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パキスタン大水害救援活動(2010年)1:渡航に向けて

初稿:2010年9月1日 更新:2018年5月23日(章立て)

1.渡航に向けて | 2.GNJPさまと | 3.AMDAさまと

はじめに

長野県飯島町のみなさんと行く予定だった、Gilgit-Baltistan州ムルフン村のりんご栽培支援プロジェクトは、渡航2日前に中止になりました。
とても残念ですが、捲土重来、いつかご一緒してムルフンに行ける日が来ることを願っています。
この記事ではその過程、そしてその後自分がパキスタン水害への救援・支援に関われないかと思いながら取り組んだあれこれについて、記録しています。

付記)3年後の2013年夏、ムルフン村を訪れた。
3年越しの願い-ムルフン村を訪問
/2013-paktrip00.html#i-3

2010/08/11水曜日:ドタキャン

朝10時にJICA駒ヶ根を通じて、現地JICA事務所からの情報届く。

・KKH(カラコルムハイウェイ)が完全に不通となっていて、物資(食糧・燃料)がギルギット方面に届かず、欠乏の兆候が出ている。
・ギルギット方面の電力供給源の水力発電所も稼働せず、復旧に時間がかかる。
・もし、このままこのプロジェクト(ムルフン村へのリンゴ技術指導)を実施しても、ムルフン村まで辿り着けない、活動中に移動用の車の燃料がなくなるなどの恐れがある。
・よってまず数週間の事業延期をし、その後は現地の状況をみながら実施を判断する。

といった内容のものだった。

早速、技術指導で渡航予定だったS木さんN原さんに、飯島町内の事務所においでいただき、プロジェクトマネージャーのH場さんと今後について検討をする。

本来、7月渡航予定だったが、フンザ川の湛水問題で8月に延期されていた。
JICAからの勧告では、ひとまず数週間延期、だが、それ以降いつ実施できるか予想ができない。

S木さんN原さんともに、9月以降はリンゴ・なしの収穫選果などで大変忙しくなってくる。
お二方ともムルフン村の人たちを受け入れていた農家さんだ。それにプロジェクトマネージャーをされているH場さんは、この話がはじめて飯島町に持込まれた2002年2003年のころから自費で現地まで調査に行くなど、みなさん一方ならぬ思いをお持ちだ。

でも、本業に大きく差し障ってしまうのでは仕方がなかった。
みなさん無念な思いが表情に浮かんでいらっしゃったけれど、決断は早かった。
「事業は延期ではなく、中止にしましょう」
そう決まると、H場さんはすぐにJICA駒ヶ根に。私も関係各所に連絡するお手伝いなどをしていた。

夜、今回渡航する予定だった方たちで飯島町内の居酒屋に集まる。
お酒を飲み、世間話や他愛もない話をされつつ、無念な思いやいろいろこみ上げてくる気持ちを吐きあう。

最年長のS木さんが
「田舎はね、(こういう残念なことがあると)こう言う風に(残念会で集まって慰めあう)するんだよ」
っておっしゃったのが、とても印象的だった。

2010/08/12木-13金曜日:NGOにアプライ

終日、H場さんの事務所で残務整理をする。
実際に渡航はしなかったが、3台のチェーンソー、20本以上の高価な剪定(せんてい)ハサミ、地元の小学校などで描いてくださった交歓用の絵やイラスト、現地でふるまう予定だった大量の日本食・・・などなどすべて準備&パッキングし、翌日成田に移動というタイミングでの事業中止だから、相当なお金はかかっている。
農機具類などはJICAが後日現地まで届けてくれることになったし、ここまでかかった費用はJICAが負担してくれることになったが、そのための書類は実際渡航していないにも関わらず結構な量になった。

残務整理をしながら、私は自分が何か次にできることはないかなと考えていた。

・今回の案件用に、パキスタンビザが下りている(驚いたことに、シングルビザではなく1年間有効のマルチビザだ)。
・少なくともこの案件が終わる予定の9月中旬頃までは、いままでの仕事だった障がい者の方の介助の仕事も入れずにフリーであること。
・パキスタンに行くための荷物はパッキング済みであること。

それで、前日配信されたURDUメーリングリストで紹介のあった、JANIC(国際協力NGOセンター)さん http://www.janic.org/ に日本から人の派遣をしないか照会した。

すると担当者の方からすぐ返信があり、JANIC本体では行わないが、加盟している有力NGOさんにそれぞれ問い合わせをしていかがでしょうか、と提案していただいた。
それで、JANICさんのパキスタン水害支援のページで特に名前の上がっている6つのNGOさんにそれぞれ照会のメールを出した。

すでに日本から派遣済であるNGOさん、いまは派遣の予定がないが今後検討していくといったNGOさんなど順次お答えをいただいていた。

2005年のパキスタン大地震の時も、救援活動に参加させていただいたが、思いはあっても単独での活動は無力で徒手空拳になると実感していた。

ここは、お声がかかるまで待つよりない。

2010/08/14土曜日:八方池

飯島での残務整理は終わり、慰労の意味も兼ねてだろう、N原さんが北アルプス・八方池へのトレッキングに誘ってくださった。

八方池(長野県白馬村)紹介:信州の旅.comさま
http://www.shinshu-tabi.com/hapouike.html

この日、飯島は結構な雨が降ったようだが、県北白馬村周辺は多少ぱらついたものの、トレッキングには支障なく、日差しも遮られていたから快適に歩くことができた。

雲海を見下ろして – 北アルプス八方池を目指す01

八方池から360度 – 北アルプス八方池を目指す02

トレッキング・食事・温泉を楽しませていただいたあと、松本駅で降ろしていただく。
ここで飯島町のみなさんとはお別れ。N原さんと握手をして再会を約束する。
なんだかどっと疲れたので、このまま松本で宿泊し、翌日名古屋経由で西宮に帰ることにする。

松本は翌週のサイトウキネン・フェスティバルを控えて宿探しは多少難しかったが、少し離れたところのホテルが見つかり投宿する。

無線LANが使えるのでメールをチェックしていると、問い合わせをさせていただいたNGOのひとつ、グッドネーバーズ・ジャパンさま http://www.gnjp.org/ から8月下旬から2週間の現地活動のオファーをいただく。
早速参加可能であることを返信する。

その後、医療救援活動を行っているAMDAの菅波代表から直接メールが届く。
「今後日本から派遣する場合はオファーするかも知れない」という内容がご挨拶とともに綴られていた。
もしかしたら、グッドネーバーズさん→AMDAさんという流れで続けて活動できるかもしれない。

(このとき漠然と思っていたことが実現し、9月はじめ~10月中旬まで救援活動に携わることができた)

この日は大きな動きなく、そのまま宿で休む。

2010/08/15日曜日:松本→名古屋へ

朝、松本のホテルをチェックアウトし、まつもと市民芸術館 http://www.mpac.jp/ 前のCOCOSに入る。
朝食バイキングを食べつつ、レジに置いていたチラシを見る。


スタッフ・ベンダビリリ~車椅子のストリートロッカーズ~
http://bendabilili.jp/
コンテンツ内で紹介されている一文にこう書いてある。

“ベンダ・ビリリ”とは「外見を剥ぎとれ」という意味で、つまり「内面(の精神)を見よ」ということ。「外見は不自由でも精神は最大に自由なんだ」と語っているのです。

こうした手漕ぎの車椅子はパキスタンでもよく見かけた。コンゴと同様に主にポリオの人が使っていた。
そうした姿を「かわいそう」「あわれだ」と思いがちになる。その偏見への挑戦が”ベンダ・ビリリ”にこめられているんだと感じた。

スタッフ・ベンダ・ビリリ | ツアー日程
http://bendabilili.jp/concert.html#tourdate

9月25日(土)宮城~10月17日(日)東京・三鷹まで各地を回られるようだ。ぜひ直にあって、音に触れて自分の中から湧きいでるものを感じてみたいと思う。
思いがけずココスでいい出会いをさせてもらって、松本駅に向かう。

この日は夜、諏訪湖で花火大会があるとのことですでに往復のきっぷが発売されていた。
さらにお盆のUターンラッシュで、みどりの窓口は長蛇の列。・・・・先に18きっぷ買っときゃよかった・・・
やや並んだが、18きっぷを買い、松本→塩尻→(特急でワープ)→中津川→名古屋まで一気に帰ってきた。

名古屋では、パキスタンOVのK藤さんに会う。
駅から少し歩いたところにあるJICA中部へ案内していただく。
ここで地球ひろばの案内人さんとお会いしたり、フェアトレードショップの方とお話したり。
軽食をとりながら、K藤さんが関わっているJOCV愛知県OBOG会の活動についてお話をお聞きする。

こちらのOBOG会では、今回の私のような緊急時の救援活動などについて支援する制度を設けていて、私がこれからどのような動きをするのかをお知りになりたいとのことだった。
まだメールでのやりとりですが・・・と前置きして、自分が分かっている範囲の情報はすべてK藤さんとシェアをする。
OBOG会といってもすべてのOBやOGが加入していないから予算的にも大変なことは多いと思うが、こうした支援活動はとてもユニークなものだと感じた。
うまくそのお志が必要とする人たちに届けばいいのだが。

名古屋から大垣→米原→大阪→西宮と乗り継ぎ、終電前に帰ってきた。

2010/08/16月-18水曜日:情報収集

特に大きな動きはなく、家にいるか、用足しに大阪・三ノ宮に出かけたりした。
ネットでは非常に深刻な状況が伝わってくる。
ギルギット・スカルドゥ地方は食糧・燃料不足が相当深刻だ。

仮に飯島町の方とイスラマバードに到着できても、おそらく北方へは飛べなかったにちがいない。
もし運良くギルギットまで飛べたとしても、車の燃料に事欠いている現状ではムルフンどころか、イスラマバードに予定通り帰着できるか非常に難しいところだったろう。
飯島の方たちの思いはひしひしと感じた、この数カ月だったが、決断は間違っていない。

パキスタンでいまも専門家として活動するI田OVから教えていただき、AAR(難民を助ける会)さんhttp://www.aarjapan.gr.jp/ の緊急報告会が20日金曜日に東京であることを知る。
http://www.aarjapan.gr.jp/about/news/2010/0811_371.html
現地の情報収集はとても大切だから、早速申し込む。あわせて上京するための夜行バスの予約もする。

この春以来、JRの夜行バスに何回乗ったっけ?
ネット割&回数乗るとポイントがついて安くなるので、かなりオトクな値段で予約完了。

2010/08/19木曜日:飯島町のS木さん来阪

朝からメールのやりとり、バッテリーが厳しくなったiPhoneの交換→再設定で大方の時間を費やした。

春先からフンザではフンザ川が崖くずれによる湛水で大きな問題を抱えていた。
その情報を、現地フンザの方と結婚した隊員OVや現地にいらっしゃる日本人の方などと連絡をしながら教えていただいていた。

パキスタン旅行会社のオカミになってみれば・・・
http://silkroadc.exblog.jp/
旅行会社を営むフンザの方とご結婚された日本の方のブログだが、フンザ情報が写真入りで分かりやすく、メールでもいろいろと教えていただいていた。

ご本業でもマルガラへの飛行機墜落、今回の水害による現地事情の悪化など大変なご状況のなか、無事担当されたお客さんを日本へお送りできたとのことで、かなり詳しく情報交換をさせていただくことができた。
奥さま、ご主人とまだお会いしたことはないけれど、とても確かなお人柄をメールで感じさせていただいている。
明日上京する折、お会い出来そうだ。

夕方、梅田阪神で飯島町のS木さんの息子さんと待ち合わせ。
選果でお忙しくなる前に、甲子園の高校野球や写真展を楽しまれにおいでになった。

梅田周辺をぐるっと回っていただき、遅めの夕食はこれまた阪神梅田駅改札そばの京都王将で。このお店、わざとクーラー効かないようにして客の回転率あげてんちゃうかというむし暑さ。ダラダラ汗をかきつつ腕の確かな美味しい中華をいただく。

さぁ、私はこれから夜行バスで東京だ。

2010/08/20金曜日:AAR報告会

夜行バスに乗り、新宿に着く。

朝10時前葛飾の京成線の駅へ。
パキスタン協力隊OGのN沢さんと待ち合わせ。
彼女はフンザ・カリマバードのお土産屋さんとご結婚された。旦那さんは日本に来られているが、気になるのは故郷のフンザの様子。

ムルフン案件で渡航予定だった折、故郷へ届けて欲しいと託されていたものがあったが、直前渡航中止で宙ぶらりんに。でも、今回被災地救援で行けそうだから、イスラマバード空港で彼女の親戚に手渡せそうなものを預かる。

彼女がカリマバードの親戚から聞いた話では、燃料不足はいよいよ深刻になり、アーリアバード~カリマバード間をはしる小型バスの運賃が20ルピー→300ルピーに跳ね上がっているという。たぶん、走っているだけでもマシなんだろう。

お昼。都内の今回お世話になる グッドネーバーズ・ジャパン http://www.gnjp.org/ の本部にK事務局長さんを訪ねる。
近くのお店でお昼をご一緒しながら、自己紹介やパキスタンの様子などを意見交換する。

Kさんが事務局長をされているグッドネーバーズ・ジャパンさん http://www.gnjp.org/ もチリ・ハイチなどで救援・復興支援活動をされていて、先週までチリで津波被害にあった街の市場復興プロジェクトに携わっていらっしゃったとのこと。

代わりの人がおいでになったとのことで、日本に帰国することができ、今回のパキスタン水害支援に携わることができたというお話だった。
そこに私がアプライをしてきて・・・というような偶然と偶然の重なりあい。
Kさんがいま資金確保に動かれていて、その資金が確保でき次第、現地へ向かうという流れになっている。
それは来週末(28日)か翌々週明け(8月末)か。

その後は、高円寺の日本パキスタン協会さん http://www.nippa-kyokai.org/ に立ち寄り近況をご報告させていただいたあと、高円寺→目黒に移動。
ここで、きむかつさん http://kimkatsu.com/ 、旅行会社・コーディネーターのベイグさん http://www.pakistan.jp/ と待ち合わせ。

きむかつさんとは2004年2005年にパキスタンでお会いして以来、大地震で同じ救援キャンプでご一緒したり、旅先でお会いしたりのお付き合いをしていただいている。

ベイグさんとは、奥さまのブログ http://silkroadc.exblog.jp/ がご縁で私が今回関わらせていただこうとしている水害救援活動についてご協力を申し出てくださったばかりか、今日の難民を助ける会さんの緊急報告会も聞いてみたいとのことでかけつけてくださった。

しばらくカフェでお茶をした後に、難民を助ける会さん http://www.aarjapan.gr.jp/ の本部に向かう。

定刻18:30-20:00まで報告会。

・Khyber Pukhtoonkhwa ハイバル・パフトゥンハー州(略称KPK、旧北西辺境州)では本年7月末の1週間に年間降雨量の10倍(つまり10年分!)の雨が降った
・被害はKPKからパンジャーブ州、シンド州に大きく拡がっている。
・今後8月末まで降雨が続くと見られ、甚大な被害がすでに報告されている。
・特に収穫前だった今年度の農作物(小麦・綿)と来年の作付分の2年間の収穫に大ダメージを与えると予想されている。
・難民を助ける会さんでは、8月6日に最初の職員の方がイスラマバードに到着し、11日にさらに3人の方が、そして12日にはKPKでも大きな被害を受けたNowshera ノシェラ郡に現地NGOと入り支援物資の配布を開始された。

【現地で必要とされているもの】

・小麦粉、豆、食用油、コメ、塩、砂糖、茶、調理具、ビニールシート
・医療サービスへのアクセス
・避難所、救護所
・上下水道、衛生設備

現地での物資配布や被災状況などを映像で観ると2005年の大地震のときのことが思い出されるが、被災地域がケタ違いの拡がりであること、感染症・伝染病が発生しやすい夏季であること、特にパキスタンの基幹産業である農業に深刻なダメージが予想されることなどが2005年の大地震以上の衝撃と気持ちを暗くさせる。

ともあれ、最新の現地での活動の様子をシェアしていただけてありがたかった。

また、この報告会には、5月に同じく東京で行われたアフガニスタン研究会でお会いした方、更にパキスタン協力隊OGや専門家の方とも再会でき、さながら同窓会のような場所でもあった。

会のあと、きむかつさん、ベイグさん、専門家をされていたY田さんと近くのお店で夕食。
ベイグさんとY田さんは15年来の旧知の仲だということで更にビックリ。
昔の懐かしい、楽しい話を伺ったりで、あっという間に時間が過ぎる。

いろいろな人たちが、それぞれ見えない糸でたぐり寄せられるように集い、そしてまたそれぞれの場に散っていく。

こうした出来事がなければ、Y田さん、Kさん、ベイグさんともお会いすることがなかったのかも知れないけれど、とにかく自分が縁した国パキスタンの困っている人に救いの手が届くため、こうした人々のつながりを大切にして準備を続けたいと思う。

東京・八重洲口初の夜行バスで大阪に帰る。

2010/08/21土曜日:帰阪

朝、大阪駅着。満席&熱帯夜の中走るバスは暑くほとんど眠れず。
めだった外出もせず、レポートを読んだりメール書きなどで過ごす。

2010/08/22日曜日:スカルドゥより

終日自宅で資料整理。
夕刻、Gilgit-Baltistan州のスカルドゥ Skardu にいらっしゃる日本人の方よりメールをいただく。

こちらの天候は少しづつ回復傾向にありますが、依然、KKH(注:カラコルムハイウェイ)はストップしたままです。
ただ、ギルギット~スカルドの道路が開通したということで、少しだけディーゼルがきました。しかし大変な騒ぎにもなりました(発砲する人もいたとか)。
野菜等は、地元産ばかりで何とかまかなっています。
鶏肉・卵・その他食料品や日用品など、南から来るものは今のところ入ってきていません。
セメント、鉄なども値上がりしています。

晴れ間が見えているときは、フライトもありますし、また軍用機でディーゼルなどが届いているようですが、そちらはすべて軍や警察(とたぶんUN)用みたいです。

インダスを挟んだ対岸のコムラ村で土砂崩れがありましたが、すぐに政府が対応したようです。
が、南に比べると規模が小さいので、その一度でおしまいかもしれません。
EID(注:イード、断食明けのお祭り、今年は9月10日ごろ)前くらいに、自分のできる範囲で何かしたいと思っています。

また、ギルギット・フンザ地域から情報を送っていると見られるブログ”Hunzatimes News Network” http://www.hunzatimes.com/

昨日21日土曜日の記事によると

拙訳:基本必需品の欠乏
先週の豪雨による破壊の後、KKH(カラコルムハイウェイ)は閉鎖され、2日前に小型自動車(ジープか)での往来が再開された。しかし日常の生活必需品はまだギルギットに届いていない。ガソリン・ディーゼルのオイル類、ガス、小麦粉などの欠乏は、生き延びる上での危機的状況を引き起こしている。

Lack Of Basic Necessities
By Piyar Ali Sagi 21th,August,2010
After the destruction of heavy rain fall last week, KKH was blocked and re opened for small vehicles two days ago, but the daily consumption material haven’t been reached to

Gilgit, the alarming situation to survive the life, lack of oil, gas and flour are major causes.
http://www.hunzatimes.com/archives/6608

2010/08/23月曜日:パ友人より

ここ数日の朝方、パキスタンの知人からSkypeが入る。
向こうはまだ朝の4時とか5時やのに・・・と思ったら、いまは断食月(ラマダーン)。
朝食は4時とか5時にとってることを思い出す。

Alam Khursheed アラム・クルシードさんというパシュトゥン人障害者リーダーがいる。
彼はKhyber Pukhtoonkhwa ハイバル・パフトゥンハー州(略称KPK、旧北西辺境州)の北部 Dir ディール管区の町 Timergara タイマールガラで障害者運動の団体・学校などを主宰している。
この1年2年、KPKには Peshawar ペシャーワルでさえ入ることが難しくなってしまったが、彼の町は日本で報道されるターリバーンと政府軍と勢力争いのエリアに入っている。

彼とは協力隊員だったころ2004年から2005年にかけてイスラマバードでの会合の折にお会いしていた。
たびたび、「俺の町、Timergara タイマールガラへ遊びに来いよ」と言ってくれてたけれど、行けずじまいだった。

水害前にも、「いま日本でインクルーシブ教育を視察研修できないかなぁ」と相談のメールが来ていたが、一介助者に過ぎない私では何ともしてあげることができず、お茶を濁した返事をするしかなかった。

そして、この水害。Facebookの彼のアカウントに近況を尋ねるメッセージを送っていたのだが、その返事が届いた。

(途中から抜粋)
God give me two times new life, one year ago a bomb blast in which 55 people killed and I injured in this blast and on 28july going to Islamabad invited by STEP a disability

leadership conference, on the way there is land sliding, my car is damaged and I was seriously injured after that the flood swept all the bridges, damage communication and

electricity towers therefore I cutoff 8days every one after that accident.
Our organization office & vocational training center with machinery and documents in Al akhwan center are totally swept away by flood.
Sada have no funds in this time, we are starting a funds raising program to help PWDs providing food items, medicine, wheelchairs and financial help to rebuild their damage

homes, shops and the PWDs business recovery.
About eight thousand PWDs are registered with social welfare department district lower Dir and the same number PWDs are registered in Swat and upper dir districts the most flood

effected areas, there is also a high ratio of unregistered PWDs living in very low condition of life.
We need help to support these PWDs and wish that some one help us in this regard.

(拙訳)
神は私に新しい人生を2度授けてくださいました。1度目は、1年前に55人の人が亡くなった自爆テロで私も負傷したとき、そして2度目は先月7月28日にSTEP(イスラマバードの団体)が招待してくれた障害者リーダー会議への参加途中、車ががけ崩れに巻き込まれて大怪我を負い、さらに続く洪水で橋が流され、通信・電気も途絶したために8日間閉じ込められていたことです。
私どもの事務所・職業訓練センターは機器・書類などもすべて洪水で流されてしまいました。

SADA(彼の団体)はまったく資金がありません。
ですが、被災者に食糧・医薬品・車椅子・家や店舗の再建の財政援助を供給すべく資金集めを始めました。
水害で大きな被害を受けている、私の住む Lower Dir 下ディール郡にはおよそ8000人の認定障害者が、 Swat スワート郡、 Upper Dir 上ディール郡にもおよそ同数の認定障害者がいます。
さらに、政府から認定をされていないかなりの数にのぼる障害者が非常に厳しい環境下で暮らしています。
私どもはこうした障害者への支援を行ないたいと思っておりますし、私どもへもご支援を賜りたく思います。

Alam Khursheed さんのFacebookページ
http://www.facebook.com/profile.php?id=100000353572378

大変残念だけれど、外務省の渡航情報に基づけば日本人が彼らの地域に入って活動をすることはできない。
しかし、これも大変残念だが、いまのパキスタン政府には信頼感が大変乏しく、みな寄付や支援は該当する団体へ直接手渡すことが専らとなっている。
「ペシャーワルまで来てもらえるかな?」という彼のメッセが入っていたけれど、これも日本人は無理だ。
でも、そうした外国人が入りにくい地域の人たちこそ、より大きな支援を必要としていることは分かっているのに。
なんかいい方法はないものか。

午後、今回お世話になる グッドネーバーズ・ジャパン http://www.gnjp.org/ のK事務局長さんより連絡。
明日火曜日に予算承認の見通し。その後事務手続き、航空券購入の運び。
イスラマバード入りは今週末か来週頭になる見通し。

2010/08/24火曜日:動きなし

今日は動きなし。連絡・資料整理。

2010/08/25水曜日:留保

グッドネーバーズさん http://www.gnjp.org/の活動を支援する上部組織のJPF(ジャパン・プラットフォーム)が、一昨日 Peshawar ペシャーワル、南ワジリスターンなどで起こった自爆テロを考慮して活動計画の承認を留保している。

Yahooニュース : パキスタン各地で爆発や爆撃、計40人以上が死亡 2010年8月24日配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100824-00000002-cnn-int

現在、Nowshera ノウシェラ郡(Khyber Pukhtoonkhwa ハイバル・パフトゥンハー州(略称KPK、旧北西辺境州) での最大被災地)での活動を計画しているが、既に派遣された自衛隊同様、Punjab パンジャーブ州もしくは Sindh シンド州での活動になるかも知れない。

先週来、とてもお世話になっている、 Mr.Amin Ullah Baig ベーグさん http://www.pakistan.jp/ は、すでに日本のTV局クルーとIslamabad イスラマバードから、 Multan ムルターンに入られた。自衛隊の取材をされている模様。

ベーグさんの奥さま http://silkroadc.exblog.jp/ には、まだ上部団体未承認のどうなるかわからない支援活動ではあるけれど、メールでたくさんのアドバイス、それに「できることがあればいつでもご相談ください」と力強いお申し出をくださっていて、きめ細やかに気を使ってくださっていることと合わせ頭が下がる思い。

夜11時前にSkypeで、バンコクにいるパキスタンの女性障害者リーダーのAさんから電話。CBR Community Based Rehabilitation 地域に

根ざすリハビリテーションの研修でAPCD アジア太平洋障害者センターに居るという。
今月8月はじめに、南アジア-南アジアでの障害者支援についての会議がイスラマバードであったが、(それに参加しようとした Khursheed さんが土砂崩れに巻き込まれた : 8月23日の記述参照)、

このバンコクの研修が終わればその南南協力のプロジェクトで大きな responsibility 責任のある役割があるから大変なのと話していた。

2010/08/26木曜日:承認

夕刻、 グッドネーバーズ http://www.gnjp.org/ のK事務局長さんから至急連絡。
「無事、活動計画がJPF(ジャパン・プラットフォーム)から承認されました!」
9月1日(水)Pakistan IN - 9月10日(金)Pakistan OUT 予定。

ごく短期間での緊急支援になるけれど、 Main dil se kaam karun ga. 私は心を込めて仕事をさせていただくつもりだ。

今朝方、Sindh シンド州の友人で障害者リーダーの Ghulam Nabi Nizamani ニザマニさん http://www.facebook.com/gnizamani が、私たちに写真を送ってきてくれた。

Dear Colleagues,
Thank you for all kinds of support and creation awareness on disaster in Pakistan. One of our friend shared a photo of a relief camp from Sindh province. How people with

disabilities can obtain their share in such a managed situation other wise we have seen pictures people are fighting over food. Looking at such situations, we need to develop a support system for people with disabilities through people with disabilities.

(拙訳)
親愛なるみなさん
パキスタンの水害災害へのあらゆる形での支援ならびに、認識を深めていただいていることに感謝します。さて、この写真は私の友人がシェアをしてくれたもので、シンド州のある救援キャンプを撮影したものです。
その写真のような(食糧をもとめて長蛇の列が続く)状況下、もしくは私たちがこれまで写真で見てきた食糧を奪い合うような状況下で、障害者はどうやって食糧を分け与えてもらえてるのでしょうか。
私たちは、障害者への支援システムについて改善する必要があります。

23日のKhursheed クルシードさんの件で触れたのと同様、 Sindh シンド州も日本人が入りにくい地域だが、上記の写真のように支援が必要とされている。

とにかく今のパキスタン政府は評判が悪いから、みんなそれぞれ該当する支援団体にダイレクトに資金援助するか、自らが直接救援活動を行っている状態。イスラマバードでは連日国際機関による連邦レベルでの支援計画策定の会議が行われているが。。。

2010/08/27金曜日:手配

昨日、というか今朝方まで、 グッドネーバーズhttp://www.gnjp.org/ のK事務局長さん、ベーグさんの奥さま http://silkroadc.exblog.jp/ とメールをやりとりしつつ。
ベーグさんの奥さまが、すぐに航空券の手配をしてくださった。
本業のお仕事をたくさん抱えていらっしゃるのに、そのお時間を割いて私どものために動いて下さり、深謝。
わたしが 関空 – バンコク経由 – イスラマバード で前乗りし、Kさんを迎えるような手筈。

2010/08/28土曜日:JEN

日本からの救援活動要員の派遣がないかお問い合わせしていたNGOさんの中に、JEN(特定非営利活動法人 ジェン)さま http://www.jen-npo.org/ がある。JENさまがパキスタン水害支援の様子をブログで発信している。
http://jenhp.cocolog-nifty.com/jen_pakistan/

8月27日金の記事は、ペシャーワル北方の街 Charsadda チャールサダの被害状況について写真を紹介されている。
この街には障害児学校がある。
そこで働くある先生と、イベントの折に会っていて仲良くなり遊びに行ったことがあった。
いまの混乱と治安悪化が全く想像できない安定した時期の頃。(今はペシャーワル・チャールサダも退避区域になってしまった。
ペシャーワルからバリバス(大型のキンキラバス)とワゴンバスを乗り継いでチャールサダに着く。

チャールサダの市街地。パキスタンでは典型的な市場の風景だ。(2005年)

 

チャールサダの公立障害児学校の正門。土地柄もあって門扉や塀は高い。(2005年)

 

その障害児学校の先生と子どもたち。後列左端に立っているのが呼んでくれた先生。(2005年)

お子さんが障害者で同じ学校で学ばせていた。
間違いなく被災されていると思うが、連絡先が紛れてしまっていて、どう暮らされているのか知るすべがない。
とにかくお元気でいらっしゃることを祈るしかない。

2005年の大地震救援と2010年の水害救援。
大きな違いのひとつが、今回は被災地の多くの場所が外国人が入れない・入りづらい状況になっていることだ。
援助は国を通さず、意中の団体へ直接行う形が専らな状態からすると、外国からの援助が有効に使われているかという検証は直接モニターしなければ分からない部分が多いが、それが難しいのだ。

TTP(パーキスターン・タリバン運動)が外国の援助を排斥するとアピールしている、という報道がある、と外務省は喚起している。

他方で、パキスタン・パキスタン国外のウルドゥ・英語ネットラジオを聞いていると
「私たちは外国からの、今だけなく1年後2年後・・・の継続的な支援が必要だ」という聴取者の声がひっきりなしにスタジオに飛び込んできている印象だ。
水害の後遺症がパキスタン全州で今後何年も続くことを考えれば、救援・復興には外国の支援が不可欠なことは明らかだ。

2010/08/29日曜日:動きなし

大きな動きなし。

2010/08/30月曜日:カラーシャ

いつもお世話になっている、(財)日本パキスタン協会さん http://homepage2.nifty.com/nippa-kyokai/ から、パキスタン北部カラーシャで暮らしながら地域の文化保護と生活基盤整備に携わっていらっしゃる、わだ晶子さんの最新ブログ記事をご紹介していただく。

カラーシャの谷 緊急支援のお願い 2010年08月27日金曜日ご投稿
http://kalashapakistan.jimdo.com/2010/08/27/%E7%B7%8A%….

今回の大雨で、カラーシャの谷も大きな被害を受けている。
中でも日本政府の草の根無償で設置された発電機、水路などに甚大な被害が出ており、この地域での生活を脅かしている状況。
次の鉄砲水への備えとして、堤防の建設が急務だが、日本政府からの支援があるかは不透明なため、現在カンパを募っていらっしゃいます。
ぜひ上記の記事をお読みいただき、関心をお寄せいただければと思います。

私の方は、今回お世話になる グッドネーバーズ・ジャパンさんhttp://www.gnjp.org/ と労働契約書のやりとりなどをする。
あとはマスク。洪水のあと熱波が襲っているパキスタン。感染症への備えはマスクぐらいしかない。
(コレラは生ワクチンの効果が半分以下、DUKORALと呼ばれる経口摂取のワクチンは場所が限られる、マラリア、デング熱には予防接種はない。現地で経口摂取するものについて気をつけるしかない)
近くの大学病院の医資材売店でN95規格のマスクをまとめて買っておく。

夕方、日本でもお会いしたイスラマバードの友人Abia アビアさんからGmail チャット。
お兄さんでSTEPの代表の Muhammad Atif Sheikh アティフさんに待望の男の子が誕生したとのこと。
でも、赤ちゃんの調子は良くないとのこと。「ぜひ祈ってください」との呼びかけに「もちろん」と返信。

2010/08/31火曜日:出発

在イスラマバードの日本大使館 http://www.pk.emb-japan.go.jp/ へのご挨拶のアポイントについてお伺いしたり、現地でチャーターする車や宿舎についての確認作業をこなす。

ベーグさまの奥さま http://silkroadc.exblog.jp/ からメールでこんな話をお聞きする。

奥さまのご友人=インド・ジャイプール在住の宝石デザイナー(日本女性)=が遊びにおいでになっているとのこと。
その女性のボーイフレンドが、インドのジャイプールからラダックを旅している間に、洪水というか、すごい鉄砲水を経験されたとのこと。
その鉄砲水で旅行者を含め60人が亡くなったが、目の当たりにした人たちの話を聞くと、世にも恐ろしい鉄砲水でひとたまりもない感じだったという。
パキスタン各地で聞く鉄砲水の話と同様に、「どこに川があるの???」という場所で起こったそうだ。

夕方早めに自宅を出て、JR西宮駅前で、岡山のAMDA本部からおいでになったN調整員さんとお会いする。
Nさんはこれからインドで2週間仕事をしたあとに、パキスタンへ向かわれるとのこと。
AMDAさんのパンフレットやTシャツ、腕章などを預かる。短時間だったけれどいろいろお話がきけて良かった。
Nさんをお見送りしたあと、西宮駅前から出ているエアポートバスで関西空港へ。

2010/09/01水曜日:バンコクで接続待ち

日付またいだ0:30バンコク行きフライトで関空出発
定刻バンコク着。接続を待つ。

1.渡航に向けて | 2.GNJPさまと | 3.AMDAさまと


2009年12月 : イスラマバード訪問記(4)

イスラマ訪問記 序 | その1 | その2 | その3 | その4 | その5 | その6 | その7 | その8

初版 2010年02月17日


2009年12月02日(水)

ゲストハウスに帰ってきたら、ちょっとまどろんで、それから夜中から朝まで今日の記録を綴ってはTwitterにアップする。1ツイート140字(全角70字)の制限があるから、ひとつひとつのトピックを簡潔に、でも要点立てて書くように意識できるから、ちょっとした作文トレーニングやね。
結局AM05:30のアザーンも聞いてしまった。
そのままの勢いで、朝シャワー。

前回2006年冬に泊まった、G7シターラー・マルケットの安宿はお湯が出なくて、ブルブル震えながら水を被ったものなぁ。
今回お世話になってる、New Cape Grace Guest House ゲストハウスは、ラッシュ時(パキスタン人は朝シャワー派多い)にはややぬるいお湯が続くけど、それ以外は24時間ちゃんとお湯が出るいいゲストハウスだ。
朝食は摂らず、AM08:30前に宿を出て、Nazm-uddin-Road ナズムディンロードを歩く。この4年であちらこちらの道路が再整備されている。China Chowk チャイナチョークも、Mobilink モビリンクも、PIMS ピムス(パキスタン医学研究所)の交差点も、昔は渋滞ラッシュがすごかったけど、立体交差化されていて、通行がすっかりスムーズになった。ゲストハウス前の道路だって、昔は Green Belt 緑地帯だったのに立派な Double Road 複線道路&立体交差になっていて驚いたもの。

Nazm-uddin-Road : ナズムディンロード
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隊員時代は片側1車線のシンプルな道だったけど、いまでは中央分離帯つき&複車線化。

一番渋滞するのは、爆弾を警戒して設置されたチェックポイントのところ。主要な道路には何ヶ所も設置されているから、滞在中何度も通ったけれど、こんなとこで待っていてドカンとされたらいややな、と薄々思いながら通っていた。

さて、話を戻して、Nazm-uddin-Roadを歩く歩く。
今日は快晴のイスラマ。
大阪とおなじくらいの寒さで、日なたを歩くと、とても気持ちイイ。ゲストハウスから歩いて15分ほどで、協力隊時代の Counterpart カウンターパートだった Ms.Nuzhat Seemi シーミーさんの家へ。シーミーさん、旦那さんの Mr.Abbas Hashimi ハシミさんもまったく変わらず。

Counterpart カウンターパート:
ニュース英語では、異なる組織や国で、同等または対応関係にある人や立場、役割のことを指してcounterpartと表現することが多い。(英辞郎Web)
とあるように、協力隊の派遣先で、隊員の技術知識の移転対象となる方々を指す。職場の同僚さんということですね。
活動先では一番顔を合わせる時間が長い方たちなので、自然と仕事上のお付き合いだけでなく、家族ぐるみのお付き合いになることがよくあります。
帰国してからも、電話・メールなどで連絡を取り合ったりすることもあります。

実はシーミーさんとこにイスラマに行くと連絡したのはつい数日前。4年ぶりにお邪魔するのだけれど、ちっとも変わらない温かさ。
熱いハグもそこそこに中に案内される。たびたびお邪魔した家だから勝手は知っているけど、懐かしさがこみ上げてくる。お二人には3人の娘さんがいる。私が活動していた時に長女のSana サナさんが、帰国したあと次女の Hina ヒナさんが結婚。二人ともアメリカ、カナダで旦那さんと暮らしているという。
旦那さんはそれぞれ在外で住むパキスタン人。そういう人と結婚できるんやから、中流から上流のご一家ではありますね、ハシミさん一家。
でも、お家は普通の集合住宅やし、ご家族みんなそうした気取りは全然ない。ある程度裕福やから、気持ちも大らかなんかなぁといつも思ってた。

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壁に真新しい写真ボードが掛けられていた。照明をおしゃれにあてて。
こうやって娘さんたちを3人ともしっかりと育ててキチンと嫁がせる、写真を1枚1枚じっくり拝見させていただきながら、その時間の流れとご夫妻の御苦労にただただ頭が下がる思いだ。

さて、隊員時代のようにふらっとお家にお邪魔したけど、普通に家に通されて、変わらないいつもの食卓で朝食にあずかる。
今朝はラスク&バターとミルクティー。ラスクは甘くない乾燥したパンという感じだけどバターと紅茶との相性が良くて美味しかった。

今回持ってきた、荷物の半分はお土産。
何がいいやろ?お土産なぁ。そうあれこれ考えながら詰め合わせて持ってきた。
シーミーさん宅に持ってきたのは、「白い恋人」と砂糖(スーパーで売っている1㎏袋のやつ)など。
白い恋人はどこでも喜んでくれるお土産。こちらでも喜んでくれたけど、
”パキスタンでは砂糖が高騰してるってニュースで聞いたから持ってきたよ”
というと、苦笑された。
”持ってきてくれてうれしいけれど、私んとこは間に合ってるから、他の人にあげてね”
と返された。心配しすぎたみたい。そうやなー、生活には困ってへんもんなー、シーミーさん宅。
でもシーミーさんから、粒の粗いあんまり溶けない砂糖でもいまは80-90PKR/1kgすると聞いて驚いた。前は25-30PKR/1kgだったのに。

朝食をごちそうになったあと、シーミーさんとこの車で活動先だった学校 National Training Centre for Special Persons 国立障害者職業訓練センター(NTCSP)へ。
学校は、G9 Karachi-Company カラチカンパニーそばにある。Bari Eid バリー・イード明けだったから、いつもより来ている生徒や先生は少ないようだ。4年ぶりにお邪魔する学校だけど、当時いた人は私を忘れていなかった。

シーミーさんに連れられて全部のクラスにSalam サラーム(挨拶)して回る。新しく音楽クラスができていて、演奏と歌を聴かせてくれた。
先生は Mr.Imran Nazir イムラーン先生といい、転勤でこちらにおいでになったそうだ。明日大きなイベントがあるので、その練習をクラスでされていたようだ。

Youtube: Pakistani Music Playing students 1

先生がきっちり教えているようだし、生徒も素質のある子たちだからだろう、上手な演奏だと思った。
ただ、協力隊時代から変わらないのだけれど、政府から十分な予算は来ていないのだろう。学校の看板にある職業訓練の部分では、教師の研修不足、材料不足、設備が旧式・故障したままで、生産的な活動はどのクラスもほとんどできていない様子に見えた。

AM10時過ぎ。
シーミーさんが「これから明日のイベント準備に行くわよ。一緒にいらっしゃい」と他の先生生徒とスクールバスに乗り込み、G8-4のAl-Farabi アルファラビー(肢体不自由校)に連れていってもらう。
バスはギュウギュウ。生徒と体をくっつけ合って座る。みんな陽気な子どもたち。すぐにうちとけて会話する。
学校でみんなと再会してまだ1時間しか経っていないけれど、もう協力隊時代の自分に感覚が戻っていた。

さて、明日12月3日は International Day of Persons with Disabilities 国際障害者デー。関連して政府が障害児教育学校の生徒を集めて歌や踊りを披露させるイベントがある。そのリハーサル。動画はパキスタン国歌を歌っているところ。男の子は聴覚障害、女の子は視覚障害。

Youtube:Pakistani Song

10:30-13:15くらいまでリハーサルは続いた。
先生たちは分担して会場のデコレーションや、生徒への指導などに当たっている。
私は生徒や先生とおしゃべりをしたり、写真や動画を撮ったりして過ごす。さぁて、お腹すいたなぁと思い始めた頃、リハーサルは終了。スクールバスに乗って学校に戻る。
以前は14:00までだった学業時間は13:30までに短縮されていた。金曜日は礼拝がある日だが、その日も前より30分早い11:30で終わりになる。

放課後は一切残業はないから先生も生徒もスクールバスに乗って帰っていく。Bari Bus バリーバス(大型バス)も健在だったが、風雨にさらされて真新しい塗装だった車体が色あせていたのは寂しかった。私はシーミーさんの車に乗せてもらう。運転は夫のハシミさん。

で、そのままシーミーさん宅まで帰ってくる。お昼ごはんをいただくことに。
パキスタンでは14時頃終業または昼休みになり、それからお祈りをしたりして食事となる。だから食べ始めるのは15時くらいからだ。

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そしてお待ちかねの料理。
右下:Daal Masur ダールマスールという豆を使った薄味カレー。
上:の白いのは Raita ライタというヨーグルトソース。
左上:の茶色は Bakri ka Saalan 羊カレー。
下:の黒は Kalayjee カレージーという肝臓カレー。
その左:は Piaaz Salad タマネギサラダ、Ninbu ニンブー(レモン)を絞っていただく。

Youtube: How to Make Cucumber Raita (Indian Cuisine Video)

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でデザートが Sawaiyaan スァワイヤーンというコレ。ヒゲのように細いパスタをさっとゆで、それにミルククリームやカルダモンやブドウなどを和えたもの。シーミーさんとこでご馳走になるといつも出される一品。マジでうまい、泣けてくる。

ウルドゥ名:Sawaiyaan, Savaiyaan
イタリア名:Vermicelli (1.2mm未満の物:ヴェルミチェッリ、ヴァーミセリーなどと呼称)
Wikipedia: Vermicelli http://en.wikipedia.org/wiki/Vermicelli

日本のそうめんのように作ってるんですね、Sawaiyaan。
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掲載ページ: http://pakistaniat.com/2009/09/16/sewayyian-sawaiyan-verm…
2010/02/17 閲覧

シーミーさんとこにはこの15年来何人もの協力隊員がカウンターパートとしてまたは同じ職場の同僚としてお世話になってきた。パキスタン人は概して時間や計算には疎いところがあるが、いったん仲良くなった友人の思い出はとても大切にしている。食卓はその話題で尽きなかった。

シーミーさん宅でゆっくりしたあと、携帯の Activate アクティベート(使用許可認証)をしてもらいにブルーエリアMobilinkに行く。動画はその道中にジンナー大通りから撮った、16:30ごろ。綺麗な車は増えている。

Youtube: Jinnah Avenue,Islamabad

さてさて。
無事携帯は使えるようになった。iPhoneと現地携帯の2本持ち。試しにゲストハウスの無線LANを使い、iPhoneからskypeで現地携帯を呼び出すとつながった

Mobilinkからの帰りにまたまたフレスコに立ち寄る。サモサ2つを砕き、そこに豆カレーソース、甘いチャットニーとヨーグルトや刻み野菜をかけたプレートってやつ。35PKR。いまの日本円なら40円。でウマい。

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このときもそうだった。
夕日を背に浴びながら、Jinnah Avenue ジンナー大通りを宿に向かって歩いていく。
観光地でもなんでもない場所なんだけど、ああ、やっとこの場所に帰ってこれたんだ!ってゆう満たされた思い。
カラッカラに乾いた砂に水がスーっと染み渡っていくような心の感触。
自分が5年前6年前の現役協力隊員にすーっと戻っていくような心地。

感情が高ぶっているのはよく分かっていて、冷静に冷静に、という気持ちもあるのだけれど(安全には留意しないといけないし)、でも、こうやって歩けているだけで大満足。よかったーという思いがあふれてきてしょうがなかったんだ。
で、そうしたメンタルな部分が作用するのだと思うのだけれど、日本ではからっきし使わなかったウルドゥの単語が次から次へ思い出されてくる。4年間使わなかったフレーズが湧き出してくる。
現役協力隊員にもどっていく心地と一緒に、ウルドゥ脳に切り替わっていってるってすごい感じられた。

で、ゲストハウスに戻ってプレートを一気に食らい、メールの返事を打っていたら、いつの間にか寝ていた。
夜も更けてきたから外出はやめてそのまま寝たり起きたりしていた。

(続きは執筆中)

イスラマ訪問記 序 | その1 | その2 | その3 | その4 | その5 | その6 | その7 | その8


2009年12月 : イスラマバード訪問記(3)

イスラマ訪問記 序 | その1 | その2 | その3 | その4 | その5 | その6 | その7 | その8

初版 2010年02月12日


2009年12月1日(火)つづき

向かったのは、在留日本人Oさんがお世話になっているというゲストハウス。イスラマバードの中心から離れた、閑静な住宅街の中にあった。
そこに韓国人ボランティアのYさんもご一緒される。
そこで、Oさんからご友人のJさんというスウェーデン人を紹介していただく。Jさんも長年アフガニスタン・パキスタンで活動をされるNGOの方だ。あらかじめOさんからお聞きしていたとおり、とても気さくな方だ。
そう、アラビアのロレンスのピーター・オトゥールのような雰囲気。(うん?欧米人はみんなこんな風に見えんことはないな)

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食卓をその4人で囲んでの昼食。
チャーハンっぽいプラオー(パキスタン風たきこみごはん)、鶏ももの丸焼き、それにサラダとミルクティー。
給仕をしてくださる方はパキスタンの方、でも長年こうした欧米人と仕事をされているから英語は完璧。
Oさん、Yさんもお二人の間では英語。
だから食卓の場は英語で話が進む。
ウルドゥーは何とか話せても、会話英語はからっきしな私だから、英語で会話する食卓の場はストレスがかかってくる。でも、日本ではなく本当の国際援助の現場で活動する方たちに混じらせてもらっているだけで刺激されて、何かさび付いていたものがポロポロ浮き出してとれていくようなそんな心地になる。

そうして食事をごちそうになったあとは、F6のテニスコートに行くというみなさんの車に乗っかって、F7のジナースーパーで落としてもらう。協力隊時代に一番ウロウロしていた懐かしい庭みたいなところだ。

変わっていない、店の並びも雰囲気もまったく変わっていない。
中心のゴールマルケット(円形店舗)そばに大型液晶ビジョンがついたくらいで私のいたころのジナースーパーと変わっていなかった。

Youtube: T20 Worldcup 2009 Final, PAK VS SL.. Jinnah Super, Islamabad, Pakistan/(PAKIS ROCK )

昨年(2009年)6月、World Cup Twenty20という大会でパキスタンが優勝した。
その決勝戦(スリランカ戦)をジナースーパーの大型ビジョンで観戦・応援する人々。
昨今の沈滞ムードの中で、日頃の鬱憤をはらしたような盛り上がり。以前はいつもこんな雰囲気やったけどね。

まずは、ジナースーパーの中で一番通い詰めた写真屋さんへ。
このお店ではしょっちゅう写真を友だち価格で現像してもらい、お茶もペプシもごちそうになり、イフターリー(毎日の断食明け食事)もごちそうになっていた。でもそれから4年以上経つ。
だから、みんな覚えているかなぁ?と思いながら、ちょっと呼吸を整えて店に入る。

4年ぶり&短髪&髪が薄くなり&オッサン顔になっているのに、店に入るなり「ハロー、トサ!」とハグしてくれる。まるで昨日会っていたかのような自然さ。
で、すぐに、「おー、トサ、おまえ紅茶がいいか?それともペプシがいいか?」と聞かれる。これも昔と変わんない。それで「そうだなぁ、じゃ、ペプシくれる?」と頼む私も昔と変わっていない。
それで、しばらくして届けられたのがコーラのボトルだったけど、そんな細かいところも気にしない気にしない(笑)。

客人歓待。
おまえは私たちの「Mehmaan メヘマーン(お客様)」だよといつも変わらず歓迎してくれる。
これはパキスタンだけでなく、協力隊の任国ではよくあること。
隊員として活動中だけでなく、帰国して何年も経つのに、再訪すると今回のように変わらず迎えてくれる情の温かさにやられて任国を再訪する協力隊OVは多いはずだ。
私も、やられちゃったひとりだな。

で、早速彼らが、「おい、トサ、おまえオカリナ持ってきたか?」と聞いてくる。お店に来る時はいっつも決まってオカリナを持ってきて吹いていたんだ、パキスタンの歌を。

Youtube:Jeevay Jeevay Pakistan(オカリナで演奏)

2005年3月に先輩隊員のKATOHさんが任期を終えて帰国される際、活動先のセンターの人たちが開いてくれた送別会で吹いています。同じセンターで活動していたSHIHOさんに撮っていただいてました。
この曲は、Milli Namma ミッリー・ナッマ(国民愛唱歌)としてみんなが知っている曲です。国歌の次くらいに大切にしている曲だと思います。

Youtube Jeevay Jeevay Pakistan – Shahnaz Begum

こんな感じでパキスタン・インド映画の曲をいくつか覚えてはあちらこちらで吹いていました。オカリナと折り紙は自分の活動にはかかせないマストアイテムでした。
当時はKTC(駒ヶ根訓練所)で通販で買ったTiamo ティアーモのアルトCを使っていました。

Youtube:今回持ってきたオカリナ(韓国製ZINオカリナ)

今回持ってきたのは、韓国製のZINというメーカが作っているプラスティック製。日本では通販で3500円くらいで買える。
本当は今持っているAketa アケタとかの陶器製がいいんだけど、旅の途中で割れるといやだなぁと思い、こっちを持ってきた。
プラスティック製なら、この韓国製ZINは断然良い。

オカリナハウスさん:ZINオカリナの紹介
http://ocarinahouse.web.fc2.com/ocarina/puraoka/zinn.html

この写真屋は一生懸命仕事をするお店だから、お客さんはひっきりなしに来る。そういうときは遠慮してコーラを飲みながらのんびりしつつ、お客さんが途切れると曲を何回も吹いてあげる。片時も仕事から離れられないお兄ちゃんたちだけど、耳をずっと傾けて聞いてくれていることがひしひし伝わってくるんだ。
そんなことをしつつ、今日デジカメで撮った写真のプリントも頼む。2005年当時、基本料無し1枚10PKRのところ、私はいつも8PKRでやってもらっていた。それから4年経つのに、今回もその8PKRで変わらなかった。私は何も言わなくても。
(今回の滞在では2、3日に1回の割でお邪魔することになる。)

さて、次はDVD屋のillusion、本屋のSaeed-Booksへ。並びのピザハットは変わらず営業していた。繁盛しているみたいだな。
ここでは、イスラマバード、ラーワルピンディの地図・カレンダーを買い込んだ。

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Jinnah Super ジナースーパーにて。
左 : Saeed-Books サイード・ブックス
右 : Pizza Hut ピザハット

ひととおり用事が済んで、いったんゲストハウスに帰ることにした。タクシー数台と値段交渉。
2005年当時、Jinnah Super ジナースーパーから F6-1 ゲストハウスまでなら、30PKRで余裕だったと思うのだが、今は頑張っても45PKRまでしか値切れない。でも、この時のレートなら50JPY。
今回はパキスタンにできるだけお金を落としていくつもりだから、相場が分かれば十分。ケチケチしない。

さて、タクシーでいったん宿にもどり小休止してから再度ブルーエリアに歩いていく。通話ができればいいから、適当に入ったお店でNOKIAの廉価な携帯を買った。2600PKR。写真の赤いケースの中にSIMカードが入っていた
これで実機も購入。

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あとは、デポジットした300PKRのスクラッチカードのPINコードを入れれば携帯は使えるはずなのだが、外国人はMobilink本支店に行かないとだめだということだ。セキュリティのためだと思うがちょっと不便。

Mobilinkの本店は17:30でクローズしていた。
仕方ない、携帯の手続きは翌日にまわして、昼間お世話になったOさんが迎えに来てくださる時間に間に合うよう大慌てでブルーエリアを走る。でも通りかかった菓子屋のFRESCO(名店)でどうしても食べたくなって、サモサを買う。

めっちゃうまーーーーーい!カラッカラに乾いた自分の何かに水がしみこむような。
4年のブランクがぎゅぅぅっと埋まって、自分が現役の隊員のころに戻っていくそんな不思議な感覚だ。
そんな、自分の中でちょっと身震いをするような経験がこの滞在中何度となくあった。

最後は走ったけれど、ギリギリで約束の時間に間に合った。
ゲストハウスから、Oさんの車でピックアップしてもらい、お昼と同じお宅で夕食をいただく。
スパゲティミートソース。
アルデンテにならないパキスタン製パスタの噛み心地がうれし懐かしい、マジで。
それとマリービール!!4年ぶりに飲む。日本では絶対味わえないこのビミョーな味わいがイイ!

Murree Brewery Company Ltd
Official Website: http://www.murreebrewery.com/
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2010/02/12 閲覧

Murree Beer マリービールの会社の公式サイト。
イスラーム教徒国家だから、こっそり操業してると思ったけど、こうやって公式に情報発信していることに驚き。政府も太っ腹やなぁと思ったりする。

Murree Brewery Company Ltd
How to Buy : http://www.murreebrewery.com/how-to-buy.html
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2010/02/12 閲覧
で、よく見ると外国人・非イスラーム教徒の酒の購入の仕方についても書いてある。

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上の写真2枚 : 2005年当時のMurree Beer マリービール。
イスラーム教徒の国だから、お酒御法度のはずだが、英植民地時代から続く老舗のブリュワリーがラーワルピンディ市内で今も操業を続けている。
お酒を買えるところはホテルなどに限られるから、一般のパキスタン市民が目にすることはない。

正直、味は日本のビールと比べれば落ちる。
でも、他のビールが飲めないとなれば、飲めば都、だんだん体に馴染んでくる。
酒購入許可証を半年ごとに更新し、所定のポイントをきっちり使い切ってビールやらお酒やらを買い、よく飲んだものだ。
それくらいパキスタンではマリービールに親しんだはずなのに、帰路変のバンコクでシンハーを飲んだだけで感動し、帰国研修初日には同期と街へ繰り出し、スーパードライやヱビスを飲んでサイコーーー!と叫んでいた。
すっかり忘却の彼方にいたはずのマリーさん、一口飲んだら思い出しましたよ。舌は忘れてへんかったわ。
・・・マリーさんの味がイマイチなのは、イスラーム教徒が造ってるから味見できないせいだな、とかって聞いたように思うが、本当なのか冗談なのかわからない。

さて、お呼ばれした食事の場、Oさんも、Yさんも、Jさんも英語で会話。話題も日本でいるときとは違うから、語学&話題でお昼と同じような刺激をまたタップリ受ける。
食事をいただき、すこしゆっくりした後は、OさんYさんとジナースーパーへ。
ここでDVD屋でじっくり品定めしたり、近くのゴール(円形)ママルケットのカフェでカフェラテとティラミスいただいたり。
4年ぶりのパキスタンのスイーツ。ただ甘ったるいだけでなく、甘さを控えていて日本人にも舌にも合うようなテイスト。
パキスタンのスイーツのレベルもあがってきているように感じた。

今日は丸一日パキスタンを楽しんだ。
安全に気をつける緊張感は絶対忘れていないが、少なくとも今日訪れた場所はどこも変わらない普通の時間が流れていた。

イスラマ訪問記 序 | その1 | その2 | その3 | その4 | その5 | その6 | その7 | その8



2009年12月 : イスラマバード訪問記(1)

イスラマ訪問記 序 | その1 | その2 | その3 | その4 | その5 | その6 | その7 | その8

初版2010年02月10日


2009年11月28日(土)
午後伊丹発ANA→成田乗り継ぎANA→夜バンコク着
パブリックタクシーでBTSチョンノンシー駅近くの宿に。
パキスタンからの帰路変に立ち寄って以来だから4年ぶりのバンコク滞在。普通の観光客になってあちらこちら巡る。
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