉だったんですかねぇ・・・っていう美味しさです。
    ・・・・みんな、口数も少なく、食べ尽くしてしまいました。
    そして、チョー絶品は「ユッケ」。
    その場で刻んだ村沢牛に卵黄と特製タレを混ぜあわせて、いただいてみました。
    ・・・・・すみません、涙流していいですかっていうくらいの美味しさです。
    1人前10000円以上の牛を、みんな食べ尽くしてしまいました。
    そして、5時の作業終わりには、もてなしのお茶に「五平餅」。
    所外活動の時は、KTCから昼食の仕出し弁当が支給されるのですが、そのご飯をつぶして団子にし、焼き肉のときの炭でこんがり焼いて、サンショウ&くるみ&味噌のあんをまぶしてできあがり・・・っていうヤツでした。
    ・・・・これがまた美味しい♪・・・・KTCの夕食がこのあとすぐでしたが、食べれませんでした。(←五平餅の食い過ぎで)

    そして、おみやげに、ストレート100%のリンゴジュース(ほぼ自家製で混じりっけなし)を2本いただいて、帰ってきました。
    いや~、すごすぎです。こんなにしてもらっていいの?てな感じです。
    7月3日の修了式のときに、来て下さるとのことなので、メンバーみんなで、感謝のプロジェクトを極秘企画中です。
    今日で、79日分の43日が終わりです。
    野外訓練・所外活動が終わり、イベントが1つ1つおわるたび、ここを離れなければならないさみしさを感じるようになってきました。
    これは、1次隊のメンバーみんなが感じていることだと思います。
    今日、育苗箱を洗いながら、話していたことですが、私たち同期のメンバーが必要になってくるのは、実は、任国から帰国してからではないかと。
    2年間の任国よりも、はるかに長い人生を、一緒に歩いていく仲間が多ければ多いほど、人生の質と量は、すばらしいものになるのではと思います。
    その意味でも、KTCでしっかり友情・助け合い・励まし合いの土台をつくっていきたいと、心に刻んだ1日でした。


    なぜ協力隊を目指したのか

    1998年4月、新卒4年目の私はA中学校に転勤しました。1年担任(学年1クラス=28名)それと社会科の教科を担当しました。

    A中学校が農村地帯にあるからか、素朴で落ち着きがあり、真面目な印象の子どもが多いのですが、出身校以外の子どもとはなかなか打ち解けようとしないように私は感じていました。また、男子と女子の間もしっくりいってないことも気になっていました。
    しかし、「問題行動」というのは全くありませんし、他の人なら、この1年生の子どもたちを「見た感じは活発ではないけれど、静かで落ち着いた子どもたち」だと感じたと思います。

    しかし、私は

  • 何につけても(ホームルームや授業も含めた私の見える範囲で)発言が出ない
  • 学級活動(係活動、日直活動)で自主的に子どもが動けない
  • 日に日に子どもの目が死んでいっていると強く感じられる

    ことを何ともできない自分の無力感に、いたたまれなくなる気持ちを日に日に募らせていきました。
    そうした自身の悩みを、私は同僚を含む他の人に積極的に打ち明け、一緒に考えてもらうということができませんでした。
    その結果、「このままでは、このクラスがダメになる。それは、私の責任だ。私は、教師の資格がない。このまま私が担任を続けてはいけない。1年生の早い内、1学期に私が担任を辞めれば、子どもへの影響は最小限におさめられる。よし、私は教師を辞めよう。」という発想しか受け入れることができなくなっていました。

    そして、6月中旬には1度目の辞表を校長に提出しました。
    そのときは校長から「1年間、とにかく悩みを俺に預けろ」と言われて気持ちを持ち直し、頭を丸刈りにして一からやり直そうとしました。
    しかし気持ちは数日と持たず、7月初旬には再び辞職を決意していました。
    そのときには、「男が一度、身の処し方を決めた以上は絶対にその決意は変えない」と思い詰めていました。
    7月の中旬になると、教育委員会の方が慰留に来るだけでなく、前任校の同僚の先生が車で何時間も離れた地から駆けつけてこられたり、校長からの電話で知った実家の母と妹が北海道まで来て説得をしに来るということもありました。

    「休職してはどうか」「一度教員を辞めると再びやることは難しいから考えてみては」とも言われましたが、私は「休職という身分保障はいらないので7月一杯でやめる」の一点張りでした。

    そして、校長室で辞職の最後の念押しがされた後、正式に依願退職の手続きがとられました。
    7月25日と記憶していますが、1学期の終業式の際に離任式が行われ、久しぶりに出会った子どもの前で離任の挨拶をし、その後、教室で通知表を私が子どもに手渡しをし、簡単に挨拶をした後、別れました。

    このときのクラスの雰囲気はどう説明してよいか・・・敢えて表現すれば一見平静を見せていましたが、子どもにとってはあまりの衝撃で、感情の表現がしようがないというか、真空状態にあるというか、そうとしか表現できない空気であったのを今もはっきりと感じ取ることができます。
    7月31日をもって教員を退職しましたが、晴れ晴れとした気持ちは全くなく「もうどうにでもなれ!どうにもならんかったら死ねばいいだけやし」と思っていました。

    8月20日に家を出ることにしていましたが、次にどこかに家を探すという気持ちは全くなく、まあ、住み込みの仕事を見つけるかというぐらいに考えていました。
    アルバイト雑誌を買い求め、何となく選んだのが牧場(乳牛)の仕事でした。
    (のんびりしてていいかなあというぐらいの気持ちでした。)
    ちょうど、人手不足だということもあって8月20日に家を出た次の日の夕方からは、その牧場で搾乳の仕事をしていました。
    朝5時から夜9時過ぎまで、昼間に牧草狩りがあると本当に休みなく働きました。
    最初の3日間で足の皮がめくれ、毎晩湿布を足に貼って寝るくらいでした。

    そして余りに働きすぎると余計なことを考えなくなるというのか、「死にたい」という気持ちはどこかに追いやられてしまいました。
    「これからどうしようか」ということをずっと考えるようになっていきました。

    まず思ったことは、私の生きざま、特に年度途中で担任を辞めてしまうような「中途半端で」「衝動的で」「極端から極端に走る」行動をしてしまう面をどうすればよいだろうかということでした。
    考えていくうちに“自分で決めたことを最後までやりとおす”経験を是非したいと思うようになりました。
    (入試や教員採用試験は合格できましたが、努力しないままに何となく合格してしまったという気持ちがありました。)

    次に思ったのは「人の役に立つ仕事がしたい」ということでした。
    私の場合、人に対してとても親身になれる部分と拒絶的・冷淡になる部分が同居していて、人に冷たい対応をしたなと思った後は、親身になれる部分の私との葛藤になってしまい、かえって落ち込むことをよく経験していました。
    そんな自分を乗り越えるために人のために尽くせると実感できる仕事がしたいと思うようになっていました。
    このようなことを、いろいろな感情の波に呑まれながら、少しずつ形づくっていったように思います。
    そうした考えから「海外ボランティア」ということが一つの目指す方向性に見えてきました。

    具体的に「青年海外協力隊」の応募を考え、資料を取り寄せて読んでみると、養護学校教員免許を取得しておけば可能性が無くもないことが分かりました。更に調べていくうちに、教育大学には養護学校教員免許を取得できる専攻科があることが分かりました。
    >> 青年海外協力隊に出願するまで http://www.ktc-johnny.com/jocv-index#syutugan

    1998年夏から翌春にかけて、猿払村・東藻琴村の牧場で仕事をしながら準備し、1999年4月北海道教育大学札幌校の特殊教育特別専攻科に入学しました。
    1年半かけて養護学校の免許をとり、2000年12月から、札幌・函館の養護学校で期限付き教諭の仕事をさせていただきました。

    2002年春、協力隊「養護」の部門に応募して、8月「パキスタン」の通知をいただきました。
    2003年3月20日、イラクで戦火が拡がり今後の予断を許さないところですが、生きることに一生懸命な人たちに出会って学ぶことが出来ればと思います。


    初版 2003年3月27日 最終更新日 2003年06月21日

  • コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。* が付いている欄は必須項目です