協力隊活動inパキスタン一覧


アフガニスタン・ペシャワール会職員拉致事件に思うこと。

初版:2008年8月30日 更新:2018年5月11日(リンクチェック)

週明け。
アフガニスタンから飛び込んできたニュースに釘付けになった。

Wikipedia | アフガニスタン日本人拉致事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%AC%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E6%8B%89%E8%87%B4%E4%BA%8B%E4%BB%B6

2008年8月26日(火曜日)、アフガニスタン東部ジャララバードで活動する非政府組織「ペシャワール会」の日本人ワーカーが、何者かに拉致された。
2008年8月27日(水曜日)、アフガニスタン国内で日本人男性らしい遺体を発見。
2008年8月28日(木曜日)、発見された遺体を拉致された日本人男性と確認。
2008年8月29日(金曜日)、亡くなられた日本人男性を偲ぶお別れの会が現地で行われる。ご遺体が日本に向けて出発。
2008年9月1日(月曜日)、故郷の静岡でご葬儀。


ペシャワールという地名は小学生のころから知っていた。
ソ連侵攻後、パキスタンへ逃れてきたアフガニスタン難民のキャンプがペシャワールという街にできたこと。
勉強嫌いだったから大口たたいているだけだったけれど、小学生のころ外交官になって難民とか大変な人たちを助けるんだ、そんなことを思っていたから、難民キャンプの様子がテレビで流れるとじっと見入っていた。

そして2003年春。
私は協力隊員としてパキスタンに派遣されることになり、長野・駒ヶ根訓練所に入所した。

そこで初めてペシャワール会の存在を知ったように思う。
語学講義の合間に観たテレビ番組の録画だったか、本で読んだか、任国講座という講義で現地在住だった方から話を聞いたか。
協力隊、JICA、国のODA事業とは一線を画した活動をされていること、私が小さいときから地名だけは知っていたペシャワールでずっと活動されていること、などなど。
現地に行く前だったから、国の事業と一線を画してといってもどう違うのかイメージは掴みにくかった。
ただ、素直にへぇ~一生懸命やっていらっしゃるんだなぁ、そういう印象だった。

駒ヶ根訓練所での79日間の訓練が終わって私がほかの6人の隊員さんとパキスタンに派遣されたのが2003年7月。
現地に着いてからは言葉の壁、異文化での生活、仕事での不慣れ、、、そんなことが一気に押し寄せてきて、あれよあれよと半年1年が過ぎていった。

パキスタンだけでなく、協力隊を派遣するにあたって、その地域で安全に活動できるかどうか、JICAサイドで慎重に判断をしている。
1995年にパキスタンへ協力隊員が派遣されはじめ、ペシャワールにも隊員が赴任したことがあったとお聞きしたが、印パ緊張、911事件、宗派間の衝突などいろいろな不安定要因があってだろう、私たちが赴任した2003年当時、ペシャワールを含む北西辺境州(N.W.F.P)のほとんどの地域では活動が見合わされていた。
そうした事情などいろいろな見地からだろうと思うがパキスタンでの活動地域はイスラマバード・ラホールなど大都市が主であり、国土の半分以上の地域への旅行も制限されていた。
だから、同じ国で活動をしてはいるけれど、ペシャワール会との接点がないまま赴任後1年あまりが過ぎていった。

派遣から1年が経ったころ、日本の友人からNHKでペシャワール会の特集番組があったことを知らされた。
もしかしたら、衛星放送で再放送が見られるかも・・・とJICA事務所に夜遅く行ってのホールにあったテレビの前で今か今かと待ったが、電波状態が悪かったか放送プログラムを見間違えてたかで見ることができなかった。
でも、とてもありがたかったことに、その友人が録画したテープをわざわざパキスタンまで送ってくださった。
しかも、日本とは映像の方式が違うので、パキスタンでの映像方式(PAL)に変換していただいて。

戦乱と干ばつの大地から~医師 中村哲 アフガニスタンの20年:NHK-ETV特集(2004年7月17日放送)
http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2004/0717.html

番組は、代表の中村哲さんが出演されていて、なぜペシャワール会を立ち上げたのか、そしてこれからどう進んでいくのかを豊富な映像資料をもとに紹介されていった。

自分がいまリアルタイムで活動しているパキスタンで見聞きし暮らしてきたのと同じ風土、顔立ちの人々の話だから、その映像の中に自分をオーバーラップさせやすかった。

医師としての医療活動にとどまらず、井戸掘りと用水路づくりに活動を発展させていく行動力、着眼力には驚くしかなかった。

一般的には、パキスタンのどこに住もうが、
”おっかない、怖い”
イメージがあるのではないだろうか。
確かに、身の回りの用心は日本よりも慎重になるが、それでも当時のイスラマバードはパキスタンの中では平穏なもの。
生活に慣れると夜遅くにバザール(市場)とかへ出かけて帰るってのもよくあったし。
コンビニと自動販売機と公衆トイレがないだけで、生活の苦労はそれほど感じない・・・・そういう風に当時思ったりしていた。
せっかくの異文化での2年間、いろいろなことを知りたいという気持ち。
それと、現地生活に慣れ、マンネリになることを避けようと思っていた気持ち、それがきっとあったのだ。
だから、協力隊では行くことのできない、住むことのできない地域で活動するペシャワール会にとても興味をもったのだと思う。

日本の友人から送っていただいたビデオは、街のビデオ屋でCDに焼き直してもらい、希望する隊員さんに見てもらったりした。
それだけではなく、ぜひペシャワールの本部病院を見たい、そういう気持ちが募っていった。
ペシャワール会の公式サイトを見て、現地訪問の手続きを確認し、ぜひ見学させていただきたい旨を連絡した。
そのころのペシャワールの情勢は比較的落ち着いていたこともあって、ペシャワール会事務局の方からもJICA事務所サイドからも訪問の許可をいただくことができた。
そして日程を調整し、活動中の隊員さんにも声をおかけしてペシャワール会現地病院(PMS)を訪れることができたのは帰国半年前の2005年1月のことだった。

Peshawar Kai Medical Service : ペシャワール会病院の見学(2005年1月16日)
/2005-01-16-peshawarkai.html

熱心に働く日本人職員の方たち、一緒に働くパキスタン・アフガニスタン人スタッフにも熱心に仕事する方がいて、きちんとした組織運営がされている病院だと思った。
その場に中村哲さんはいらっしゃらなかったけれど、その中村さんのパキスタン・アフガニスタンにかける思いがスタッフに伝わっている、そういう志を場の雰囲気の中に感じたように思う。
思いがけず、日本人職員の方々のご好意で、当初予定になかった昼食会を持ってくださり、私たちも質問することができたし、職員の方のお話も食事をいただきながら伺うことができてとても有意義なひとときになったことは今も忘れない。

その後、私はこの病院を訪れることはできなかったけれど、帰国後もペシャワール会のサイトは見させてもらっていて現地報告などは読ませてもらっていた。
パキスタン政府が方針を改めて、アフガニスタン難民を全員帰国させることにし、その援助団体としてペシャワールでの活動を認められていた会が活動拠点をアフガニスタンに移さなければならないかもしれない、、、そうした情勢の変化も気になっていた。

そして、先の事件が起こるほんの数日前。
一緒にペシャワール会病院を訪れた協力隊OBの方が中村哲さんの講演会に参加し、その様子を知らせてくださっていた。
気にはなっていたけれど、日本の生活に忙しくしている中でどこか遠い世界のような気もし始めていた、そんな折りのメールだったから、まず始めに思ったのは「懐かしい」ということだった。

その数日を置かずの悲しい事件。

見聞きし住んだ場所とよく似た大地。

ニュース映像を見ながら、記事を読みながら自分を重ね合わせてみる。
・・・苦労は相当なものだったろう。
40度以上になる酷暑の大地。食事や習慣だって日本とは違うこと多すぎ。

働くといっても現地の人もピンキリ。

異文化の中で暮らせばいろいろな葛藤もストレスも愚癡もいっぱいあったはず。
だからパキスタンから帰国したとき、誰の目も気にすることなく自由に街中を歩ける開放感、生の刺身やお寿司、豚肉、お酒など美味しい食事を食べられる日本っていいなぁと思った。
でも、帰ってきて時間が経つと、うっとうしくさえ思ったかの国の人たちの、おせっかいやきなところや人なつっこいところが、今の日本が人間関係がだんだん希薄になっているように感じられるところと対比して「あれは良かったなぁ」と思い返してみたり。

パキスタンでの2年間、いろんな人の家にお呼ばれし、泊まりに行ったし、結婚式に呼んでいただいたりした。
裕福な家もあれば、慎ましい生活をする大家族の家もあった。
職場の同僚の家もあれば、旅先で仲良くなって泊まらせてもらった家もあった。
男性と女性では生活の仕方、人付き合いの仕方が異なるイスラームの社会ではあったし、中には日本人と付き合うことのメリットを計算しているかな?と感じるケースもあったけれど、いったんうち解けると家に呼ばれるわ、ごはんをいただくわ、他の家に遊びにいったとわかると逆に嫉妬されたりとか、家族同様の人づきあいをしてくれたと思う。

協力隊活動後帰国して10年にもなろうかという先輩隊員のことを忘れない職場の同僚たち、帰国してから何年経っても手紙やメールや電話で仲の良かった人と話をする帰国隊員の話は数限りない。
街角で写真など撮っていると、俺も写真撮ってくれといい、撮り終わるとそれで満足して去っていく見知らぬおじさんたち。子どもたちも写真大好きでみんなわぁっと周りに集まってくる。
写真をプリントしてあげるととても喜んでくれたものだった。

お亡くなりになった日本人ワーカーさんが体験されたこと、彼らに感じたことの幾分かは、私も経験してきていると思う。
そうであるから、
危険であることは承知しているけれども、何とかこの人たちのためになることをしたい
・・・と思われた気持ちは、私の限られた経験の中で考えてみても強く伝わってくるような気がしてならない。

事件が起こって数日。
錯綜し、限られたルートからしか情報は伝わってこないが、その日本人ワーカーさんが拉致されたと聞くや1000人もの現地住民が捜索・追跡を手伝ったということは、現地の人々の信頼の大きかったことを強く感じるニュースだった。

Daily JCF | NGOメンバーの死と<不朽の自由作戦>=OEF(2008年8月28日)
http://jcj-daily.seesaa.net/article/105634994.html
事件の報道についてまとめられたもの。

お亡くなりになったワーカーさんがアフガニスタンに渡られてから4年8ヶ月が経っていたという。
私がイスラマバードで活動していたころにアフガニスタンに来られ、そして今までずっと活動を続けておられたことになる。

その献身的な活動に敬意をささげ、心からそのご冥福をお祈りします。


さて、今回の出来事は、私が暮らし見聞きした場所に関わって起こったことだから、ショックも大きかった。
事件が起こる前は好意的に扱われていたペシャワール会が、この事件を機にバッシングされはじめていることに驚いている。

こうした風潮は、2004年のイラクでの日本人拉致事件以後、日本人の海外危険地域での渡航・活動に対して厳しい論調が目立つようになってからより強くなったように思う。。

Wikipedia | イラク日本人人質事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E4%BA%BA%E8%B3%AA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

1993年、カンボジアの平和維持活動に従事していた日本人国連ボランティアが銃撃されて死亡した事件があった。

Wikipedia | 中田厚仁
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%94%B0%E5%8E%9A%E4%BB%81

学生をしていたころだが、大変痛ましい出来事でそれからもしばらくずっと忘れずにいたことを覚えている。
国連ボランティアとNGOワーカー。
働いた場所も、その危険度など実情に違いはあるけれど、その国に対して何かをしたいという志を持って渡っていったことは同じ。
でもそれを受け止める社会の雰囲気は変わってしまったようにも思える。
私が悲しく思うことは、事件に遭った人々を厳しく指弾する意見にそのまま反射的に反応して、徹底的に追い詰めるかのような風潮を感じることだ。
いつの世も変わらないことだと思うが、
いまは正義だ、まっとうだと思われていることが後年正反対の評価を受けることがあるし、
シロがシロとも言い切れないし、限りなくシロに近いクロもあれば、クロに近いクロもあるし、
単純に割り切れない世界。理不尽なこと、不条理なこともたくさんある世界だし、
「毀誉褒貶(きよほうへん)」、自分の人格を出して活動すればするほど、評価の声もバッシングの網もかぶるもんだし。

いつかパキスタン協力隊の先輩とお話をしているときに、昨今のきな臭いパキスタン情勢の話題が出た。

私 :「パキスタンもいろいろな事件があって、支援事業も大変ですよねぇ」、
先輩:「そういうところで右往左往しても始まらない。どんなことになっても支援を続けていくんだってハラでいるよ」

今回の事件を機に、改めて2004年に放映された番組を見直した。

アナウンサー:
この20年間、一度も、もう疲れた、嫌になった、あきらめようかな、とそういう考えが浮かんだことははないんですか?

中村哲さん:
いやしょっちゅうありますね。
けど、ま、ここでひきさがっては男がすたる と、ま、ちょっとこれは語弊がありますが、やはり、こんなことくらいで日本人がくじけておれるかという気持ちがあるのと、まぁ自分がいなくなったらこの人たちは困るんじゃないか、と、思ってですね、ま、仕方がないけど、ま、ちょっとがんばるかということで月日が流れていったような気がしますね。

わかりやすい筋書きとしてはですね、
中村医師という立派な高潔なヒューマニストがいて、そこで忍耐強く粘り強くがんばってそれに感動した人々がそれに付いてくる、というのが話としてはわかりやすいんですよ。
ところが実態はそういうもんじゃなくて、もうだめかな、という時にいやーもうちょっとがんばってみるか、と、このまま帰って行くのも、自分の恥がどうのこうのじゃなくて、こんなことくらいで日本の男がひきさがっちゃ、世の中つまらないよ、という気持ちと、それと、残された人が困るんじゃないかという気持ちでですね、
ま、いわばかろうじてつないだ、ということはたくさんありますね。

ペシャワール会では、日本人スタッフのアフガニスタン国外退去などの対策をとるとニュースなどで伝えられている。
これ以上の悲劇が出ないようにそうした対策は必要だ。
親よりも先に子どもが死んでいく不幸はない。
しかし、先のインタビューの中で中村さんが話されているように、このままでは放っておけない、そういう切実な気持ちで何度も挫折の危機がありながら続けてこられた活動であると思う。
国連もJICAも入るのが困難な場所で。
その事業は未だ途中。
現地の人を感染症から救う、飢えさせない、生活の基盤を作ろうという願いから始められた井戸掘りだし用水路建設だし農場整備だから、現地の人が望む限りこの事業が成就することを切に願っている。

会報号外

会報号外

【2008年9月24日(水曜日)追加】
今日、ペシャワール会から会報の号外が届いていた。

その中の一部記事は以下のリンクで読むことができます。

追悼:現地ワーカ伊藤和也さん
http://www.peshawar-pms.com/kaiho/ito/tsuitou3.html

現地の人たちの話、ペシャワール会の方の話、どれも胸を打たれるものだった。
そして、お父さんの話を読ませていただいて、亡くなった伊藤和也さんを育てられたご両親・ご家族の懐の大きさを強く感じた。

現実に心配していたことが起きてしまいましたが、私たち家族は決して和也をかわいそう、気の毒など思っておりません。小さい時からやさしく他人思いの子で、妹・弟に対してもいつも自分は一番後でいいと言って何でも譲っていました。
(中略)
むしろ今回の事で改めて我が子がこんなにもたくましく成長していることに喜びさえ感じます。
(中略)
和也は新たに別の世界に旅立ちましたが、また大好きなアフガニスタンの地で心暖かな村の人達と一緒になって井戸を掘り、川を造り、作物を育て、子供たちと仲良く話をしていると思います。私たちは決してアフガニスタンを憎んでおりません。恨んでおりません。ほんの一部の人間によりこのようなことになりましたが和也も同じ気持ちだと思います。
(中略)
たまに帰ってまた出掛けるとき、いってらっしゃいと声をかけると、行くんじゃなくてアフガニスタンに帰るといって出ていきました。「アフガニスタンの夜空は星がキレイだよ」と言っていました。和也はアフガニスタンの星になりました。そして我家の大きく輝く星になりました。逢えなくなったことは寂しいですが、和也はアフガニスタンで生きております。
(中略)
今回の事で和也は私たちが無くしていたもの、忘れていたものを教えてくれました。思いやり・人の心の暖かさ・そして急ぐ事無くゆっくりでも少しずつ積み上げていく事の大切さ、道徳の心を。

伊藤正之様挨拶より
http://www.peshawar-pms.com/kaiho/ito/ito1-3.html

いま、次のステップを目指して語学やら何やらと準備をしているところだが、自分の生き方とかどういうこころざしをもっていきたいのか、そんなことを自分に問うていることがよくある。
協力隊から帰ってきてから、自分のうまくいったことよりも失敗したなと思うこと、忘れようとしている苦い思い出を思い返しながら、そこから学べること、優しさ・思いやりを持つこと、自分の使命感を押しつけず・さりとて自分を崩さず・でも相手の立場に身を置いて考えたり相手の考えや生活のペースを大事にできる度量や器を持つこと、そんなことを思う。
このお父さんのお話を読ませてもらって、改めて人にとって大切なものは何かを考えさせてもらっている。

この会報号外が届く前にも、ある報道記事にも私は大変胸を熱くし、やはり人にとって大切なものは何なのかを考えていた。

「瞬間瞬間を迷いなく生きた」伊藤さんの同僚が振り返る
YOMIURI ONLINE(読売新聞:2008年9月1日(月曜日)配信:リンク切れ)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080831-OYT1T00731.htm

伊藤ワーカーさんとずっと一緒に働いていらっしゃった同僚ワーカーさんのインタビュー記事。
そのワーカーさんが、

4年以上にわたる共同生活を振り返り、「大好きな村人のために瞬間瞬間を迷いなく生きたと思う」と語った。

というくだりにとても強く心を動かされた。
仕事上での悩み、問題はきっと山積みだったに違いない。
それだけではない。日本に居てても十分わかるアフガンの治安悪化、それにペシャワール会を評する様々な声・・・。
そうした波に微動だにしない信念で仕事をされていた姿を、さきのワーカーさんのことばに私は強く感じる。
さきのお父さんの言葉にもあった「私たちは決してアフガニスタンを憎んでおりません。恨んでおりません。」というところ、ご本人もまったく同じ思いにちがいない。

アフガニスタンにとっても日本にとっても世界にとっても、有為な人材を失ってとても悲しく思うが、その生き方、姿勢を学べていることをとてもありがたいことだと思う。

Youtube : 伊藤さん殺害から1年 アフガン…日本人医師の挑戦(1)


うちのクラスの生徒です(3) – フェイサル君 –

【2005年10月30日(日)追記】
ラーワルピンディの親戚の家に身を寄せているフェイサル君のご家族とお会いすることができました。

地震当時はご自宅だったようですが、家が崩れてしまう前に逃げ出すことができたようで大きな怪我もなくみなさんご無事でした。
シュマイラさん(フェイサル君のお姉さん)は仕事やフェイサル君のことで学校(国立障害者職業訓練センター)に電話をしたそうです。
すると学校の社会福祉担当の方から「フェイサル君たちがまたこちらの学校で勉強されたいのでしたらできます。もし、あなた(シュマイラさん)が学校で仕事をしたいのでしたら、2000ルピーという安い給料で申し訳ないですが仕事をすることもできますよ」と言われたそうです。
「いつまでも親戚の家に住むわけにもいかないから仕事をして別の家を借りるようにしたいのだけれど、2000ルピーでは安すぎてちょっと・・・」とシュマイラさんは考えていらっしゃるようでした。
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帰路変道中記 2 : Kolkata – Bangkok – Narita

■7月24日(日曜日)
朝ごはん: 空港待合室でホットドッグとコーヒー 120バーツ(高っ)
昼ごはん: タイ航空の機内食
夜ごはん: 新宿のコンビニでお弁当など

ちなみに昨日(バンコク)はもう1回マッサージしてもらいました。噂のタイ式マッサージです。
うううん、何て言うんでしょうか、痛気持ちいいってゆうんでしょうか。いや痛かった・・・・(笑)。
さてさて今朝は7時のシャトルバス(100バーツ)でカオサン通り→空港に移動。チェックインもすんなり終わり数時間ぼーっと待合室で待っていました。
この時期バンコクに同期隊員が集結しているはずなのにカオサンでも伊勢丹でも誰にも会わなかったなー。・・・ううん。
で、この待合室でようやく同じ班だったTさんと再会しました。訓練所のときよりもほっそりしていましたが日焼け具合とか顔の表情がぐっとたくましくなった印象を受けました。
で、成田行きのタイ航空便は予定通り11:00(日本時間13:00)すぎに離陸。大きな揺れもなく無事19:00(日本時間)すぎに成田に着陸しました。
で、エアポートバスもこれまたスイスイ順調に都心に向かい、いまは新宿のビジネスホテル近くのネットカフェにいます。
マインズタワー(協力隊事務局のあるビル)からは徒歩3分のナイスな場所ですが、明日はまず広尾の研修所で帰国報告などをする予定になっています。
明日は他国の同期ともたくさん会えるのがとてもとても楽しみになっています。
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帰路変道中記 1 : Lahore – Delhi – Kolkata

2005年7月20日(水曜日)

朝ごはん: カレージー(肝臓カレー)+ローティ 11ルピー
昼ごはん: マトンカレー+ごはん 29ルピー
夜ごはん: 機内食を期待して食べません!(笑)

朝はホテルに程近いムスリム街(イスラーム)を回っていました。この地域ではウルドゥ語の新聞もありますし、シャルカミや白い帽子、ドゥパタ(体の線を隠す布)を着けた方を結構見かけます。
また普通に牛なんかも食べられたりしています。
で、朝食は屋台でカレーを。レバー(カレージー)カレーと小さいチャパティ(ローティ)でしたが11ルピーと実にリーズナブル。なんとなくの印象ではヒンドゥーの人よりムスリムの人のほうが優しいというか正直な人が多いような気がします。

この1週間、100ドル(約4300インドルピー)で生活することができました。もし空港まで余計にタクシーを使って行かなかったり、安物のサンダルを買って結局足が合わずに買いなおしたりしなければ(笑)500ルピーくらいは余るはずだったんですけどね。
さて今日は協力隊の方&マイルストーンの方にそれぞれ1枚ずつはがきを出しました(8ルピー)。
何日くらいでとどくでしょうねぇ。
で、何日も前からホテル(PARAGON)の人たちと約束していたオカリナ演奏を夕方していました。

ヒンディ映画の曲のレパートリーは

TUJEH DEKHA TO
HOGAYA HAI TUJUKO TO
KUCH KUCH HOTA HAI
MAIN HOON NA

の4曲しかないのですが、どれも好評でした。

で、MAIN HOON NA(2004年シャー・ルク・カーン主演)は舞台がコルカタから近いダージリンでしたので、これは大好きな人が多いようでした。
うん練習しておいて良かった良かった。
「パキスタンのシンガー(←私のこと)がインドの歌を歌った。これはとてもいいことだ」
なんて誉めてくれましたし、紅茶もごちそうになりましたし。
夕方4日ぶりに雨が降って少し涼しくなったコルカタでした。
あと1時間ほどで空港に移動し、21日AM2:00のタイ航空でバンコクに移動します。
いや~機内食楽しみにしているんですけど、夜だから出ないかな?(笑)


2005年7月19日(火曜日)

朝ごはん: 紅茶+トーストなど 6ルピー
昼ごはん: チャーハン+ワンタンスープ 65ルピー(龍鳳:ホテル近くの中華屋)
夜ごはん: グレービーライス(あんかけごはん) 20ルピー

マザーハウスのボランティアには行かない分、朝から市内を3~4時間かけてゆっくりまわりました。
コルカタ市内にはハウラー駅・シアルダー駅の2つの主要な発着駅があります。
それらを汗をかきかきまわってみました。
大変多くの人たちが行き交っていました。で、あちらこちらには物乞いをする人が。
パキスタンよりもそうした部分がはっきり見られるのがインドなんだなぁと感じています。
ハウラー駅へは対岸から渡し舟で行きました(片道3.5ルピー)。100人以上の乗れる大きな渡し舟ですが川面を渡る風が心地よく、これもパキスタンにはない光景・体験だなぁと新鮮に感じました。
ハウラー駅ではこの7月に出たばかりの最新のインド鉄道時刻表を購入(35ルピー)。次の旅の際の参考になりそうです。

ここ4日ほど雨が降らずむし暑いものの街中を歩くには都合のいい天気がコルカタ(カルカッタ)では続いています。


2005年7月18日(月曜日)

朝ごはん: マザーハウスでパン・紅茶
昼ごはん: ターリー(カレー3種+ごはん) 50ルピー
夜ごはん: サブジー(野菜カレー)+ごはん 7ルピー

朝MC(ミッショナリーオブチャリティー)につくとすごいたくさんのボランティアさんが集まっていました。
当日朝の飛び入りさんを含めて100人近くいたんではないでしょうか。
で、私が行っているプレムダンにも昨日よりも7~8人は多い方々が向かいました。
仕事は土曜日と同じでもうひとつの大部屋の清掃やら食事の世話などをしていました。
で、水曜日までやろうかなぁと思っていたボランティアですが今日でとりあえずおしまいにすることにしました。
とにかくボランティアが多すぎて働くことがあまりなく物足りないこととがまぁ主な理由です。
これから日本が夏休みを迎える頃になるともっと多くの方がやってくるということでしたが、その時期をはずしたころにまたここには来てみたいなぁと思っています。

で、そんなわけでいつもより15分ほど早めに午前の活動も終わり、気になっていたリコンファームの件を確認しにしないにあるタイ航空の営業所に向かいました。
着くと昼休み中ということで小1時間待っていざ店内に。
・・・・で、どうだったと思いますか。
な、な、なんとさすがインド。普通にリコンファームを受け付けしていました(笑)。いや~来といてよかったよかった。
これでチケットの件は一件落着し、ホテルへの帰り道でターリー(インド式カレー)のチェーン店に入って昼食をとりました。

ターリーは大きな金属皿の上にごはんと3~4種のカレーが器に入っているインド式カレーのことです。
豆+野菜+チキンのオーソドックスなカレーでしたが美味しかった!50ルピー(約125円)とややお高いですがしっかり味付けされていてあっという間にたいらげてしまいました。
街角ではカレーのほかにチョーメン(中華やきそば)、サモサ、プーリー(油揚げパン)などもういろいろなお店がでていて多くの人たちが昼食をとっていました。
それだけでなくしゃれたコーヒーショップやレストランもありそうしたバラエティはパキスタンよりもあって実に楽しいです。
残り2日ほどのコルカタ(カルカッタ)生活になりますが、あすあさっては市内をいろいろ気ままに楽しみながら巡ってみたいと思います。


2005年7月17日(日曜日)

朝ごはん: マザーハウスにてパン・紅茶
昼ごはん: エッグチョーメン(やきそば) 12ルピー
夜ごはん: 牛ステーキ 70ルピー+ラッシー 10ルピー

今日もマザーハウスへ。日曜日はストリートチルドレンのための支援プログラムがあるということで迷いましたが、結局昨日とおなじプレムダンに出かけました。
仕事は昨日と同じ。ただ大部屋の清掃がなかったのでかなり手持ち無沙汰な感じでした。
今日はスペイン人の人とよくおしゃべりしていました。あ、スペイン語じゃなくて英語で。「オラ!(こんにちは)」とか「グラシアス(ありがとう)」など訓練所でスペイン語圏のなかまが使っていたフレーズも思い出して使ったりしていました。

で、正午に仕事も終わり思い出したのがバンコク行きの飛行機のリコンファーム(搭乗意思確認)。
ホームページで見ると利用するタイ航空はリコンファームがいらないようなことを書いているのですが、ここはインド(笑)。いちおオフィスに確認しようと同宿の方が持っている「地球の歩き方」で住所を確認しているとどうも日曜日は休みのようです。
それで念には念を入れて空港のオフィスに行くことにしました。
地下鉄(METRO)でパークストリート駅→ダムダム駅へ行きそこからタクシーに。
インドのタクシーはぼったくるイメージがあったので警戒していたのですが、メーター制だしま、いいかとそのまま乗っていました。
で、空港に着いて請求されたのが110ルピー。(メーターの額面に一定の掛け率で換算します)。ま、この運ちゃん、乗ってすぐから「メーターだと高くなるから120ルピーで行ってあげるよ」と訳のわからないことを言っていたのでま、メーターにしといてよかったなぁと思っていました。

で、空港に着いたもののこちらもお休みということで目的は達成できず(笑)、そのままダムダム駅まで違うタクシーをひろって戻りました。
で、請求されたのが60ルピー(爆)。
おんなじメーター車なのになんで料金表示がちがうねん!!
夜はマザーハウスでボランティアをしている方の案内で美味しい牛ステーキを食べてきました。
それも70ルピーと言うリーズナブルさ。
いろいろなお話を聞かせてくださり楽しい時間を過ごすことができました。


2005年7月16日(土曜日)

朝ごはん: マザーハウスにてパン・紅茶
昼ごはん: サブジー+チャーワル(白ごはん) 6ルピー
夜ごはん: (別の店で)サブジー+チャーワル 7ルピー

早起きして、7時前にマザーハウス近くにあるミッショナリーオブチャリティーの建物に行きました。
7時半ごろになると、わっと人が中に。
無料のごはんの施しをしている様子でした。意外にみなりのしっかりした人が多かった感じ。
ボランティアにはパン・バナナ・紅茶の朝食が提供されていました。で、ありがたくいただきました。
そのまま流れで各施設に出かけていくので、自分と同じ「プレムダン」に行く人を探さなければいけません。
すると韓国から来ている方がそうだよとおっしゃったのでこの方々と一緒に30分ほど離れたところにある施設に向かいました。
到着すると早速エプロンをつけて作業開始。

1 大部屋の壁をたわしでこすってきれいにする。
2 床を洗剤でみがき、水洗いする。
3 ふたたびベッドをセッティングする(マット・まくら・シーツ)

↑30人くらいの大部屋ですが、みんな同じように見えるマットでもこだわりのモノがあるようで、「こっちと取り替えてくれ」と言ったオーダーが多かったのは面白かったです。

4 食器などの洗い、床のそうじ、バケツに水を補充などこまごました作業

をしているうちに10:30のティータイムに。

ここではボランティアが集まってバナナ・紅茶・クラッカーをいただきながら休憩していました。
そのあと、11:00からは食事の給仕をボランティア総出でやります。1枚の金属皿にごはん・カレー2種(野菜+豆)・あげたチャパティを盛ってもらい、入所している方の所に持っていきます。場合によっては食事介助をしたりしました。

そして食べ終わったら、すばやい流れ作業で食器を洗い、12:00ちょっと前にはボランティア活動終了。
長期間されている方も多いようでまぁ見事なボランティア活動でした。
で、ヒンディ(ウルドゥ)語は結構使えました。あとヒンディの歌はかな~りいい感じで受けていました。「なんでこの日本人がヒンディ語を知っているの?」って不思議そうでしたけれど(笑)。
そのあと日本人の方と一緒にその方お勧めのラッシー(ヨーグルトドリンク)屋さんへ。10ルピーですが、パキスタンでも味わったことのない濃厚な一品でもう1杯お代わりしてしまいました。
そしてご一緒に近くのカレー屋さんに。
いいボリュームのごはんとサブジー(野菜カレー)でたったの6ルピーとは驚きでした。
パキスタンよりも割安感がありすぎです。


2005年7月15日(金曜日)

朝ごはん: プラタ+サブジー(野菜カレー) 9ルピー
昼ごはん: 白ご飯+サブジー 20ルピー
夜ごはん: チキンチョーメン(やきそば) 15ルピー

手元にある地図をもとに、朝からマザーテレサの家を探しに出かけました。何度も間違えながらようやく到着し、ボランティアの希望をシスターに告げると午後2時45分に来てくださいとのお話。
それで、それまでの時間、地下鉄を使ってコルカタ(カルカッタ)市内をあちらこちら移動しました。
地下鉄は1995年全線開業。4ルピー~6ルピーのリーズナブルな値段です。駅によってはエスカレーター&エアコン完備でいい感じ。

そのまま時間をつぶして、2時半過ぎに再びマザーハウスに到着しました。やや暫く待った後、ほかのボランティア希望者の方々と2~300mほど離れた施設へ移動しました。
今はバカンスの時期と重なっているとのことでざっと30人近い方が集まっていました。日本人は4人であとは韓国の方が1人、それ以外は欧米の方々でした。

夏の期間、こちらで奉仕活動をされているというMさん(日本人)が親切丁寧に概要を説明してくださいました。
カーリガートの「死を待つ人の家」から始まったマザーの事業は素晴らしいシスターたちに引き継がれ、8つぐらいの場所(コルカタ市内)で活動を展開しています。さらに世界各地にもマザーの事業が広がっているとのことでした。

CEC JAPAN NETWORK | マザーテレサ・ボランティア活動
http://www.cecj.net/india/index.html

そのあと、ボランティアの面倒を見ていらっしゃるシスターに希望者が1人ずつ呼ばれていました。
そして私の番に。

シスター:「どこで働きたいですか?」
私:”I don’t mind.゛(どこでもいいです)
で、1~2秒じっと見つめられたあと
シスター:「あなたはプレムダンに行ってください」

とおっしゃいました。
プレムダンは身寄りのないお年よりの面倒を見ている施設とのことです。

明日は朝7時に行って同じプレムダンへいかれる方と一緒に活動してきます。(午前中の活動予定です。)
コルカタ(カルカッタ)にはこのためだけに来たのでほんの少しの期間ですけれど色々経験できればと思っています。


2005年7月14日(木曜日)

朝ごはん: ナン+ダール(豆カレー)+サブジー(野菜カレー) 20ルピー
昼ごはん: 白ご飯+サブジー(野菜カレー) 7ルピー
晩ごはん: グレービーチョーメン(あんかけ焼きそば) 12ルピー

朝8時まで空港ロビーで夜を明かし、プリペイドタクシー(195インドルピー)でサダルストリートへ。
イスラマバードの隊員ドミトリーに置いていたガイドブックを参考して「PARAGON(パラゴン)」という宿に泊まることにしました。
ベッドしか置けないチョー狭いシングルルーム(言い値の250ルピーを100ルピーに負けてもらって(笑))でしたがまずは荷物が置けて一安心。

その後は近くを歩いているとムサルマーン(イスラム教徒)だという若いお兄ちゃんに誘われて朝食(ベジタリアン)と彼のお店に連行されました(笑)。
彼らの口八丁手八丁に内心笑いながらもウルドゥ語で楽しく会話。

↑のような人は100%「悪質&あやしい客引き」です。確かにパキスタンよりもかなり高い金額(3倍4倍)を吹っかけてきました>同じ品物

ですので、慣れない方には「昼間から日本語を話し掛けてくる&親切に声をかけてくる」インド人は注意されたほうがいいです。絶対に。

ベンガル語が幅を利かせる地域ですが、ウルドゥ、もといヒンディ語が普通に使えるのはありがたいですね。
ただ、

シュクリヤ(ウル)→ダンニャワード(ヒン)、ドンノバード(ベン)
アッサラームアレイクン(イスラム)→ナマステ(ヒン)、ノモシュカール(ベン)

あたりは言い方を気をつけたほうがいいみたいですが。それでも英語が普通に使えてしまうのはさすが。
その後このように普通にインターネットができるお店で快適にメールやページの更新をしていました。日本語も普通に使えてありがたや。

昼からはインド博物館に行ってきました。何かさすが大英帝国って感じで豊富な展示に圧倒されました。ほんとすげーって感じ(笑)。

で、この街にはかなりたくさんのムサルマーン(イスラム教徒)が住んでいることを知ってびっくりしました。サダルストリートに並ぶ店を見ていると白いトーピー(帽子)を被ったムサルマーンらしい人をちらほらみかけました。

そうした人たちが経営するお店ではメニューにBEEFが書いてあったりしますしね。
そのお店ではサブジー(野菜カレー)とチャーワル(白ごはん)を手で食べましたが、美味しかった!
しかも値段が7ルピー(約15~17円)という安さ!

これははまりそうです。


2005年7月13日(水曜日)

朝ごはん: プラタ+チャネ(豆カレー) 18ルピー
昼ごはん: 機内食(PIA) サンドイッチ+紅茶
晩ごはん: 機内食(インドエア) ごはん+カレー+ヨーグルト+サラダ

ラホール空港までマイルストーンの方に送っていただいた後、出国手続き→搭乗手続きへとスムーズに進みました。
そして定刻(14:30、日本時間18:30)よりやや遅れてデリー行きのPIA便は離陸しました。飛行機の車輪が滑走路を離れる瞬間はグッと胸にくるものがありました。
機上から見るインドの大地もパキスタンと同じ様子でしたが、いたるところに大雨による洪水のあとが生々しく見られたのが印象的でした。

デリーも天候不良でしばらく迂回飛行を続けていましたがようやく17:00(日本時間20:30)にデリーに着陸しました。
そこから、連絡バスを使って滑走路の対面にある国内線乗り場へ。
こちらも定刻よりかなり遅れて20:30(日本時間0:00)にコルカタ(カルカッタ)行きのエアバスは離陸しました。いや~、ちゃんと機内食は出るし綺麗な機体で感動しました。
そしてコルカタ(カルカッタ)についたのが22:30(日本時間(02:00)。だいぶ遅くなってしまったのでそのまま空港のロビーで一夜を明かしたのでした。
コルカタはちょうど雨季に入ったとのことで夜通し雨が降り続いたのでした