パキスタン一覧

حلیم Haleem (ハリーム:カラチ名物の煮込みカレー)

初稿:2011年3月7日 更新:2018年5月17日(追記、アリーズ・キッチン、大阪ハラールレストランほか関連リンク追加)

ハリームとは?

حلیم Haleem ハリームは、豆・小麦・肉・香辛料などなどをひたすら煮込んでできるカレーです。
パキスタン、インドのカレーでイメージするサラッとしたorオイリーな感じではなく、
スプーンとかですくったドロッとした感じは、日本のカレーのようです。
ですが、このカレーは、豆や肉を煮込んで煮込んで煮込んで作る手のかかる料理で、味わう価値ありです。

ハリームは、アドラク(しょうが)・ダニヤー(パクチー)・ハーリーミルチ(青とうがらし)・ニンブー(レモン)とまぜて、ナーンと食べられています。

Wikipedia(JP) ハリーム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A0
ハリームは1年を通してバザールのスナックフードとして売られている。ハリームはラマダーンやムハッラム (ヒジュラ暦の1月) にはイラン、パキスタン、インドを始めとする全世界で用意される特別料理でもある。

ウィキペディアで紹介されていますが、ラマザーン(ラマダーン:断食月)やムハッラム(イスラーム暦の1月)の頃よく食べられるということで、

こよみのページ
http://koyomi.vis.ne.jp/directjp.cgi?http://koyomi.vis.ne.jp/sub/islamic.htm

によれば、2018年は5月16日~6月14日頃がラマザーン、9月12日~10月11日頃がムハッラムになります。
この時期、パキスタン料理のレストラン、パキスタンの人のお家に行くとハリームをよく見かけるかもしれません。

パキスタンどこでも見かけるハリームですが、カラチ名物だと言われています。

地球の歩き方:カラチに来たら・・・・ハリーム!
http://tokuhain.arukikata.co.jp/karachi/2007/06/post_2.html

Youtube | Mazaidar Haleem Karachi, Directed By S.Kamran Salam

パキスタン民放局GeoTV制作。
カラチにあるハリーム店&オリジナルスパイス販売店の Mazaidar Haleem (マゼダール:おいしい)を取材したものです。全編ウルドゥ語。後半にお店でのハリームの作り方が紹介されています。

カラチで働いていた頃、パキスタン人同僚さんに地元で人気のハリーム店からテイクアウトしてもらって、お昼ご飯にしていたことがありました。美味しかったです。

ハリームをいただく(イスラマバード:2011年)

動画:イスラマバード・ブルーエリアのハリームガル(Haleem Ghar:ハリームを出す家)にて

2011年2月~3月にパキスタンを訪れた際、イスラマバード・ブルーエリアにあるお店「Haleem Ghar ハリーム・ガル」でいただきました。

Haleem Ghar | 公式サイト
http://www.haleemghar.com.pk/

Haleem Ghar公式サイトのトップページはハリームの写真。美味しそう!

2018年現在、イスラマバード2店舗、ラーワルピンディ1店舗、ペシャーワル5店舗、アボタバード1店舗を構えるチェーン店になっています。

右にあるのがハリーム。左上皿のしょうが・レモン・パクチーを混ぜて、ナーンと一緒にいただく(2011年3月)

美味しいハリームが食べられるお店(大阪)

ハリームは作るのに手間がかかる料理で、常時出しているとは限りません。
事前に、ハリームがあるかどうかお店に聞いていただくことをおすすめします。

大阪ハラール・レストラン

公式サイト
http://osaka-halal-restaurant.jp/
公式ツイッター(毎日のメニューが分かり、便利です)
https://twitter.com/osaka_halal
食べログ
https://tabelog.com/osaka/A2701/A270407/27072992/

こちらのお店は、大阪のマスジッド(モスク)の向かいにあります。
マスジッドのそばにあるお店は、ハラールのことはもちろん、美味しい料理を出すことに真剣なイメージがありますが、まさにそんなお店。
ハリームはまだいただいたことがありませんが、普通のカレーも、それに美味しいローティ(チャパティ)が食べられてお気に入りです。

このお店で美味しいハリームを食べたよ!とレポートしてらっしゃるブログをご紹介します。

カレー細胞 | 感激のリアルパキスタン、極上のハリーム。「大阪ハラールレストラン」(千船)(2013年8月15日)
http://currycell.blog.fc2.com/blog-entry-1823.html

あーこれは楽しみ!美味しいハリーム、私も食べてみたいです!

アリーズ・キッチン(大阪・心斎橋)

公式サイト
https://www.aliskitchen.jp/
食べログ
https://tabelog.com/osaka/A2704/A270401/27045608/

いただいたのは、お店がまだ大正区にあった2011年のこと。
ハリームがあるかどうか、事前に調べずに行ったのですが、ラッキーなことにその日いただくことができたのでした。

店主さんは、トロント生まれのカラチ育ち、ということでカラチが誇るこのハリームをお作りになっていらっしゃったご様子。
本場のハリームだぁって一口食べたときすぐに感じました。
とーっても美味しゅうございました。

アリーズキッチン | メニュー表
http://aliskitchen.jp/grand%20menu.html
によると、ハリームは年4回だけ提供、とのこと。また食べられるといいなぁ。

アリーズキッチンさんの美味しさが認められて、ミシュランガイド2017、2018京都・大阪でビブグルマン(5000円以下で食べられる美味しいお店)の1店に選ばれました。

グレンの旅&グルメブログ | 【ミシュランガイド大阪2018】ビブグルマンのお店一覧(心斎橋)
https://www.xn--e-3e2b.com/osaka/michelin2018_osakab05/

ルトロン | ミシュラン・ピブグルマン受賞! 心斎橋の本格パキスタン料理「ALI’S KITCHEN」
https://letronc-m.com/3404


کابل ریسٹورنٹ Kabul Restaurant | カーブル・レストラン(イスラマバード)

初稿:2011年3月5日 更新:2018年5月18日(写真追加・リンクチェック)

イスラマバード F7エリアのジナースーパーマーケット(Jinnah Super Market:大きなショッピングエリア)のエリアの中にある有名なアフガン料理のお店です。

日本ではカブールと呼ばれますが、
کابل Kābul カーブルと発音します。レストランはウルドゥでもそのまま ریسٹورنٹ レストランです。

2階建ての建物で、
1階の大半と2階: カーブルレストラン
1階の残りのスペース: アフガンベーカリー が営業しています。

アフガンベーカリーにいる恰幅のちょっとよい若いお兄ちゃんは、私が協力隊で活動していた頃から働いていて(2004年頃から)昨日も変りなくお店を切り盛りしてました。

アフガン料理はパキスタン料理と違って辛くないので、日本人の舌にもあうものが多いと思います。
昨日はフンザの友人たち(に連れて行ってもらって)と一緒に晩ご飯をここでいただきました。
昨日は金曜日の週末でしたがお店はとても賑わっていて席が空いてはすぐに次のお客さんで埋まるといったような次第。

Youtube | Delicious dishes of Kabul Restaurant, Islamabad

さぁ、注文した料理がやってきました。

カブーリープラーオーは薄く味付けをしたごはんに、にんじんやレーズンを甘く煮た物をのせた一品。
このレストランのプラーオーは薄めな味付けだが、協力隊時代に活動していた学校のクラスにアフガニスタンから来た子どもがいて、その子のお母さんが学校にプラーオーを持ってきて生徒に振舞ってくださったり、ご自宅に招いていただいたときに振舞ってくださったプラーオーがめちゃくちゃ美味しかったことを今も憶えている。

うちのクラスの生徒です(4) – ファヤーズ君 - 2005年3月5日掲載
http://www.ktc-johnny.com/2005-03-05-fayaz.html

アフガンナーンは独特の形をしたナーンで、ペシャーワルくらいまで行くとよく見かけることができていた。
ほうれん草のカレー(パキスタン料理でいう「サーグ」)や肉団子の入った豆カレーは、パキスタン料理にくらべてグググッと香辛料が控えめになっていて、辛さはほとんどない感じ。

Youtube | Delicious Tikka and Kabab (Afghanistan B-B-Q)

おまちかね、ティッカとカバーブが来ました!

このお店のウリと言って間違いないのが、1階の軒先で炭火で焼いているこの串刺しのティッカとカバーブです。羊の肉を使っていますが、香辛料をそんなに使っていないにもかかわらず、炭火で焼かれたその風味は最高です。冷めると味がガクンと落ちてしまうので、あったかいうちにどうぞ。
マジで美味いですから。

Youtube | Kafwa (Afghanistan Green Tea)

さて食後はカッワー(グリーンティー)!

アフガニスタンに近いこの地域では冬はミルクティーも飲むけれど、グリーンティーを飲むことも多いです。
砂糖を入れて飲むとこれまた美味い。

このお店で出されるグリーンティーは砂糖なしで出てきますが、一緒に添えられるシーズニー(アーモンドを砂糖でコーティングしたお菓子)をボリボリとかじりながらいただくといいもんです。

お店で食べることもできますし、テイクアウトすることもできます。
いつも元気に営業しているカーブル・レストラン。
イスラマバードにお越しの際はぜひお立ち寄りになってみてください。


2011年春パキスタン渡航記(1) タッタ・カラチ編

とりあえずドラフトでアップします。写真、動画の追加や文章の書き直しは随時させて頂く予定です。

2011年2月27日日曜日

朝10時過ぎにタッタの事務所を出発。スジャーワル(Sujawal)方面に車を走らせていく。

タッタを出てしばらく走ったあたりの風景。このあたりも水害の際は水浸しになったところだ。
が、その後水が引いたところはこのように小麦・米・野菜・綿花などの栽培が再開され、小麦などは収穫を迎えているところもあった。

そこから更にスジャーワルの方に向かっていくと、道の両側にひまわり畑をよく目にするようになった。
これは、USAID http://www.usaid.gov/ 米国国際開発庁の支援によるプロジェクトの一環で、NRSPから農家にひまわりの種子・肥料などを提供しているとのこと。
ひまわりが栽培されている理由は
・水を与えなくても育つ、水害でダメージを受けている土壌でも育つタフな適性
・種子から油が採れるという商品価値
・小麦は収穫まで半年かかるが、ひまわりは2ヶ月半で収穫が見込めることから早いサイクルで現金収入が可能になること
などとのことだ。
ただ、小麦などレギュラーの品種のほうが高収入になるようで、このひまわりプロジェクトはとりあえず急場をしのぐものになるかも知れない。

手がつけられていない耕作放棄地や荒地も多いので、一面ひまわり畑とまでいかないが、その黄色い花が群れる様子は可愛らしい。

2011年2月26日土曜日
カラチ事務所に着いて、ほどなく休んだ(朝4時前)が7時前には起床。シャワー、荷物整理、地図に情報をプロットしたりしてたら時間があっという間に過ぎていった。
午前11時過ぎに朝食。カラチ事務所のザフールさん(Zahoor)とご一緒に。ザフールさんはチトラールの人だが6人兄弟5人姉妹の大家族の真ん中なんだそうな。ほかの5人の兄弟はチトラールの故郷で一緒に住んでいるのだという。


UPAPカラチ事務所。クリフトンにあり、近くにはザルダーリ大統領の私邸?公邸があったりする。タッタへは一本道で行けるアクセスが良い場所にある。


UPAPカラチ事務所の Zahoor ザフール所長さん。チトラールのご出身。うんノーザンエリアなお顔立ちだ。今回カラチでは空港での出迎えやら現地タッタとの連絡などでとってもお世話になった。感謝感謝。


UPAPはマイクロクレジットを行うNRSPの傘下団体だ。ここでは主に女性に対して少額融資を行いその融資をもとにした仕事で稼いだお金から返済をしていくというシステムだ。
事務所では若いスタッフさんたちがマイクロクレジットにかかわる仕事を行っていた。


毎月の融資額などが記された領収書。こうした書類をまとめてあとで監査にかける・・・といった手間と根気のいる仕事が続けられている。


マイクロクレジットの申請書。

12時過ぎ、NRSPの車でタッタに向かう。2時間強でタッタ・マックリー(Makli)のNRSP事務所着。
道中は水害の救援キャンプはみかけることはなかったが、ドライバーさんの話ではいまもNRSPが運営しているキャンプがあるそうだ。
14時半前にNRSP事務所着。事務所はかなり模様替えしているし、スタッフも異動をしている様子。
でもドライバーで一緒に動いてくれたムスタファさんと再会。痩せててびっくりした。でも元気だ。

見覚えのあるスタッフさんがいたのであいさつすると、模様替えしたある1室に連れて行かれた。
そこに1人の責任者らしき方が座っていらっしゃった。
お名前をキルシャン=クマルさん(Kirshan Kumar)といい、昨年起こった水害に関するプロジェクトの責任者だという。お尋ねするとヒンドゥ教徒とのこと。



私をはさんで左がシンド州の地域責任者のMustafa ムスタファさん、右が水害救援活動部門の責任者のKirshan キルシャンさん。

昨年秋に初めてタッタを訪れた際にも驚いたことが、NRSPのスタッフの中に複数のヒンドゥ教徒がいらっしゃったことだった。北部イスラマバードではまずお目にかからなかったヒンドゥ教徒のパキスタン人。
シンド州はインドと隣り合う位置にあり、ヒンドゥの人たちの集落があったりムスリムと混在して住んでいることは想像できる。
しかしながら、今日お会いしたキルシャンさんのように事務所で相当な地位(所長と同格扱いだった)にあるヒンドゥの方に実際にお会いすると、「パキスタンは人口の97%がイスラーム教徒」という政府のアナウンスから受けるイメージとはまた違うパキスタンの姿を見た気がした。
キルシャンさんに今回のタッタ訪問の目的などをお伝えすると、「ああ、その件は聞いているから心配することはないよ」とおっしゃってくださった。有り難い。



事務所の2階の1室に泊まらせていただくことになり、部屋に着いて荷物を仕分けしたり、ネットをつないだり。
タッタはカラチから2時間強、100キロ離れたローカルな街。旅行客が泊まれそうな宿は市街に1軒しか見当たらなかったりするので、こうして泊めていただけてとても助かっている。

2階の部屋で少し休んでから1階に降りてみると、100キロほど離れたBadin(バディン)から、NRSPのこのエリアの責任者をされているムスタファさんが来られていた。
「おお、良く来たなぁ、安心して泊まっていっていいからな。それと車の手配とか、どこどこに行きたいとかの希望もお前のしたいようにできるからな。」
と言ってくださった。次は翌週の火曜日においでになるとのことだった。

で、夜はAMDAのみなさんが宿泊した家のお隣りさん(Turk トゥルクさん)宅を訪問。
日本の先生からお預かりしたプレゼントなどを持ってお伺いする。


お父さんがこの地域の有力な地主さんということもあって、生活に余裕がある。
ということもあってかみなさん、人を疑うことを知らないのか?というくらいに人が良い。良すぎ。
お父さん・お母さんそれに3人の息子と4人の娘がいるがみんな美男美女だ。
これでどうして結婚しないのかと思っていたら、2番目の娘さんが今月3月に、長男さんが4月に結婚の運びになったとのことでお祝いの言葉を言う。お隣さんでご一緒していた10月以降にバタバタっと決まったようだ。すばらし~。


で、このご家族が自らNGOを立ち上げた。二男さんはこの地域の裁判所に務める法律専門家だが、そこのオフィスを使って運営をしているようだ。
環境保護や地域の生活向上を目指しているとのこと。
そんなこんな話をしているとあっという間に時間が過ぎていった。

– –
2011年2月25日金曜日
8時前に夜行バス東京着。ほどなく山手線で日暮里→京成特急で成田空港へ
11時半にチェックイン開始。機材到着遅れで14時発が14時半に変更。預け荷物は12キロで収まっていた。
13時過ぎに搭乗ゲート待合へ。Wimaxでネットしながら、14時15分搭乗開始。機材はエアバスA-310のようだ。


ボーディングブリッジへ向かうところから見た本日の搭乗機。


安全の手引きに機種名(エアバスA310-300型)が書かれていた。ウルドゥ語が読めなくても説明内容はイラストで分かる。

日本人2割中国人4割パキスタン人4割くらいで搭乗率70%くらい。
結局15時過ぎ離陸4時間ほどかけて19時(北京時間18時)すぎ着。
機内食は中華(牛+ヌードル)、パキスタニー(チキン+米)の2種類だが味落ちたか?旨くない。紅茶はOK。コーヒーはいつもどおりでにがいとのこと。


昼食で出た機内食。このときはパキスターニーを選択。北京で調理されたもののようで、調味料やパンのパッケージには中国語が。
以前食べたPIAの機内食を美味しかったと思い込んでいるのかも知れないけれど、比べてどうにも味がはっきりしない感じでイマイチな印象。特にサラダは×。食欲をそそらないんだなぁ。

隣席が日本の女性の方。隣席のパシュトン語をしゃべる在日パキスタン人、クリームパウダーの年月日表示2010年11月03日は賞味期限でないの?と尋ねる。
隣席の女性の方、たぶん中国は製造年月日のはず、と答える。
Duty FreeときどきFAが愛想良く薦めてきたり、ここで買わないとダメと言ってきたり。
2005年以来の搭乗だが、トランプのデザインが変わっていたことと、お祈り用のマットが気になる。帰りに買おう。
1時間半くらい機内清掃・搭乗客入れ替えあり。
20時半(北京時間19時半)離陸、中国人4割、パキスタン人5割、日本人その他1割で搭乗率85%くらい。6時間のフライトは正直堪える。



北京~イスラマ間の機内食、昼食と基本同じだったみたい。中華にしたが、ヌードルはブチブチ切れてフォークでは食べづらい。箸がないと辛い感じ。
で、これも北京で調製された感じだけど、うん、旨くない。とりあえず温めてあるだけマシかなという感じで。
となりの人はパキスターニーを食べていた。昼と同じように見えたけれど味は試してないからわからない。でも・・・・な感じか。

で、エコノミー症候群防止に他のキャリアだったら水・ジュースをトレーに載せて配ってくれるけど今回のPKは全くなし(頼めば持ってきてくれるけど)。
FAさんたち往復通しで搭乗しているんやろか?交替のクルーは乗っている気配はないし、成田ではすぐにトンボ帰りするから交替はしないだろうし。
イスラマの手前ではアテンダントさんも座席に座ってリラックスしてたな。

やっとこさ23時前(日本時間翌日3時)にイスラマバード着。雨が降っていたようだ。ここで20人ほどを残してみんな降りていった。
ああ、これは王様状態でカラチまで行ける!と思ったのもしばらくのうちだった。
機内清掃(男女スタッフ)の後後部から続々国内線利用客が搭乗。95%の搭乗率に。機内案内でも別の便コードでアナウンスしていた。
24時過ぎ離陸して、25時45分(日本時間29時45分)にカラチ着。

イスラマバード~カラチ間の軽食とドリンクのサービス。サンドのパンが結構いい感じだった。
国内線扱いならこんなもんかな?という印象。
残さず食べたが、運動をしない乗りっぱなしの15時間で3回の食事はキツイな。

成田~イスラマバードまでは通路側に予約をしてもらって座っていたが、イスラマバードからは若い女性が隣に座ってきた。
パキスタン的に見知らぬ男女が隣り合って座ることは普通はない。
外国人ぶって知らんぷりしてればよかったけれど、何かむずがゆく(う~んパキスタン人化しているか?)、結局別の座席に移ることにした。
で移った先が4列席の内側だったのでトイレも満足に行けず。両隣は体格大きくて身をすぼめて座っていた。
何人かエコノミーの座席に収まるのがやっとで、エクステンションのシートベルトを巻く人も。

東京から通しで乗ってた20人ほどは、国内線客が降りた後後部から小型バスでイミグレへ。
イミグレも少しゴタゴタしたが、その後日本からの通し客の預け荷物がみんな出てこない事態に。
空港の荷物担当官、イスラマの空港に照会したり、ああ、こりゃロストバゲージか?と思ったら、どこかにコンテナが紛れていた(ってことあるかいな?)らしくやっと受け取りのコンベアに流れてきた。荷物は無事。
それと空港で少し両替することに円0.908と渋いレートだったので昨9月にだれだったか覚えてないけどあなたの店の人が0.95で替えてあげるよと言ってた」と言ったら0.95のレートにしてくれた。

東京からパキスタニー老夫婦がいらっしゃった。ご主人は東京のイスラミックセンターでお勤めのこと。奥さんが「東京に帰ったらぜひいらっしゃいよ」と誘ってくださった。

2時40分過ぎ、ようやく到着エントランスで、ベーグさんと再会。ご迷惑をおかけしました。
カローラでクリフトンのカラチ事務所へ夜も結構交通量は多い感じ。あと交差点(サークル式)には警察の車が詰めていることが多かった。40分ほどで到着。
ベーグさんはチトラール出身の方。婚約はしているが結婚はまだとのこと。いまはカラチ地区の責任者として事務所に住みこんで働いている。
すぐに寝室に案内されて、明日11時に朝食にしようかということに。
12時か12時半にタッタに向かうことになるだろう。

– –

昨年2010年秋に水害救援活動でパキスタンに行った後は、日本で支援学校講師やアルバイトなどをしておりました。やっと準備が整い、以下の日程でパキスタンに行ってくることになりました。

02月25日金:成田→カラチ
カラチ・タッタに滞在予定(水害被災地の視察、昨年の活動でご一緒した現地NGOの方との再会・情報交換など)
03月02日水:カラチ→イスラマバード
イスラマバード・ラーワルピンディ・ノウシェラなどを訪問・滞在予定
03月06日日:イスラマバード→アボタバード
アボタバードの障害者社会参加プロジェクトを訪問予定
03月08日火:アボタバード→イスラマバード
イスラマバードに滞在予定
03月10日木:イスラマバード→成田

ネットがつながれば随時現地から情報をお届けしたいと思います。
水害被災地が今どうなっているのか。
パキスタンの友人たちは今どう暮らしているのか。
アボタバードでこの3年来続いている障害者社会参加プロジェクトもぜひ伺いたいと思っていましたので念願が叶うようでうれしいです。


パキスタン大水害救援活動(2010年)3:AMDAさんと

1.渡航に向けて | 2.GNJPさまと | 3.AMDAさまと

初稿:2010年10月23日 更新:2018年5月21日(章立て、再構成)

はじめに

2010年9月15日(水)~10月10日(月)までの間
AMDA http://amda.or.jp/ が Sindh シンド州 Thatta タッタ県で行う医療救援活動の調整員を務めさせていただきました。その記録をつづります。
Sindh シンド州 Thatta タッタ県の位置(Google Maps) http://bit.ly/cchpcA

AMDA活動区域図(クリックすると拡大します)

グッドネーバーズ・AMDAとの活動を終えて思うこと

AMDAとの活動終了後、10月13日に岡山市内で記者会見の場が持たれた。
毎日新聞(岡山版)さんが10月14日朝刊にその模様を掲載してくださった。

パキスタン:大雨洪水被害 慢性的な疾患、顕著に 現地での診療AMDA報告 /岡山
毎日新聞 10月14日(木)16時37分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101014-00000264-mailo-l33

◇「長期間の支援考えたい」
7月末から洪水被害が続き、約2000万人が被災したパキスタンで、緊急支援に取り組んだ国際医療救援団体「AMDA」(本部・北区)は13日、記者会見を開いた。現地で診療した菅波茂代表は「現地のNPOと連携したのが良かった。洪水で慢性的な疾患、貧困の影響が顕在化している」と報告した。【石戸諭】

AMDAは先月2日から支援を開始。同国南東部シンド州タッタ県などの避難キャンプで、本部、アフガニスタン、バングラディッシュ、インドネシア各支部の医師、看護師ら計20人が巡回診療にあたった。マラリアよりも、胃炎や呼吸器感染症などが目立った。
AMDAによると、現地の学校などでは洪水の跡が残り、道路の冠水がいまだに残る地域もあった。全身のけん怠感、痛みを訴える患者も多かった。菅波代表は「現地NPOが、水の浄化剤を配布さしており、下痢の被害を抑えることができた。患者は貧しく、日常的な医療ケアが課題だ。洪水は被害が広範囲、長期間にわたる。継続した支援を考えたい」と話す。
調整員として現地入りした土佐光章さん(40)は「パキスタンといえばテロと見られることがある。しかし、大事なのはそこで暮らす人たちの生活だ。当たり前の生活ができるように復興支援が必要だ」と話した。
AMDAは、避難キャンプで小学校仮設校舎建設、女性の生活支援プログラムなどを検討している。

記者の方は

「パキスタンといえばテロと見られることがある。しかし、大事なのはそこで暮らす人たちの生活だ。当たり前の生活ができるように復興支援が必要だ」

と、私が日本の方に伝えたいことを、端的にわかりやすくまとめてくださった。
今回、思いがけず2つのNGOさんで、パキスタン北部・南部での水害救援活動に携わることとなった。
それぞれの地域は住む主要民族は異なり、話す言語や習慣にも違いが見られる。また治安・安全面でもそれぞれ配慮が十分必要であった。

けれども、9月1日~10月9日までの毎日出会った人々の圧倒的大多数は市井の、または田舎の中でその地に根ざした暮らしを送る人たちばかりであった。

子どもたちはどの地でも、好奇心旺盛で楽しければ屈託なく笑い、大人たちは、かつて私が初めてパキスタンの地を訪れたときと同様に、客人歓待の心意気が豊かであった。

2010年10月07日撮影:その村唯一の道路を進む

日本ではパキスタン洪水の報道は、自衛隊や緊急援助隊が引き揚げたこともあり、まったくされなくなった。
しかし、この動画のように、10月中旬になろうとしているのにいまだ冠水している地域がたくさんある。
まだ洪水・水害は終わっていないのだ。

2010年10月05日撮影:綿実から綿を収穫する農民・子どもたち

かたや、同じ地域の別の小さな村では、人々が綿実から綿を集める作業をしていた。
大人たちは黙々と。子どもたちは好奇心旺盛にカメラを見つめてはキャッキャッと笑う。

水害の被害を免れた畑や土地では、人々が避難所から戻り、普段の生活に戻る努力を始めている。その土地に根ざす人々の生活がもとの当たり前の状態に戻るように、子どもたちの屈託のない笑顔を守るために、国際社会はぜひ支援を継続してほしい。

参加のきっかけ

2010年08月~09月にかけて、JICA草の根技術支援案件でパキスタン北部・フンザ地方での仕事が予定され準備をしていた。
ところが、渡航2日前に水害の影響で案件が中止となってしまった。
私は2003年~2005年までイスラマバードの障害者職業訓練校で活動をしたもと青年海外協力隊員だ。
2005年のパキスタン大地震の際も被災地での医療および物資配布活動に従事させていただいた。そのとき痛感した緊急支援の重要性、ならびにパキスタンが協力隊任国であり第2の故郷のような存在であることから、もしチャンスがあるなら水害救援活動に参加したいと思った。

幸い、パキスタンビザ(1年間有効マルチビザ)を取得していたこと、AMDAさまの活動に支障のない程度日本でのスケジュールを空けていたので、
JANICさん http://www.janic.org/ に問い合わせて、パキスタン水害に関わってくださりそうなNGOさんを紹介していただき、自分でメールを出してアプライした。

そのうちのひとつ、グッドネーバーズさんからオファーをいただき、9月1日~10日まで北部パキスタンで活動をし、その後15日~10月10日までのAMDAさんからオファーをいただいて南部パキスタンで活動させていただくことができた。

今回ご一緒に仕事をするまで、グッドネーバーズさん・AMDAさんのことはどちらもよく知らなかった。オファーをいただいて初めて「グッドネーバーズさんて?」「AMDAさん、菅波さん(代表)って誰?」とWikipediaで検索したというような知らなさぶりだった。

けれども、JANICさんが太鼓判を押していらっしゃったNGOさんであったこと、この情勢の落ち着かない中でパキスタンのために動いてくださるというところで全く不安はなかった。
とにかくどちらの仕事もベストを尽くすことのみ考えていた。

2010年09月15日-16日(水-木曜日)出発-到着

朝方まで出発の準備に追われつつ。
8時過ぎの三ノ宮発の高速バスで岡山駅西口へ。そこからタクシーでAMDA本部着。
これまでメールでのみやり取りさせていただいた職員のみなさまと初顔合わせ。みなさんとても物腰柔らかく優しい雰囲気。
日常とても忙しいはずなのに、事務所内は殺伐としておらず、ゆったりした雰囲気なのが印象的。
担当のY山さんと打ち合わせ、調整員としての仕事内容などを説明していただく。
今回出発をご一緒するF崎医師、W辺看護師さんもご到着。

夕方4時に岡山駅。菅波代表、F崎医師、W辺看護師、わたしの4人の出発の様子を地元TV局・新聞社が取材に。
ここ岡山でのAMDAさんの存在の大きさを実感するひととき。

岡山→新大阪→関西空港と移動。菅波代表はマレーシアでの国際会議参加のため、バンコク行きフライトで。

私たち3人はドバイ行きフライトで15日夜関西空港発。
ドバイでカラチ行きに乗り継ぎ16日昼(現地時間、日本時間-4時間)にカラチ着。
現地協力機関のNRSP(パキスタンの大手地域開発NGO)の車で Thatta タッタ市内の事務所へ。

NRSP : National Rural Support Programmehttp://nrsp.org.pk/

8月31日に西宮でお会いしたN調整員さんが数日前にタッタ入りして、私たちの宿舎用に家を借り上げてくださっていた。
そこに荷物・医薬品を運び込み、翌日からの医療活動に備える。

Mushtaq ムシュターク職員に場所のアレンジをしていただく。明日は、インダス川西岸、河口に程近い Ghora Bari ゴーラ・バリという場所で診療キャンプを開くことになった。

動画:運び込まれた医薬品

今回使用する医薬品は、隣国インドの水害救援活動の際使用されたものを参考にして、カラチで調達された。
約1ヶ月の滞在だったが、後半は医療スタッフが増えて多くの患者に対応することができるようになったことで薬の処方も増え、何度か買い足しをしている。
購入させていただいたカラチのお店はドルでの支払いが可能であったため、ルピー両替による差益損を回避することができた。

2010年09月17日-18日(金-土曜日)Ghora Bari ゴーラ・バリ

08:00すぎ、迎えの車でNRSPの事務所へ。朝食(パン・オムレツなど)を摂ったあと、2台の車に、医薬品・水などを積み、1時間半ほど走った、Ghora Bari ゴーラ・バーリーへ。ここにある学校の避難所で、医療救援活動の第1・2日目がはじまった。

F崎医師、W辺看護師、N調整員・わたし、医療の知識がある通訳のAbuda アブダさん(女性)、Nazir ナジールさん、現地Ghora Bari の世話役 Mushtaq ムシュターク職員、ドライバー・スタッフ3名の総勢10名の陣容。

午前10時過ぎのオープン開始から、学校内に避難をしている方を中心に多数の方が診察を希望された。
~午後3時前まで、短時間のブレイク(クッキー、水)以外は受付・診察・薬の処方に全員が追われていた。

小学校社会科6年教科書に掲載されている写真。Ghora Bariでの活動のときの写真だ。後年掲載されていることを知る。誰が撮ってくれたのだろう?

1日目(9月17日):85人を受付し、53人の診察を行った。
2日目(9月18日):昨日受付をしたが診ることのできなかった患者さん約30名+新規受付した32名の計66名の診察を行った。

Thatta タッタのNRSP事務所~Ghora Bari ゴーラ・バーリーの往復は舗装はされているが悪路が続き、通うこともなかなか易しいものではない。が、現地の方の協力で現地救援医療の第一歩が歩めてよかったと思う。

動画:9月18日 Ghora Bari ゴーラ・バリの診療キャンプ地(高校)にて

↑水が浸っていた部分の壁面が変色(もしくは壁材の剥離)している様子がよくわかる。

動画:9月18日 Ghora Bari ゴーラ・バリの診療キャンプ地での水配給

↑水害後、生活用水はこのように濁ったものしか配水されなくなった。これが生活用水であるし、飲み水である。

2010年09月19日-20日(日-月曜日) Darya Khan Bhatti 菅波代表現地で診療

NRSP事務所で朝食をいただく最中に、前日カラチ入りしていたAMDA菅波代表・N調整員がカラチを早朝に出発してタッタに到着。
NRSP地域ディレクターのMustafa ムスタファさんはじめ関係者と懇談。その後車3台に分乗して、本日の診療キャンプを置く、Darya Khan Bhatti ダルヤ・カーン・バッティに向かう。所要時間1時間強。

この場所はインダス川本流よりかなり離れた場所に位置しているが、いまだに水に浸かっている場所が広がり、家を失った家族が堤防の上のテント村で暮らしている。地域責任者の話ではおよそ250家族1000人以上が暮らしているとのこと。

動画:2010年09月19日 いまだ浸水する土地が広がる状況をレポート

動画:2010年09月19日 AMDA菅波代表の診療のようす

ここの竹や木の枝で作られた小屋を診療所として開設することに。
机・イスなどを運びこみ、11:00前より診療を開始。
100人まで診療受付をし、~15:00までの間、76名の方の診療を、菅波代表・F崎医師が行った。

今日は、イスラマバードからNRSP(全パキスタン)CEOのDr.Rashid Bajwa ラシード・バジュワ博士が診療キャンプを訪問。この日カラチからイスラマバードに飛行機で帰られる前に、ギリギリの時間まで診療の様子をご覧になられた他、菅波代表と診療の合間を縫って懇談。

翌20日(月曜日)は休養日に。資料データの整理をして過ごす。

2010年09月21日(火曜日) Darya Khan Bhatti 2回目

この頃から、送迎の車や食事がパキスタン式に顕著に遅くなり始める。
担当の職員が努力してくれていることはよく理解しているが、朝食や車の出発が遅くなると、そのぶん医療キャンプを開く時間が遅くなったり、短くしなければならなくなるから、困ったものだ。

朝食後、09:15ごろ遅めのNRSP事務所出発。

車で1時間半ほど走ったDarya Khan Bhatti に到着。11:15にこの地での2回目の診療を開始。
ただ、今日はこの地域の担当者 Mushtaq ムシュターク職員が事前に段取りをしていただき、机・イスなどがきちっと整備されていた。

動画:2010年09月21日撮影 事前準備が整った診療キャンプ

前回(菅波代表が入られた9月19日日曜日)診察ができなかった患者が30名ほど居り、本日も相当数の来診が予想されたが、今日はその未受診者と新規あわせて49名で15:00過ぎに診療終了(希望者全員の診療終了)でき、15:30ごろDarya Khan Bhatti 発。

F崎医師が昨夜来、腹痛・下痢を訴えていらして(ご本人は診療に支障なくできる旨おっしゃっていらっしゃる)、体調について様子をみなければいけないだろう。

2010年09月22日(水曜日) Saahib Dino Gaho

今日は朝食・車の出発ともに大きく遅れることはなかった。
Thatta タッタ事務所から車で1時間ほど走った Saahib Dino Gaho サーヒブ・ディノ・ガホに到着。

今日もMushtaq ムシュターク職員と現地で落ち合う予定だったが現地事務所からの出発が遅れたとのことで、先に避難テントのひとつを借りて診療所設置を開始。11:00すぎから診療活動を開始する。

今日のSaahib Dino Gaho は今まで訪れたテント村の中でも一番支援が行き届いていないと感じられるところで、住民はこの2ヶ月で2度しか食糧などの支援を受けられなかったことを盛んに訴えていた。

事前に30~40家族が住んでいるとの情報を聞いていたが、だいたいその通りで、離れたところにある村の集落にはさらに多くの方が暮らしている。

動画:2010年09月22日撮影 避難民の方へインタビュー

Sindhi シンド語でお話になっているので、完全に理解ができていないが、
・食糧、水の供給がされていない、イード(断食明けのお祭り)の際のお祝いや施しもなかった
・そうしたことに対して政府は何の手立てもしてくれない
というような窮状を強く訴えるものであった。
9月中旬から下旬にかけて、NRSPでは連日、WFP(国連世界食糧計画)の支援による食糧配布をこうした地域に行い改善されつつあったが、道路状況などアクセスの悪い避難地ではこのような窮状は続いていた。

こうした厳しい状況ではあったけれど、他方では感動的な場面にもたびたび出会うことができた。

動画:2010年09月22日撮影 生後12時間の乳児の健康チェック

12時間前に産まれたのだという乳児、しかも双子。

家財道具はほとんど流されてしまっていて、この診療所で使うための机さえ見つけられないような中、新しく生まれいでた生命のために、手持ちで一番綺麗な布で大切にくるまれていた。
そうした細やかであたたかい愛情を父親の表情から十二分に感じ取ることができると思う。

へその緒もどうやって処置したのか聞きそびれてしまったけれど、衛生的に処置されていた。

F崎医師が「だいじょうぶ、でもちょっと体温低いから、暖かい格好をさせてあげてね」と父親に伝えると、ホッとしたようなそれでいてうれしくてしょうがないという表情が何よりだった。

今日は子どもの受診が多いと感じられた一日だった。
11:00~15:15までの開設、総受診者数49人。

この日のF崎医師の所見
1 上気道炎が最多
2 次いで慢性疾患 Headache
3 眼疾患、皮膚疾患が目立った
4 重篤例 赤痢疑い(5歳女児) マラリア否定できず(5歳女児)
5 下痢はまれ

先にも紹介をしたが、この地域で供給されている水は濁っていて良い水質とは言えない。しかし、下痢を訴える患者さんが少ないのはどうしてだろう?

今日はMushtaq ムシュターク職員が体調を崩し途中で帰るなど、スタッフの方も疲労が貯まっていることを感じさせる一日だった。

夕刻、カラチから菅波代表・UPAP(NRSPの傘下組織、マイクロファイナンスなどを行っている)のMasood マスード代表がThatta着。

夜、NRSP地域ディレクターのMustafa ムスタファさんのご厚意で夕食の席を設けていただく。

参加者 Mustafa ムスタファ所長、Masood マスードUPAP代表、Dr Shahid シャヒド医師、菅波代表、F崎医師、W辺看護師、わたし、会場を提供してくださったNRSP系列のIRM(教育機関)のスタッフの方2名。

夜はMasood マスードさんも私たちの宿舎に泊まられた。

2010年09月23日(木曜日) Arif Khas Kheli 菅波代表2回目の現地診療

09:00すぎ、NRSP地域ディレクターの Mustafa ムスタファさんが車で迎えに来て、3台の車で宿舎発。

はじめに Thatta タッタ郊外、刑務所そばにある海軍・陸軍設置のテント村を視察。この場所の広大な空き地にマスジッド(仮設か恒久なのか詳細は不明)を建設する構想があるという。

この場所を視察し終えてから、事務所でスタッフをピックアップし、車で20分ほど走ったところにあるArif Khas Kheli アリフ・カース・ケーリに到着。NRSPが設置しているテント村で、ロータリークラブの提供によるドーム型のテントに3家族ずつ住んでいるということだった。
ここの2張りのテントを借りて診療活動を開始。

代表は11:00~12:00まで、渕崎医師は11:00~15:00まで診療を行った。
総受診者数58名。

今日はいつもより早く診療活動を終えたため、帰路タッタ市街にある Shah Jahan Masjid シャージャハーン・マスジッドというムガール王朝時代からあるイスラーム寺院を見学。

Wikipedia(EN) ShahJahan Mosque
http://en.wikipedia.org/wiki/Shahjahan_Mosque/

完成したのが、Mugal ムガル王朝 Shah Jahan シャー・ジャハーン皇帝在世の1647年。
1981年には UNESCO ユネスコが制定する World Heritage 世界遺産にも登録されている。
パキスタンには現在6つの世界遺産(モヘンジョダロ、タフティバーイ、タキシラ、ラホールフォート、シャージャハーンマスジッドなど Thatta タッタの歴史的遺産、ロータスフォート)が登録されている。

Wikipedia(EN) パキスタンの世界遺産リスト(英語)
https://en.wikipedia.org/wiki/Lists_of_World_Heritage_Sites#Pakistan_.286.29

この数日来インターネットが使えない。→ 日本のNTTにあたるPTCLの回線不調と聞く。
イスラマバードで活動するのと違って、ここThattaではインターネットを使うのがひと苦労だった。
電話回線の不調、それに頻発する停電。ネットはNRSP事務所でさせていただいてたけれど、停電になると自家発電を回さない限りネットも使えなくなってしまう。調整員の仕事にはメールでのやりとりも含まれるから、これには参った。といいつつ、使えないときはシャーないみたいな腹のくくりになっていったっけ。

夕方17:30すぎ、インドネシアチーム(Usman ウスマン医師、Adhi アディ医師、Kadir カディール看護師)が事務所着。ムスタファ地域ディレクターにあいさつ、その後宿舎着。F崎医師・W辺看護師とあいさつ、簡単な打ち合わせ。
夜、宿舎近くのNRSP傘下の団体IRM(Insititute of Rural Management)内で歓迎会を兼ねた夕食。IRMの職員が同席。

2010年09月24日(金曜日) Gujjo Tent Camp インドネシアチーム合流初日

食事の時間がパキスタン式に遅く(朝食は9時ごろ、夕食は21時以降!)なってきて、日本での生活のリズムと大きく違うことから、事務所の食事を待つことをせず、今日から朝食は事前に買ってきたパン・持参の食糧などですませることにする。
結果的に、こうして自分たちのペースで食事や時間を活用することができ、ストレス軽減に大いに役立ったと思う。

09:00すぎ、迎えの車で事務所へ。ここでコピー、机等の資材の手配などをして、09:30すぎに事務所発。
Karachi Road カラチロードと呼ばれる幹線道路を、Thatta タッタからカラチ方面に10分ほど走った場所にある Gujjo グッジョという街郊外のNRSP設置のテント村に到着。

ここで
第1テント インドネシアチーム(Usman ウスマン医師、Adhi アディ医師)
第2テント F崎医師、薬局(W辺看護師、Kadir カディル看護師)
という配置で準備をし、本日の医療活動を開始。

インドネシアチームの先生方ははじめ、どういう薬が準備されているかなどを具体的に把握するために多少時間がかかっていらっしゃったように見受けられたが、すぐに慣れられて精力的な医療活動を行っていらっしゃった。

本日金曜日はイスラームの聖なる日。
午後の礼拝にはインドネシアチームの先生方もスタッフの車で近くのマスジッドに向かわれていた。(インドネシアチームのみなさんはみな敬虔なイスラーム教徒。時間がとれればきっちり一日五回のお祈りをされていた。)

本日は11:00~15:00(間に1時間近くの休憩・礼拝時間)の診療活動で 総受診者数104名。

2010年09月25日(土曜日) Niazi Hotel Gharo

今日も車、通訳者(確保できたと思ったら、英語が話せないことがわかり、これまでのNazir ナジールさん、Abda アブダさん2人が3人の医師の通訳をこなしてくださった。)で時間がかかり、宿舎を出発できたのは10時をまわっていた。

昨日の打ち合わせで、Thatta タッタからカラチ方面に30キロほど行ったGarho ガロという街近郊のNiazi Hotel ニアジ・ホテルという名前のレストラン内の部屋を借りて診療を開始。

F崎医師 – Nazir ナジールさん
Usman ウスマン医師、Adhi アディ医師 – Abda アブダさん

が通訳を担当してくださる。

動画:2010年09月25日撮影 Abda アブダさんが2人のドクターを相手に通訳

Abda アブダさんは、NRSPの別の事務所でフィールド活動を行う職員だ。今回通訳として大活躍してくださった。

彼女やNazir ナジールさん、Yamin ヤミンさんなどは一人で2人のドクターを相手に通訳をこなすことができ、特に通訳確保に困った中で大きな働きをしてくださった。

11:00~15:30(間に30分ほどの休憩・礼拝時間)の診療活動で、総受診者数107名。

本日、宿舎に長らく要望していたシーツ、イス、洗剤、蚊取り線香、殺虫剤などが届けられる。

また、昨日朝ウジが湧くほど悪化していた生活用水の部分もある程度清掃されて改善された。
しかしながら、水害後普通給水の水質が格段に悪化したとのことで、給水車で配水された水は濁り、浄水タブレットを多数投入してようやく臭いだけは改善された。

動画:2010年9月25日撮影 宿舎に供給される生活用水

2010年09月26日(日曜日) 休日、隣家のみなさんとの交流

本日は医療活動は休み。
NRSP事務所も今朝方まで夜通し物資の配布活動を行ったあとで、休日ということもあり閑散とした事務所内だった。
午前中、わたしとインドネシアのみなさんで事務所に行き、インターネットに接続しての諸業務を行う。
お昼は市街そばのレストランで食事。行き帰りはリキシャーに乗って。

泥水のような生活用水、食事や車、通訳などなまざまな問題・・・毎日いろいろなことで、先生方にはご苦労をいただいてきた。

水かベッドのダニ類が原因なのか、全員体中に湿疹やかゆみを訴えているような有様。
本当にご苦労をいただいているけれども、パキスタンの人たちの情の厚さ・豊かさを今日は経験していただくことができた。

・・・とにかく食事の件ではずっと頭を悩ませてきていたが、パキスタンで協力隊経験をしてきた者として、ぜひともパキスタンの家庭料理を召し上がっていただきたい、そう思っていた。

そこに大変ラッキーなことに、宿舎のお隣さんがとても好意的な方で(すでにF崎先生がこのお家のお母さんを診察してあげていたこともあって)、毎日声をかけ、時にはW辺看護師さんとこに娘さんが押しかけてメヘンディ(ヘナの粉を水で溶いて腕に模様を描く)までしてくれるような親しさだ。

それで、朝ふと思い立ち、お隣さんに「今晩ごはん食べに行ってもいい?」と尋ねてみる。
すると、「もちろんだよ、みんないらっしゃい!」と即答。
で、夜はそのお隣さん宅に、日イ連合軍6名で押しかける。

動画:2010年9月25日撮影 お隣さん宅で夕食

日本だったら「厚かましいな・・・」と思われるだろうが、パキスタンではこういう展開はぜーんぜんオッケー。
むしろ、これくらい(日本的には)厚かましい方が相手はとっても喜んでくれる。

シンド州にははじめて来たけれど、北部よりも開放的でこうしたストレートなお付き合いや頼み方が好まれるような気がする。

食事ばかりか、エアコンの効いた部屋で(私らの宿舎にはない&網戸もないので蚊がすごい)フルーツやジュースをご馳走になるという贅沢で幸せな時間を過ごさせていただいた。

十分楽しませていただいて宿舎に戻ると、休みではあったが、切れかかっていた発電機用のガソリン、追加のベッドセットが持込まれていた。

2010年09月27日(月曜日)

これまで、NRSPタッタ事務所に多くの応援要員を送っていた Badin バディン事務所のスタッフが引き上げたために、各種連絡をする担当者が変わり、車・ドライバーの手配で混乱が見られた一日だった。

が、担当の方が誠実な方で不都合が多々ある中一生懸命対応してくださっている。
(けれども、これ以降特に車と通訳の確保についてはいよいよ困り、現地で2名通訳を雇うこと、カラチのUPAPから車を1台用立てていただくようなこととなった。それでうまくしのげたので良かったんだな。)

車・ドライバーの手配がついて、11時Thatta タッタ発、現地Pump House Dabeji ポンプハウス・ダベジの小学校に12時前に到着。
12:15~13:30まで学校内の敷地で医療活動を行う。
この場所はKarachi Road カラチロードにも近いため、多くの巡回医療団が入っているとのことで受診者数は41人にとどまった。

午後、第2陣のおひとり、H村医師が予定通りご到着。大変お元気なご様子。
夕方、F崎医師とわたしで物資の購入がてら、Thatta市街のバザールに出かける。
好奇心旺盛で、でもとても人懐っこく接してくれるバザールの人たちがとても印象的だった。

2010年09月28日(火曜日)

今日はこれまでの日程の中で、一番うまくいった一日だった。

朝8時30分、事務所に今日の場所のオーガナイザー、Mr.Tariq タリーク職員(NRSP SAKRO サックロー事務所所長)が来られた。それから、9時前には宿舎からAMDAメンバーをピックアップした車が到着し、車にタリークさんが同乗して、予定していた時間どおりに事務所を出発することができた。

(W辺看護師は体調不良のために宿舎で静養となった。Adhi アディ医師も体調がやや不良とのことだったが、医療活動に参加し積極的な医療活動を行っていた。)

車は、いったんKarachi Road カラチロードの街Garho ガロに向かって、通訳者のAbda アブダさんをピックアップし、そこからSakro サックロー経由で午前10時過ぎに到着。

今日の活動地、Gariwah ガリワーでは、現地出身のNRSPスタッフのAakash アーカシュさんがすでに万全の態勢でセッティングをしてくださっていた。

避難所になっている教室をひとつ空けて下さり、診察用の机・イス・薬品置き用のベッドなどをキチンと整えてくださっていた。そのために準備はすぐに整い、10:15~14:30に医師4人態勢で158人の方を診察することが出来た。

動画:2010年09月28日撮影 Gariwah ガリワーの診療キャンプ

午後3時前には、M本看護師、バングラデシュの方たち(医師、看護助手、調整員)も到着。
夜はタッタ市内のレストランでF崎医師・W辺看護師の送別会、H村医師・M本看護師・バングラデシュの方たちの歓迎会を行った。

その前には、いつも快く接してくださっている隣家の方がかけつけてくださり、豆の手料理でもてなしてくださった。

隣家のみなさん&日本インドネシアの先生方みんなで記念撮影

2010年09月29日(水曜日) キャンプ開けず・・・でも

朝9時すぎにF崎医師・W辺看護師が宿舎を出発。
代わってバングラデシュの3人の方が、一泊したタッタ市内のホテルから移動してきて、宿舎は賑わいをみせている。

すべてが順調に行った昨日と違い、一転して今日は車・人の派遣の件で振り回された一日になった。

私たちの活動時に一緒に動いてくれているYamin ヤミンさんが、Amdaメンバーのピックアップをすることになって抜けてしまい、代わりの車・ドライバーを手配することがなかなかできなかった。

それに加えて、当初本日の活動場所に想定していた場所が、住んでいた多くの被災者が故郷にもどってしまったことで十分な医療活動ができないことがわかり、代替の活動場所を探すことも難しかった。
そのため、午後1時過ぎまで宿舎・事務所で待機となった。

結局、代替の車が手配でき、それに乗って、
Thatta タッタ→ Sujawal スジャーワル→道中のまだ冠水しているエリア→ JATI ジャーティの途中→ Thatta タッタに戻る
という日程で、各地を視察した。

スジャーワルを出てしばらく走ると、道路が冠水をしていて、車が徐行をしながら通りすぎる光景に出くわすこともあった。

動画:2010年09月29日撮影 冠水する道路(Sujawal スジャーワル – Badin バディン間)

また、水が引いたので、故郷に帰る、家財道具それに家族を満載したトラック多数と出くわすことも多かった。
JATI ジャーティという町に向かったが途中水害の影響で道路が壊れている箇所があり、そこから引き返して宿舎に戻ってきた。

夜、翌日の活動先についてミーティング。
医師5名体制になったので、2チーム(医師3名、2名)に分かれて診療活動を行うことに。

チーム1
Y田医師、M本看護師、Usman ウスマン医師(インドネシア)、Haque ハク医師、Uttam ウッタム看護助手、Razak調整員(バングラデシュ)
チーム 2
H村医師、わたし、Adhi アディ医師、Kadir看護師(インドネシア)

という組み合わせで(くじびきで決めたけれど、バランス的にちょうどよいように思われる)明日は向かうことになった。

2010年09月30日(木曜日) このあたりが辛い時期だったかな・・

今日は何とか中型(8人乗り)車を2台確保。
車は慢性的に不足していて確保が本当に難しい。

更に通訳者がThattaに来るのが遅れたために、目的地のDarya Khan Bhatti ダルヤ・カーン・バッティに2台目が着いたのが大幅に遅れてしまった。

しかしながら、ポイント1は11時前から、ポイント2は11時過ぎから診療活動を開始。
それぞれ精力的に活動をしたおかげで14時半ころにはそれぞれ活動を終了する。

ポイント1 10:45~14:15 105人
ポイント2 11:15~14:30 57人  合計162人
の診察を行うことができた。

初めての3カ国医師団での診療活動だったが、大きな混乱なくいずれの場所でも充実した活動ができているようだ。

Razak ラザックさんに私の2台目携帯を持ってもらい、必要な連絡先を伝えていたが、自分でRegional Director タッタ地方4県(Thatta,Hyderabad,Badin,MirpurKhas)の地域ダイレクターのMustafa ムスタファさんに面会のアポイントを取っていて、そのムスタファさんが今日タッタ事務所を訪れてBadin バディンのRegional事務所に戻る前に宿舎まで出向いてくださって、ラザックさんたちバングラデシュメンバーと会談をした。

バングラデシュでもグラミン銀行のようなマイクロクレジットの取り組みが盛んなので、UPAP(NRSPの傘下団体)が行っているマイクロファイナンスの話も踏まえつつお互いの情報交換を積極的にされていた。

夜夕食後にミーティング、翌日の活動場所などについて確認をする。

2010年10月01日(金曜日) パキスタンに来て今年はじめてキレた・・

個人的な話だが、9月1日~グッドネーバーズさんとの北部パキスタンでの水害救援活動以来、感情を露にして怒ったことはなかったのだが、1ヶ月間(数日の日本滞在をのぞいて)休みなしでパキスタンで活動してきて初めてキレた。

前日あれだけ念をおして時間などを調整したのに、通訳者が現れない、車が確保できないことに「プチっ」と頭の回線が切れてウルドゥ語で事務所で怒鳴り上げた。

結局、足りない通訳者の部分は来ている通訳者が一人二役で行うこと、車もどうにか確保できたことで一件落着した。

個々人で我々に非常に誠意をもって対応してくれているのだが、NRSPの現地Thattaタッタ事務所が他の案件をいくつも抱えていて混雑をきわめていること、車・人の十分なリソースを十分に持っていないことが災いしていてこのような事態を毎日抱えている。

というわけで、最近は、
前日、念に念を押して明日のことをお願いする・確認する。
当日朝も早いうちに事務所まで出向き、ひとつひとつ確認をする。
ようにしている。

今日は遠方の GhoraBari ゴーラ・バリでの活動のため、何とか8時出発をとやってきたが、結局出発できたのは9時半だった。

今日の活動場所は
1 High School ハイスクール(9月17日18日に実施した場所)
2 Khamoon Walasyo カムーン・ワラショ(High Schoolから約2キロほど奥に入ったテントキャンプ)
だった。

1 ではY田、Usman ウスマン、Haque ハクの3医師が10:30~15:30の間に138人の診療を
2 ではH村、Adhi アディの2医師が10:45~15:00の間に88人の診療を行った。(本日の合計226人)

昨日今日と酷暑で日差しが厳しくメンバーはみな真っ黒に日焼けしている。
また、ミネラルウォーターもものすごい勢いで出ていて、H村医師は一日5リットル以上の水を飲んでいると話していた。
夕刻、バングラデシュ・インドネシアのメンバーはタッタ市街に買い物に出かけていろいろ楽しんだようだ。

胃薬が足りなくなったために、明日、ラザックさんにカラチまで行っていただき買出しをしていただくことにした。そのために車が足りなくなるので、UPAPから大型車を一台借りることに。
メンバーが増えた分、いろいろな部分でだいぶしんどくなった、が、ここがこらえどころか。

2010年10月02日(土曜日)

今日はカラチUPAP事務所から車を1台お借りし、代わってこれまで一緒に動いてくださってきているYaminヤミンさんの車でラザックさんにカラチに行ってもらい、薬の購入などをしていただいた。

9:30宿舎発、15分ほど走ったGujjo(9月24日に医療キャンプを置いた)のテント村に到着。
話を聞くと昨日他の団体が移動巡回キャンプを置いていたとのことで、今日はGujjoでの医療キャンプは必要ないと判断。
キャンプ1として、Noor Muhammad Thaheem ヌール・ムハンマド・タヒーム という場所(医師3人)
キャンプ2として、Primary School for Boys という場所(医師2人)
で医療活動を行うことになった。

キャンプ1 Usman ウスマン医師、Haque ハク医師、Y田医師、M本看護師、Uttam ウッタム看護助手
11:00~15:30 受診者数 180人

キャンプ2 Adhi アディ医師、H村医師、Kadir カディル看護師
10:45~16:00 受診者数 178人

2箇所合計受診者数 358名 となった。
この日が、今回の南部パキスタンでの活動期間中、もっとも多くの患者さんを診察できた日であった。

動画:キャンプ1の全体風景

動画:キャンプ2の全体風景

この日は本当に暑かった!9月16日にタッタに来て以来、雨は一滴も降っていない。乾ききった空気と刺すような日差しで、歩いているとフラフラしてしまいそうな位だ。そんな中先生方は奮闘してくださっている。

夕方、簡単なミーティング。

これまで、私たちはインダス川西岸で活動してきたが、9月29日水曜日にインダス川東岸を視察してみて、より被害が大きく、支援を必要としていると思われるため、情報収集と、西岸での活動をフォローしてくれるオーガナイザー探しを行っている。

医師5人体制で行える診療活動は翌週月・火・水の3日のみ。
何とかより被害の大きな、支援の必要な場所に行きたいとメンバー全員が思っている。

2010年10月03日(日曜日) 今回のプロジェクト期間での最後の休日

10時前、ネット(WIFI)を利用したい方(Y田医師、Usman ウスマン医師、Adhi アディ医師、わたし)で事務所に出かける。
事務所でネットを利用していたところ、昼前にThatta事務所の現責任者の Ayaz アヤーズさんが出勤してきた。
先週まで被災地各地での物資配布活動に追われていたそうだが、先日現在も水害の被害が続くJATI ジャーティという街を視察してこられたところだった。

先日来、夜のミーティングでは医師から「より被害の大きく、支援の行き届いていないところに入ることはできるか」という要望を受けた。

オーガナイズしてくれそうな方と接触をしてきていたが、同じような要望を Ayaz アヤーズさんにお伝えした。すると、ご自身がつい今しがたまで見てこられた被災地経験と重ね合わされたのか、すぐに携帯で各所に連絡をとってくださった。
Sujawal スジャーワルから Jati ジャーティの間のテント村での活動をオーガナイズしてくださった。

動画: Ayaz アヤーズさんが、現地の担当者に電話で依頼をしてくださっているところ

こうして、私たちはインダス川を渡り、東岸の地で2箇所の医療キャンプを開くことができる見通しになった。

それにしても、グッドネーバーズさんとの活動でもたびたび感じたことだが、行き詰まった時にふいに助け舟となってくださる方が現れて、その後の活動が円滑に進んだり、その日のその時にしか会えない人に会えたりといった不思議な感覚を覚えることがあった。

これがその時で、「インダス川を渡ってより奥地へ」という狙いで初めアテにしていた方が都合が悪くなり、どうしようか思いあぐねていたところに、フイにAyaz アヤーズさんが現れて一気に話が進んだのだった。このタイミングをすごく不思議に今でも思っている。

トータルのマネジメントは、日本のように効率よく行かなかったとしても、パキスタンの人たちはみなそれぞれ善意で動き、応援してくれている。そうした善意の思いの積み重ねが、現地で思いがけない、いい方向への話の展開であったり、人との出会いなど見えない大きな力として作用したのではないかと私は思う。

また、アヤーズさんは同時にシンド州のテレビ局「KTN」のプロデューサーとも連絡をとられて、10月5日(火曜日)夕刻~夜予定でインタビュー・AMDA紹介などを盛り込んだミニ収録を行うような話にまでなっていた。
(5日には実現しなかったが、帰国前日の8日に、こちらもフイに実現してしまった。本当に不思議。)

今日は午後から、通訳者のAhtab アフターブさんの家での昼食のご馳走、夜は宿舎の隣家の方からの夕食のご馳走をしていただいた。
ラザックさんはじめバングラデシュの方々も時にイニシアチブをとりながら楽しまれて、よい一日を過ごすことができたと思う。

2010年10月04日(月曜日) Sujawal – Jati 間でのキャンプ

カラチ・UPAPより車(ランドクルーザー)1台到着。
今日はYamin ヤミンさんが遠方の家庭に帰っていたために、都合2台で9:30すぎに宿舎を出発。

Thatta タッタを出発後、車はSujawal スジャーワルに入った。この街も長く水に浸かり多くの被害を受けていた。この数日来よその場所に避難していた方たちが続々とSujawal、Jatiジャーティの町に戻ってきていて、町は活況を呈しつつある。

SujawalのNRSPオフィスに到着、ここで担当者の Areem アリーム職員に会う。彼がこの地域での活動のオーガナイザーだ。彼のバイクに先導されて、車は Jati ジャーティの方に進む。約20分ほど進んだ道路ぞいの村 Village Ichaliye Ahmed ビレッジ・イチャーリェ・アフマド が第1活動ポイントとなった。

そこから、次のポイントにいくメンバーが分かれてより先の Jati ジャーティに向かって進む。
かなりバンプのある道を30分ほどすすみ、Haroon JATI ハルーン村(JATIジャーティ地区)に到着。

それぞれの拠点で

ポイント1(Ichaliye Ahmed)
11:30~15:00 141人

ポイント2(Haroon JATI)
12:15~16:00 148人

の診療活動を行った。
これらの地にはここ半月来よその場所で避難していた人たちが帰ってきているところで、避難先ではメディカルサービスがあったものの、帰ってきたこの場所にはそうしたサービスがまったくなく、私たちAMDAメンバーがこの地でのはじめてのメディカルサービスとなっているようだ。

この先 JATI ジャーティの町でも状況は同一のようで医療サービスをリクエストする人たちが多数いた。
帰りしな、今回のオーガナイザー関係者の父親を道路脇で診療していたところ、近くに住む方たちが診療を希望し、ドクターたちが対応する場面があった。

2010年10月05日(火曜日)

本日はYamin ヤミン運転手が戻ってきたので、
Thatta タッタNRSPから2台、Karachi カラチUPAPから1台の3台体制で活動を行えた。

通訳の到着が遅れるなどしたが、9:30すぎに宿舎を出発。
Sujawal スジャーワルの道中でオーガナイザーの Areem アリームさんをピックアップ。
そのまま Sujawal スジャーワル ~ JATI ジャーティ間の道路に点在する村落へ入っての活動を行う。

第1グループ(Usman ウスマン医師、Y田医師)
Village Leemoon Meuer 11:30~15:30 141名

第2グループ(Haque ハク医師、H村医師)
Village Hassan Ali Leghari 12:15~16:15 110名

行きの道中に時間がかかるために活動の入り時間が遅くなっているが、各地点で全ての患者を受け入れ積極的な診療が行われた。
(Adhi アディ医師は体調不良(腹痛)のため、本日は静養、その後快復される。よかった。)

2010年10月06日(水曜日):多国籍チーム活動最終日

本日が多国籍医療チームでの活動最終日。
前日体調不良で休養していたAdhi医師も回復され参加。
朝、出発前に宿舎前で集合写真を撮影。

本日もカラチUPAPから車を1台借用し、Thatta事務所からの2台を含めて3台での運用体制とした。
Sujawal スジャーワルにて、NRSPスジャーワル事務所のAreem アリームさんをピックアップして、本日の活動場所に向かう。

道中、道路復旧の作業トラックをやり過ごすために(道幅がせまくやりすごすのに非常に苦労する)時間がかかり、早く宿舎を出発できたのにも関わらず遅い診療開始となった。

動画:2010年10月06日 道中トラックとすれ違うのに難儀をする様子

第1チーム(H村医師、Adhi アディ医師、Kadir カディル看護師)
Suleman Leghari スレーマン・レガーリの小学校校舎
11:00~17:00 131人診療

第2チーム(Y田医師、Usman ウスマン医師、Haque ハク医師、M本看護師、Uttam ウッタム看護助手)
Moosa Lothio モーサ・ロティオの小学校校舎
11:30~17:30 130人診療

宿舎に帰着後、インドネシア・バングラデシュチームは市街バザールでの買い物、隣家での会食などを楽しまれていた。日本チームの先生方にはその間、宿舎でゆっくりと仕事・休息などに充てていただいた。

2010年10月07日(木曜日)

本日、インドネシア・バングラデシュチームの先生方がタッタ発。

今回バングラデシュチームは約10日ほどの短い滞在であったが、Razzak ラザック調整員は、Mustafa ムスタファ地域ダイレクターなどこの地域での重要人物との会談や各医療キャンプ地での積極的な交流など、非常にアクティブに活動をされていらっしゃったことが印象的。

Haque ハク医師はウルドゥ語(ヒンディ語)ができるために、患者・地元スタッフとのコミュニケーションも良好にとれ、とても評判が良かった。

Uttam ウッタム看護助手はあまり医療従事経験がないようだったが、臆せず積極的に活動し、写真撮影等記録係としての役割も同国チームの中で負っていて熱心な仕事ぶりだった。

インドネシアチームは、医療団としては一番最長期間の活動となった。
Usman ウスマン医師、Adhi アディ医師ともに麻酔科が本業とのことだが、活動開始後目を見張る仕事ぶりで、1日150人を超える多数の患者が詰めかけた日も彼らの手早い診療活動のおかげで非常にスムーズに短時間で見終えることができたことは特筆される。

また日を追うごとにウルドゥ語・シンド語を駆使されるようになり、簡単な症状なら通訳なしでテキパキと診断・処方されていたことも印象的だ。

Kadir カディル看護師は口数が少なく寡黙な印象だが、多くの患者への配布が予想されるビタミン錠は、錠剤を入れた袋をあらかじめ何袋も用意しておいたりするなど的確な準備・判断が冴えていた。

バングラデシュチームが合流して以降、2チーム運用での活動だったが、全く問題なくそれぞれが協力的機動的に活動を展開することができたと思う。

2国チームのみなさんを見送って、残った日本人チームが宿舎を出発。
Sujawal スジャーワルで本日も Areem アリームさんをピックアップして。
今日の目的地Akber Mughal アクバル・ムガルは、Sujawal – Jati Roadから横道に入った奥の集落。

しかし、洪水発生から1ヶ月半以上たった今も村への唯一の道は冠水したまま。その道を先導の村人の後について進む。
(進む様子の動画はこのページの最初で紹介)

村では小学校の教室をお借りして本日の医療活動を開始。

動画:2010年10月07日撮影 診療キャンプを置いた学校にて

教室にあった国旗掲揚棒にAMDA旗をつけさせてもらって掲揚させていただく。この日は風が強く一日中旗はたなびいていた。

H村医師、Y田医師、M本看護師の体制
11:00~16:30 120人の方の診察を行うことができた。

活動終了後、最終日に備えて医薬品チェックをしたところ
必須な数種類の医薬品(咳止め用シロップ、点耳薬など)が足りないことが判明。
この段階で手持ちのパキスタンルピーがあまりなく、両替がタッタ市内ではできないこともあり、
いろいろ相談・考慮した上で、NRSPタッタ事務所が持っている医薬品を分けていただけないか交渉することに。

ちょうどこの日、Badin バディンからMustafa ムスタファ地域ディレクターが戻って来られていたので、
当方の医薬品に関する窮状と支援をお願いしたところ快諾。
必要とする医薬品のうちいくつかの種類について調達することができた。
(また、明日最終日夜の夕食をムスタファさんが招待してくださるとのお話をいただいた)

また、足りない医薬品についてはタッタ市内のお店を先生方に回っていただき、必要数を調達。手持ちのギリギリのルピーで支払うことができた。(お店側はディスカウントまでしてくださった。感謝)

こうしてみなさんに支えられて明日の最終日の活動を万全の準備で迎えることができた。

2010年10月08日(金曜日):最後の医療キャンプ

今日は、これまで通勤に問題(遠距離通勤のため遅れることが多かった)Abda アブダ通訳も8時過ぎに宿舎着。Nazir ナジール通訳も9時前には宿舎まで到着。予定していた9時までに宿舎を出発することができた。
Sujawal スジャーワルで Areem アリームさんをピックアップして、Sujawal – Jati Roadを進む。

当初予定していた村には昨日他の医療チームが入っていたとのことで、本日最終日はJati ジャーティの町に向かって奥へ奥へと車を走らせた。
結局、今日は今回のパキスタン医療救援活動全日程の中で宿舎からは一番遠く、最もインドにも近く、医療支援が必要とされる地域での活動となった。

1箇所目:Haji Umer Jat ハッジ・ウマル・ジャット(Jatはカースト名)の集会所かもしくは個人宅
11:15~15:00 61人の診療
(金曜礼拝で休憩が長引いたこと、女性診療については細村・米田両医師が別会場まで往診したため、時間に比して診察者数が少なくなっている)
隣が茶店になっていたりで、ペプシなどのソフトドリンクを差し入れしていただいたり、扇風機をそばに置いて風を送ってくださるなど、いままでにない配慮のある会場となった。

なお、この地ではNRSPタッタ事務所から食糧配布の事前調査チームが展開していて、顔なじみの職員さんとも親しくお話をさせていただく場面もあった。

2箇所目:Memoon Mallah メモーン・マッラーの路上(その奥地は道路整備中で大きな砂利が敷いたままで、その先に進むことが難しい)
15:30~16:45 54人の診察

動画:2010年10月08日撮影 今回の最後の医療キャンプ地

2箇所目は一転して、多くの人々が詰めかけ、整理することもままならないままの混雑の中、しかも屋外の道路上での医療活動となった。
机も椅子も満足になく、先生方には立ったままか、チャールパーイと呼ばれるベッドに座って診察いただくというご苦労をおかけした。

先生方のまわりには診療を求める人、様子を見守る村人が多数ひしめき合い、集中力を維持することが非常に困難な状況下、努めて冷静に的確な診療を行う姿勢を先生方から強く感じた。

M本看護師にも、まわりに多くの関係ない村人がいるなかで薬の処方を行っていただく不便をおかけしたが、大きな混乱は起こることなく、必要とされるすべての方への医療活動を短時間で的確に行うことができた。

先生方に多大なご苦労をいただいたが、無事診療活動は終了。とても疲れた一日だったが、行けるところまで足を運んで、それぞれがベストを尽くしての活動はきっと深い充実感を得られたことと思われる。

夜はタッタ事務所内で、Mustafa ムスタファ地域ディレクターの招待による夕食をいただく。
また、このあと、私ども4人にシンド州伝統の羽織り布をプレゼントしていただいた。

Mustafa ムスタファさんから医師に羽織り布を贈呈

また、シンド州のテレビ局KTNが取材に訪れ、私どもの活動についての取材、それと私へのインタビュー(ウルドゥ語)をしていった。
(10月09日土曜日夜に放送されたとのこと。どう編集放映されたかは不明。)

Ayaz アヤーズさんにインタビューする、シンド州のTV局KTNクルー

2010年10月09日(土曜日)

先生方には深夜、というより明け方までデータの分析、まとめの作業をしてくださる。大変に感謝。

朝までに

・今回の活動の記録(動画・写真)
・参加者氏名、活動期間(ワード文書)
・1枚1枚のカルテからデータを拾い上げてくださり作られたデータ一覧(エクセル文書)
・それを視覚的に分かりやすく構成したプレゼン文書(パワーポイント文書)
を同梱したDVDを、

・Mustafa ムスタファNRSP地域ディレクター
・Ayaz アヤーズNRSPタッタ事務所長
・Masood マスードUPAP代表
あてに3枚作成。

朝9:30に事務所着。いらっしゃったMustafa ムスタファ地域ディレクターに今回の活動終了の報告ならびに診察した患者の疾病内容についてご報告させていただく。

動画:2010年10月09日撮影 AMDA医師団から報告させていただいている様子

AMDAのパキスタン水害救援にかかわるER(緊急医療活動)

南部Sindh シンド州 Thatta タッタ県
9月17日~10月09日までの間で、19日間 のべ26箇所で医療活動
診療患者数 2515名
医師7名、看護師・看護助手4名、調整員3名 計14名
所見:
15歳未満では風邪(32%)、皮膚疾患(15%)、耳鼻科疾患(14%)、下痢(8%)、肺炎(6%)、栄養失調・貧血(5%)。15歳以上は、慢性疾患(28%)、胃炎(17%)、皮膚疾患(11%)、風邪(10%)など。下痢は北部に比して少なくマラリアは非常に少なかった。胃炎、全身倦怠感、疲労など精神的、身体的ストレスを訴える患者も多く見られた。

北部KPK ハイバール・パフトンハー州 Nowshera ノウシェラ県
9月2日~9月30日まで(途中イード休みをはさむ)活動
診療患者数 2464名
医師4名、看護師2名 計6名
所見:
当初懸念されていたコレラやマラリアの流行はない。
主な疾患は下痢(22%)、急性呼吸器感染症・耳鼻疾患(21%)、皮膚疾患(15%)、眼の疾患(12%)、マラリア(6%)

Mustafa ムスタファさんが非常に興味深くデータ内容をご覧になっている様子が印象的だった。

しばらく事務所で過ごしたあと、Ayaz アヤーズ・タッタ事務所長にも同様に贈呈させていただく。
Ayazさん「みなさんには大きな活躍をしていただき本当に感謝しています」とのお言葉をいただく。

残った医薬品については、リストを作成してMustafaさんに提出。「私どものほうで活用させていただきます」ということでそのまま託させていただく。

いったん宿舎にもどり、荷物の整理。
タッタ事務所事務長のMirchoo ミルチューさんがおいでになったので、私どもが今回の活動中に買い求めた生活用品などについて引継ぎをする。
宿舎内に掲示していた地図、日程表などは、翌週この同じ宿舎を使って活動を予定しているシンガポールのNGOへの引継ぎのつもりで置いていくことにした(このまま残っているか本当のところ保証はないけれどできれば引き継いで欲しいな)

今回宿舎に掲示していた現地地図や日程表・動向表など

12:00すぎ、タッタの宿舎発。
14:30すぎ、カラチ・UPAP事務所着。Zahool ザフールさん、それに11日まで延泊予定のHaque ハク先生(バングラデシュ)に歓迎していただいて昼食。

そのあと、薬代金の支払いのために移動。
これまで私とは電話だけでのお付き合いだった店主のMujeeb ムジーブさんだったが、とても物腰が柔らかく好人物。
支払いも無事済ませることができた。

時間が迫っていたが、街中での両替、ならびにクリフトンビーチでのラクダ・馬のり体験まで楽しむことができ、いったんUPAP事務所まで戻ってハク先生とお別れのあいさつをしたあとに空港へ。

空港には20:00すぎの到着だったが、チェックイン・イミグレともに非常にスムーズに進む。
H村医師、M本看護師、わたしはドバイ行きエミレーツにて
Y田医師はバンコク行きタイ国際航空にて
それぞれ予定通り出国。
帰国後それぞれ本部に帰着の連絡有り。

2010年10月10日(日曜日):関西空港着

夕方定刻で関西空港に到着。蚊に刺されまくったひと月だったが、下痢・発熱なし。
でも眠い。無茶苦茶眠い。睡眠時間は毎日2時間~4時間くらいだったし。
飛行機の中でも9割方寝まくっていた。
あさって12日(火)にAMDA本部のある岡山に行く。13日(水)に記者会見予定。

2010年10月12日(火曜日)~13日(水曜日):岡山で記者会見・残務整理

調整員としての諸報告(会計報告含む)と記者会見のため、岡山市内のAMDA本部へ。

AMDA本部

岡山駅西口から歩いて20分くらいのところにある。今年6月に現在地に引越しされたそうで、リフォームされた内装はとてもきれいだった。

特定非営利法人AMDA(アムダ)と控えめな表示。

13日(水曜日)午前に報道関係者の方への記者会見があり、早速その日の夕方に民放の山陽放送 http://www.rsk.co.jp/、岡山放送 http://www.ohk.co.jp/news/ のニュースで私の撮影した動画を織りまぜて報道してくださった。
翌朝には、毎日新聞(岡山版)、朝日新聞、山陽新聞にも掲載していただく。

夜は菅波代表、職員のみなさまと食事。いろいろなお話をお聞きしとても勉強に、また明日への活力にさせていただくことができた。
ご縁って不思議、でもいいご縁をいただいたと思う。夜遅くに西宮帰着。(了)

1.渡航に向けて | 2.GNJPさまと | 3.AMDAさまと


パキスタン大水害救援活動(2010年)2:グッドネーバーズ・ジャパン(GNJP)さんと

1.渡航に向けて | 2.GNJPさまと | 3.AMDAさまと

初稿:2010年9月13日 更新:2018年5月21日(章立て、再構成)

はじめに

2010年9月1日(水) – 2010年9月10日(金)の間、グッドネーバーズ・ジャパン(GNJP) http://www.gnjp.org/ の被災地救援活動のお手伝いをさせていただきました。この記事ではその活動の記録を綴ります。

活動地 Khyber Pukhtoonkhwa ハイバル・パフトゥンハー州(略称KP、旧北西辺境州) Nowshera ノウシェラ郡 Risalpur リサルプール市

協力隊平成15年度1次隊同期のAさん(ニカラグア・薬剤師)が国際緊急援助隊の活動でパキスタンに来られました。

緊急援助隊でのご活動のようす(ブログ)
http://j-diario.blogspot.jp/2010/

被災地の子どもたちの笑顔

今回の北部パキスタンでの救援活動中で、私がたびたび実感したこと。
それは、大水害で多くの被害を受けたけれども、子どもたちは変わらず強く明るく元気に暮らしているということだ。

動画:Risalpur リサルプールのテント村の子どもたち(2010年9月10日金曜日)

このテント村には、Pashto パシュトン人の方たちが暮らしている。
前日9月9日の日没で、KPK(カイバール・パフトゥンハー州)のラマダーンは明けて、EID イードを迎えた。パキスタンのお正月初日がこの日だった。

新しい服(寄付される)、おもちゃ、装飾品、香水、メヘンディを身にまとう子どもたち。
部族慣習の強いパシュトン人たちだが、大人たちは私たちに対して大変慇懃に接してくれるし、子どもたちは、この映像に出てくるくらいまでの子たちは男女の壁はなく、無邪気な子ども同士の遊びを楽しんでいる。

一緒に言っている「Pakistan Zindabad パーキスターン ジンダーバード(パキスタン万歳)」は、パキスタンのどの場所に言ってもみんながこの掛け声ひとつで盛り上がれるという超有名なフレーズだ。


この写真の子どもたちの笑顔には何の混じりっけもない。
好奇心旺盛で無邪気な笑顔に救われる思い。

動画:リサルプールのクリスチャン避難キャンプの子どもたち(2010年09月07日火曜日)

こちらは、↑のキャンプから程近いところにある、クリスチャンの学校内のキャンプで子どもたちと「Jeevay Jeevay Pakistan ジーヴェイ・ジーヴェイ・パーキスターン(パキスタンよ永久に)」という曲を歌っている時の様子。

こうした Milli Namma ミッリーナッマ(国民愛唱歌)と呼ばれる曲や国歌、パーキスターン・ジンダーバードのような掛け声は、パキスタンのどの場所・どの民族・どの宗教の人もよく知っている。

子どもたちにとっては、国・民族・宗教・テロ・ターリバーンがどうとかこうとかは関係がない。
楽しいもの、興味のあるものには、目を輝かせてそのまなざしを向け、一緒に笑い・遊ぶ。
パキスタンでは、人口増加率が著しい。人口増加は世界の問題であるが、反面、街は子どもたちや若い人達でにぎやかで社会に活力があることを肌身に感じる。
そうした実相が伝わりにくくなっている今の報道のあり方は残念に思うことがある。

イスラマバード到着:2010年9月1日(水曜日)

未明の関空発フライトで朝方バンコク着。
12時間以上次便待ちになるので、カオサンまで出てきて思いっきりマッサージしてもらう。
足に1時間、タイ式1時間の2時間、400BHTほど。

夕方、空港にもどりチェックイン。
背中に「SRC PB」とインドネシア国旗を胸、帽子につけた一団が。

Satuan Reaksi Cepat Penanggulangan Bencana
災害緊急援助隊 Rapid Reaction Unit for Disaster Management のみなさんらしい。
他に国際機関の欧米人、日本人、大多数がパキスタン人。
あと10日ほどで EID イードなので、故郷で過ごそうと帰省中の海外在住パキスタン人も多いようだ。

待合室で仲良くなったのが、オーストラリアに住んでいるという、アボタバード出身の若い青年。
留学でオーストラリアに行き、そこで仕事をみつけて住み始めた。
2年ぶりに故郷へ1ヶ月の予定で帰るんだという。
家系がパシュトン系だということで色白だが、穏やかな人柄だ。
座席の背中越しには、セーブ・ザ・チルドレンの仕事をしているという子連れのアメリカ人女性が、先程のインドネシア人援助隊の方たちと話している。
このインドネシアの方も Nowshera ノウシェラに入られるそうだ。

で、アボタバードの青年越しに座っている日本人のお若い男性の方とお話をすると、4日ほどの日程でイスラマ・ピンディに観光で滞在においでになるのだという。宿の予約もされていないということなので、イスラマバード空港に着いたおり、もし良ければご一緒においでになりますか?とお誘いする。

30分遅れてバンコクを離陸。2-4-2 のシートパターンを持つエアバス?機は9割方埋まった搭乗率。
大きな揺れもなく22時半(日本時間は4時間足して、2日午前2時半)にイスラマバード空港着。

情報で、水害援助にあたる外国人はアライバルビザが取れると書いていたが、イミグレの一番右の外国人専用ブースの上に、Respectable Foreign Donor という張り紙がしていたので、本当にそういう対応をしているのかも知れない。

イミグレを済ませると、先程の日本人男性さんが、そばにある両替ブースに行っていたので私も5000円ほど両替してもらう。(都市部ならパキスタンでは日本円両替できます)
空港の両替はレートが悪いはずだが、それでも 10000JPY=9600PKR になっていた、ほぼ1ルピー=1円。円高ルピー安が更に進んでいる。

荷物もピックアップ、その荷物を検査機にかけるのも終えて(パキスタンでは到着しピックアップした荷物をX線にかけないといけない・・・たった1台でやろうとするから、すぐつかえて大渋滞する。詳しくチェックできないだろうし、無駄なセクションだと思う)、エントランスへ出ると出迎えに来たすごい数のパキスタン人たちが。
2003年7月に協力隊で赴任した時のような、日本にはない独特な香りに包まれた記憶と同じ匂いだ。

で、分かりやすい場所に数人の韓国の方とパキスタンの人たちが。
グッドネーバーズ・パキスタン事務所長のソンさんたちだ。大変にこやかな表情で歓迎してくださる。
・・・と、私、今回のイスラマ到着時にもうひとつ大切な仕事がある。
それは、後輩協力隊員さんにあたる Nさんの旦那さん(フンザ人)の兄弟に託されたパソコンとカメラをお渡しすること。やっぱり日本で買う製品が人気あるし信頼できますし。
でも、すごい人だかりでなかなか見つからず、その間にソンさんとお話する。

ソンさんはパキスタン在住15年。驚いた。ウルドゥ語が大変流暢だ。

以前は別組織にいらっしゃったそうだが、2005年の大地震以降グッドネーバーズさんとご一緒されているとのこと。
アボタバードに事務所があるほか、 Haripur ハリプールに職業訓練センターを設置して活動されているそうだ。

出迎えに来てくださっているとき、よく着こなされたシンプルなシャルワールカミーズ(民族服)のいで立ちだったが、普段からシャルカミで過ごされているという。パキスタンでの生活をよくご理解されていると思う。

そうしていたら、お目当てのアンゲーズさんとお会いできた。
ずっと長いこと待っていてくださっていて、あらかじめNさんにお願いしていた「T○○○」の私の名前の紙もお持ちだった。

関空から機内持ち込みで運んできたから、絶対壊れていない・・はずのパソコン・デジカメをお渡しする。あーよかった。で、先程の日本人男性さんに、このアンゲーズさん、フンザの人でとても信頼できるから、もし良ければ彼にラーワルピンディのホテルに連れて行ってもらったらいいですよ、とオススメする。

アンゲーズさんも、それはいいね!と、コミッティーチョークそばにあるフンザ系のホテルに友達価格で泊まれるよう言ってあげるよ!と勧めてくださる。
私たち日本人といるより、折角のパキスタン旅行、
ローカル、しかも安心感フレンドリー感日本人との相性の良さ感ではピカイチのフンザの人と過ごすのがなにより楽しいですから~とお二人を送り出した。
(あとで、アンゲーズさんから電話で「彼の滞在中、あちこち回ってあげることにしたよ」と報告が。そう、パキスタンの楽しさはこういうとこなんだよなぁ)

ソンさんは大型のハイエースで来てくださっていた。自分で運転されている。
英語での会話もいいが、ウルドゥで会話するのがパキスタンらしくていい。
私たち協力隊員とおなじ職場に、韓国の協力隊(KOV)の方が居ててとても仲良くさせてもらっていた。

韓国のボランティア(KOV:韓国海外奉仕団)
/2004-10-11-kov.html

日本語、ハングルがお互いに分からないので、ウルドゥ語に英語の単語をまぜて会話していたものだ。
日本・韓国のボランティア同士で結婚したケースもあり、異国の地で協力しあって生活していた・・・そういう記憶がソンさんとウルドゥ語で会話をしているとよみがえる。

ソンさんが予約をしてくださっていた、イスラマバードのゲストハウスに到着。
本当に偶然だけれど、昨年12月に私がイスラマバードに来たとき泊まっていたゲストハウスの2軒となりだ。
今回泊まるこのゲストハウスもつながりにくいがWifiがあって、こうやってブログを更新できる。

ソンさんのお考えは、明日、というか、今日2日(木)にNowsheraに行って、物資配布可能な場所をリサーチするということだ。
グッドネーバーズさんは韓国、日本からそれぞれ資金の提供を受けていて、こちらで購入・配布の計画だ。
購入関係ではすでにリサーチされていて、格安で買えるお店は見つけていらっしゃるとのこと。

日本を発つ前にずっとお世話になっていたベーグさんと電話ができた。
TV局クルーのみなさんのアテンドが終わると、今日2日はお時間があるようだ。
現地の情報、車の手配等、いろいろご相談させていただくことにする。

ノウシェラ(Nowshera)初訪問:2010年9月2日(木曜日)

Nowshera ノウシェラ市街の家で被災の様子を見せていただく

Nowshera ノウシェラ郡にて被災した方に水害の様子をお聞きする。

動画中、お父さんの証言
河が氾濫し始めたのが、日中の12時半、私たちの家に水が押し寄せてきたのが午後3時15分頃だった。

チャシュマ(泉)のように水があちこちから湧いてくるような、そんな水の出方で一気に周り全部が水に漬かっていった。

子どもたちが歩くこともできないような水のかさになるところ、私は子どもたちを抱えてチンチ(Qinqki:乗合バイク)まで連れていった。


その最中、ほら足をみてごらん、こんなふうにケガをして化膿しているだろ。
家にあった家具は嫁入り道具もみなだめになった。

この建物(の呼び名)はUsman Buildingと言います。

朝食をとり、09:30にイスラマバードの宿舎を出発。ソンさん(GNPK所長)の自家用車で、ソンさん自らが車を運転して Nowshera ノウシェラに向かう。

高速道路、GTロード(一般道)を使い、12:00すぎにNowshera ノウシェラ郡に到着。ここでソンさんは携帯電話で連絡をとりながら、知人と会う場所を相談。
12:30すぎ、 Risalpur リサルプール市に到着。市内の軍の駐屯地そばにあるクリニックに到着。

このクリニックのドクターをソンさんの車に乗せて、ノウシェラ市街から程近い、テントキャンプを訪問する。


UMMAH http://www.ummah.net/ イスラームの同胞組織からの援助で設置されたテント村。でも半数はキリスト教徒、半数がムスリムの構成になっている。(2010年9月2日)

ここで被害に遭われた家を順番に見て回り、被害状況を把握する。


ここには数軒の家が入居していたが、洪水によって完全に破壊された。
人々は着のみ着のままで逃げるのがやっとで、全ての家財道具は流されたか泥と瓦礫の下にある。


↑の写真の建物の中に入ってみる。完全に屋根や壁が崩落し原形をとどめていない。


建物は見た目が大丈夫でも、中は水に浸かり、泥が堆積していて、住むことができなくなっている。

洪水の襲った地域では、電気水道ガスなどの基本インフラがダメになっている。中でも清潔な水を確保できるかどうかが、感染症予防では重要となる。このキャンプではこのような据え置き式の水タンクが置かれていた。
一応水は確保出来ているが、どこから取水した水かわからないし、炎天下むき出しでタンクが置かれているから100%安全な水だとは言えない。

このキャンプで皆が言うのが「洪水が襲ってきたあと、はえがものすごく発生して困る」というものだった。

キャンプで聞き取り調査をする、パキスタン事務所のソン所長(右から2人目)。とても流暢なウルドゥ語でお話になるし、民族服のシャルカミを自然に着こなしている。

テント、水タンクこそ設置されたが、メチャクチャになった家の中は手がつけられる状態ではない。この地域の家はパキスタンでは一般的なレンガ積み&モルタルorコンクリート塗りの建物が多い。そして鉄筋などは入っていないか、日本の感覚に比べてひどく少ないので、こうした洪水にももろい。

水の通り道になったところは壁が崩落するし、仮に崩落していなくとも、とても弱くなっているので、そうした場所からモノを取り出そうとするとその振動衝撃で崩落する恐れがあるから手がつけられない。

ソンさんの車のエンジンの調子が悪く、Nowshera ノウシェラ市街の町工場に立ち寄って修理ができるか尋ねた時の写真。
右がソンさんの車だが、その車の天井から1mほどの高さの壁に色のついた線が見える。洪水がこの印の高さまで上がったという痕である。この撮影場所は、通常の水面より10m近く高いところにあるので、洪水の威力の凄さがわかる。

ソンさんの車の真向かい、向かって左側の2階建ての建物の1階に町工場が入っていて、旋盤など水に浸かった機械類の修理清掃がようやく終わって試運転をしているところだった。


Nowshera ノウシェラからの帰路、カブール川を左に見ながら。訪れたとき、水はひいていたが、その爪痕が土のひび割れなどに窺うことができた。

Risalpur リサルプールのクリニックのドクター、↑のインタビューで協力してくださったお父さんに車に同乗してもらって、車の修理ができるところはないかNowshera ノウシェラ市内を回った。

表通りだけでなく、裏通り、地元の人しか分からないところを移動したが、いずれも市民の人たちは落ち着いた生活をしているように見受けられた。
建物も、ある程度しっかりした造りなら破壊されていないようだが、床上、1階が完全に水に浸かる被害を受けている家屋が大半で、家財道具、商売道具への被害は深刻なものがあると見受けられた。

今回、グッドネーバーズ韓国、日本それぞれから資金援助がパキスタンの事務所口座に寄せられている。
ソンさん、彼の友人たちで手分けして調査し、主にクリスチャンなどパキスタンではマイノリティにあたる被災者への支援をされたいお気持ちがとても強いように感じられた。

目下、ラーワルピンディの工場に
ベッド用マットレス、枕、夏冬用それぞれの布団、毛布を1200組発注している。
それが出来上がるのが来週火曜日(9月7日)または水曜日(9月8日)だという。

それを順次調査した場所にトラックなどで運び、配布をするという計画だ。

おそらく、9月10日頃、EID イード(断食月明けのイスラームの大きなお祭り)があるので、そこが活動のひとつの区切りになるが、その前に確実に配布できるところを特定してボランティアの人たちと手分けして活動したいというのがソンさんのお考えだった。
こうした仕事をソンさんお一人でやることは難しい。1200組もの生活物資ユニットの配布は簡単なことではないので、私も知りうるパキスタン人とのコネクションをソンさんにご紹介して活用していただければと思っている。

夜、宿舎に、ベーグさんhttp://www.pakistan.jp/ が来てくださる。同じ日の未明まで、日本のTV局の水害取材のコーディネート一切を担当され、パンジャーブ州南部、Multan ムルターンを中心にして動かれていた。
とてもハードなお仕事だったから、お疲れもまだ完全にとれていらっしゃらないご様子だったが、ベーグさんがご覧になったパンジャーブ南部の様子、私たちが見てきた Nowshera ノウシェラの様子の情報を交換しながら、種々お話をいただく。

ベーグさんが取材に訪れた地域はいずれも、水害の被害が甚大だった。町中すべてが水に浸かり、ヘリコプターで物資を輸送しても、着陸できる場所がないので物資を投げ下ろすしかないような場所だらけであったという。

感染症、まず目につくのが、結膜炎の大流行で、みな目を真っ赤にしていたという。

ソンさんがベーグさんと会うのはこれが初めてだが、ソンさんは今回の被災地を回って感じられているクリスチャンへの方たちへの意識から、ベーグさんはご自身の宗派であるイスマイリー派の立場への意識から、それぞれパキスタンにおけるマイノリティーの人たちへの支援が後回しになっているのではという危機感を強くもっていらっしゃると感じた。

そして最も注意を払わなければならないこととして、支援物資の配布だとベーグさんは挙げていて、ソンさんも深く同意していた。
例えば、無制限に物資を配布するようだと、バイクや携帯電話で連絡をとりながら、情報を集める、支援物資かすみとりマフィアのような人たちがいて、連絡しながら配布場所配布場所で被災者を装ってモノをもらうことを繰り返すといったようなことだ。

ソンさんもそこはとても考えるところだ、と言い、ラーワルピンディの工場からそれぞれ目的地限定で必要な物資を積み、その配布場所にダイレクトに届けようと考えていらっしゃる。
配布が大げさなものにならず、確実に届けたいと思う人のところへ・・・というのが、支援物資配給にあたる人たちの大きな課題であろう。

イスラマバード・元同僚さん宅へ:2010年9月3日(金曜日)

夜半過ぎから雷を交えた激しい雨が降る。朝方には上がり、暑いけれど爽やかな風がそよいでくる。
ずいぶんと過ごしやすくなった感じだ。
昨日は昼間食事をする余裕もなく(フィールドに出ているときは、断食月中だし難しい)、かなりクタクタの状態で帰ってきたので、朝までまどろんだり寝たりを繰り返した。
朝食はソンさんとご一緒に。食事をしながら、今日の活動予定や世間話などをして過ごす。

08:30 宿舎発。ブルーエリアにあるCITI BANKにソンさんがご用事があるのでそれについていく。
昨年末来た時も感じた重要施設のバリケード化がここでも進んでいて、車止めや金属探知機つきのチェックポイント、ショットガンを持った警備員が10人近く常駐して目を光らせていた。
しばらく時間があったので、同じ並びにあるOxford オックスフォード大出版のお店に行き、Sindhi シンド語-英語の辞典があったので購入。初心者用と銘打ってあったが、値段はわずか160ルピー(160円)という安さ。いい買い物ができた。

小1時間してソンさんが所用をすませて戻ってくる。
それから、車を走らせてイスラマバード市内の、ソンさんのご友人のお宅に伺う。ソンさんは15年パキスタンに住んでいるが、今日お会いした方は16年住んでいらっしゃるという。それほど長くパキスタンで暮らす外国人を余りしらないから驚いた。
そちらでの用事を済ませて、今度は私の都合でブルーエリアの両替商の多いエリアに行ってもらう。
数軒回って良いレートのところ・・・と3軒ほどまわったが、
2009年12月 10000円→9400ルピー
2010年09月 10000円→9900ルピー
とさらに円高ルピー安になっていた。このままだと10000円→10000ルピーの大台は時間の問題だろう。


両替をしたときの計算書・証明書。もしルピー→円に再両替したいときは、この紙が必要になる。

昼食はイスラマバード市内にある韓国料理レストランで。
ここには協力隊員時代たびたび足を運んだ。ここの女主人も変わらずお元気。
昨年末来たとき、10数名の韓国ボランティア(韓国海外奉仕団:KOV)さんがいるとお聞きしていたが、先月8月に全員パキスタンを退去されたとのこと。残念なことだけれど仕方がないこともよくわかる。

食事をいただいたあと、少し宿舎で休む。

14:30 宿舎から近いところに住んでいる、もとカウンターパート(協力隊員の活動先での同僚)のSeemi シーミーさん宅にソンさんと一緒に伺う。

ムルフン村案件が8月に行われると決まった7月頃にシーミーさんのところに電話をした。
ところが「この電話は使われておりません」という案内が。
知っている全部の家電・携帯にかけたけれども全部同様。

これは何かあったなと思って、Facebookでつながりのある他の同僚に聞くと
” She is out of country ”
という返事が帰ってきた。

あーこれは、海外に移住されたかな・・・と思っていたが、朝、念のためにシーミーさんの携帯に電話をかけると普通につながった。

シーミーさん、旦那さんの Hashimi ハシミさんそれぞれのご両親はデリー近郊のご出身、パキスタン建国時カラチに移住してきた Muhajir ムハージルと呼ばれる方たちの子どものお二人はきれいなウルドゥ語を話されるネイティブ・ウルドゥ話者だ。
そんな訳で、パキスタンに住みつつも親戚はインドに住んでいるのでたびたび行き来するし、欧米などへのご旅行もよくされる。で、ムスリムではあるけれど、インドでお会いする方のようにオープンで気さくなご一家だ。

そのシーミーさんにはお嬢さんが3人いるが、みんなアメリカ・カナダに嫁ぐか大学で勉強している。

シーミーさんの職場の学校が夏休み・水害の影響よる臨時休校で長くクローズされているので、その間3ヶ月間、カナダ・アメリカの娘さんのところを訪れていたのだという。
で、イスラマバードに戻ってきたのがつい3日前というタイミング。いや~良かった、会えて。

ラマダーン中は、ムスリムの人の前で食べ飲みはご法度のような雰囲気がパキスタンにはあるが、こちらの家に来ると断食中であろうと紅茶やお菓子やフルーツが出てくる。
私もそういうときは遠慮しないで食べるので、ガツガツしているのをニコニコしながらシーミーさんが見ている、そんな雰囲気だ。

そうしていると、旦那さんのHashimi ハシミさんが金曜午後の礼拝から帰ってきた。
ハシミさんはイスラマバードで物流・貿易通関事務扱の仕事をしている。
ソンさんがこれからの水害救援計画について話すと、「もしよければ、うちの会社の方でトラックとか手配できるし、海外から救援物資が来るのなら税関での手続きがスムーズになるように手伝えるよ」と申し出てくださる。

何か人肌脱ぐようなことになれば、太っ腹になるのがパキスタン人の気質。
もし、そういうことになればぜひご助力おねがいします、とソンさん。
こういう繋がりの間を取り持てるいい機会にもなって良かった良かった。


娘さんの写真をうれしそうにソンさんに紹介するシーミーさん

楽しい時間を過ごさせていただいたあとに、ソンさんとスーパルマルケット(イスラマバード市内有数のショッピングエリア。スーパーマーケットがインド英語なまりになっている)に出かける。
地図を買うためだ。
グッドネーバーズさんとの活動が終わってすぐに、別のNGOさんとご一緒に活動をさせていただく予定がある。
その活動先に想定されている場所の地図を買いに来たのだ。

イスラマバードで有名な書店
Mr.Books ミスターブックス (スーパルマルケット F6エリア)
London Books ロンドンブックス (コサールマルケット F6エリア)
Saeed Books サイードブックス (ジナースーパル F7エリア)

があって、特に上2つの書店にはパキスタンのDistrict ディストリクト(郡)単位の地図が置いてある。

Mr.Booksに行ってみると、ちょうどEid(イード)前で、日本の年賀状にあたるEid Cardが特別販売されていた。

このMr.Booksの店員は親切で、探している地域の名前を言うとずっとひとつひとつ表示を見ながら地図を探してくれた。
ひとつだけ見つからなかった地域図はあったけれど、大概のお目当ての地図は買えたので満足する。


どれも1部100ルピー~200ルピー(100円~200円)。

その後、映画DVD、パソコンソフトなどを買い、F7ジナースーパルのそばにある中国料理店へ。
ベーグさんが薦めてくれたお店だが、ありえない量の空芯菜が出てきたり、本場の辛いマーボ豆腐が食べられたり、と堪能させていただいた。

夜、バンコク経由でイスラマバードにK事務局長さんが到着。
わざわざベーグさんが運転してくださる車でイスラマバードの宿舎までお連れする。

Saaya(障害当事者団体)の方とリサルプール Risalpurへ:2010年9月4日(土曜日)

今朝も6時過ぎから雨が降ったが、1時間ほどで止み、爽やかな風がそよいでいた。

ここ数日は朝方に雨が降り、しのぎやすいイスラマバードだ。

朝食時、パキスタン事務所長のソンさん、日本のK事務局長さんたちと種々打ち合わせ。
朝食後、お願いしていた09:00よりも早く、08:40過ぎにベーグさんの会社 http://www.pakistan.jp/ にお願いしていた車・ドライバーさんが到着。 Shah Faisal シャー・ファイサルさんと言い、Passu パスーご出身のフンザ人。ゴジャール地方の研究を長年にわたってされている、日本大学・水嶋一雄先生の現地ガイドをされていて、その思い出話を話してくださる。

ソンさんがサンプルとして預かってきたマットレスなどを見せていただいたり、画像・動画のデータをシェアさせていただいたりしたあと、09:30前に宿舎を出発。
10:00前、I-10エリアにある、障害者団体 Saaya Association サーヤ(Shade,カバー、護るの意)協会を訪問。

Saaya Associationhttp://www.saayaassociation.com/

昨日(9月3日金曜日)、ソンさんと夕食を食べているときに、Saaya代表の Mian Asim Zafar アシムさんから電話が。

「明日(9月4日土曜日)、私たちは Nowshera ノウシェラに行って、障害者の方のところに車いすや食糧・衣類・生活道具を届ける予定です。もしご都合が良ければご一緒しませんか?」
という内容だった。

そのことを、ソンさん、K事務局長さんにご相談すると、それはいいねと賛成してくださった。
それで、今日は彼らの事務所に伺うことに。

Saayaさんには、昨年末イスラマバードを訪問したときに伺って以来、Facebookなどでお付き合いを続けさせていただいている。代表のAsim アシムさんは、もとは別の障害者団体の代表をされたこともあったが、新たに団体を興し、学生さんを中心にたくさんのメンバーをリクルートしている。

つい先日引越されたという新事務所は、I10マルカズ(市場)の真ん前にあった。


事務所で、アシムさん(車いすの方)からお話をお聞きするソンさん(手前)とK事務局長

アシムさん:今回の水害でパキスタンは大きな被害を受け、たくさんの被災者が生まれました。その被災者の方たちの中でも、障害者の人は(物資を配布する場所にアクセスすることが非常に困難で)大変な状況にあると思います。
その人たちに私たちは、アクセスのための車いす、食糧、衣類、生活必需品を届けたいのです。


8月20日に第1回目の現地訪問を行ないました。今回は2回目で、Nowshera ノウシェラ郡のキャンプに行きます。近隣のMardan マルダーン郡の障害者リーダーの方が場所の選定交渉などで動いてくださっています。

ソンさんも彼らの活動に大変関心をお持ちになり、今後も情報交換・協力をしていきたいとおっしゃっていた。


物資の積み込みの準備を手伝ってくださる、Sha Faisal ファイサルさん。今日はいろいろなところでアシストしてくださった。多謝。

11:00すぎ、アシムさんたちSaayaのメンバーの方が6~7人、K事務局長さん、わたしたちでイスラマバードを出発。ソンさんはお車の調子が悪く修理を依頼するために残られた。

おととい、9月2日木曜日に通ったときと同様、イスラマバード→Nowshera ノウシェラまで高速道路・一般道を使って向かう。今回、ノウシェラまで高速道路一本、2時間あまりかけて行ったが、避難民の方が道に出ているとか、テントを張っているとかということはなく、非常にスムーズな流れでノウシェラまで到着。
(帰り道、高速道路の入り口が不案内で、Charsadda チャールサダまで走り、そこから折り返したが、高速道路上は全く問題なくきれいで流れもスムーズだった。)

ノウシェラのランプを降り、一般道を走るとほどなく Risalpur リサルプールに到着。
おととい
9月2日木曜日に最初に訪れたクリニックの間近に、Ummahが設置したテント村があった。ざっと100家族600人程の方が住んでいるように見受けられた。パシュトン人・ムスリムの人たちのテント村だ。だから、表には女性は出てこない。男性、子どもたちが道路から見えるエリアに住み、女性たちは離れたエリアにテントのまわりを布で囲い暮らしている。

Saayaのメンバー Muhammad Bilal Rao ビラールさんに水害の被害状況を話していただく。

今回の車いす配布の協力をしてくださっている、Mardan マルダーンの障害者リーダーの方、このテント村の世話役の方に障害者の方たちを紹介していただく。
Asim アシムさんたちがひとりひとりに声をかけ、「車いすがあることで、寝たきりにならず、また大地を歩けるようになるんだよ」と説き、車いすの利用を勧めていく。

動画:車いすの使用を勧めるアシムさん

動画:生まれてはじめて車いすに乗る


足が不自由な男性に、アシムさんが車いすの使用を勧めている。


生まれて初めて車いすに乗った方たちばかり。乗り心地を確かめていらっしゃる。


この子もポリオのようで、自力で歩くことができない。アシムさんが、子ども用の車いすを持ってくることを後ろのお父さんに約束をしていた。

男性の障害者の方へお配りした車いす・生活物資などと一緒に記念撮影。
今回の訪問に際して、SamaaTV サマアテレビ(民放局) http://www.samaa.tv/ が取材に訪れていた。

男性障害者への配布を終え、続いて女性障害者への配布をするために女性居住エリアに入る。

動画:女性障害者にアシムさんが車いすを使うことを勧めている。
マルダーンの障害者リーダーさんがウルドゥ語→パシュトン語で通訳をしてくれている。

女性たちは、それぞれの家族のテントの中でひっそりと暮らしていらっしゃる。
対象になる方のテントのもとにアシムさんたちが一軒一軒まわり、障害の状態・生活の状態について尋ね、車いす・生活物資を手渡していく。

その際にこの居住区の世話人、マルダーンの障害者リーダーさんがウルドゥ語→パシュトン語の通訳をしてくださっている。
一般に、パシュトン人にとってアシムさんたちパンジャービー人はあまりいい印象を持たれないことがある(地域格差・民族間の微妙なメンタリティーの問題)。
そういう部分でのトラブルを回避すること、それにパシュトンコミュニティーの独自性(男性優位の社会、ジルガ(部族長会議)の尊重)を考慮すると、地元の方の協力は絶対に欠かせない。

一般の報道では、パシュトン人の住むKPK(ハイバール・パフトゥンハー州)はターリバン、イスラーム原理主義者が跋扈し、危険だという印象を持たれやすい。
確かに、Peshawar ペシャーワルや部族地域など近年テロ事件が相次ぎ、厳重な注意を払わなければならない地域が増えた。


キャンプにてSaayaのみなさんと。活動中はずっとシャルワールカミーズ(民族服)を着用している。

しかし、概してパシュトン人は義理や人情をとても重んじていて、礼を失さない限り、彼らはとても親切に私たちを遇してくれる。しかも、日本人に対しては非常に親近感を持っていて、接し方も丁寧だ。
今回の訪問も、シャルワールカミーズ(民族服)着用で臨んだが、それに関係なく、このキャンプの人たちは「サール(Sirのインド訛り、尊称)」と私たちを呼んでくれていた。外国人への攻撃云々はこのキャンプについていえば全く皆無だ。


車いすを勧められた女性が、試乗しているところ。少し小さいサイズだったようで、後日大きい車いすを持ってくることに。


パキスタン国民がみんな所持している身分証明書(シャナーハティ・カード)。
近年、このカードに障害者であることを証明する車いすマークが付いた。
障害年金等、公的な制度はまだ未整備だが、これも、パキスタンの当事者さんたちが運動をした成果である。今回も、支援物資配布の対象先特定の根拠になっている。


このキャンプには写真のように、大型の水タンクが設置されていた。
しかし蛇口をひねっても一滴も出てこない。
みな、援助でもらったか、復旧したお店に行って水ボトルを買うか、巡回する給水車から水をもらっているようすだ。でも、給水車はいつくるか分からないし、シャワーを浴びるとかという水の余裕はまったくない。

ファイサルさん、何度も言っていたけれど、
「ココハ、生活二必要ナ、ファシリティが足リテナイネ」
煮炊きをするコンロもないし、あっても地面に石を置いて急ごしらえのカマドを作っている程度。


私たちが来たあとに、どこかからの援助物資が届いた。
届くとなるとみんなこのようにすごい人だかりになる。
配布する先をリストアップする、それを調整するコミュニティの人がいる、ということをしないと適切な物資配布は難しいと感じる。

16:00すぎ、配布活動を終えて、私たちは帰途についた。
キャンプのそばを幹線道路が走っているが、先程車いすをもらったひとりの若い青年が、キャンプから離れたところまで、ずうっとずうっと夢中で車いすを漕いでいる姿がとても印象的だった。

18:00すぎ、イフタール(断食明けの祈り・食事)前にイスラマバードに着く。
その後、ベーグさんもかけつけてくださり、ファイサルさん、K事務局長、私の4人で、ジナースーパル(F7)にあるカーブルレストラン(アフガニスターン料理)で夕食。
串にさして炭で焼いたカブーリーティッカ、シークカバーブ、マントー、カブーリープラオー(たきこみごはん)などをいただく。メチャクチャうまい。
ベーグさんのムルターンでのお仕事の様子その他をお聞きしたりして時間があっという間に過ぎていく。

ジナースーパル内で若い青年たちが募金箱を持って水害支援の募金を募っていた。
募金・衣類寄付所などで募金箱を置いている様子はみたことがあるが、自ら募金箱を持ち歩きながら募金を募る姿は初めて見たとベーグさん。
あと5日ほどで EID イードを迎える。そろそろ故郷でイスラームのお正月を過ごそうとする人も出てきたし、マーケットにはいろいろな買い物を楽しみに来る人たちですごいラッシュになっている。

アティフさん(障害当事者団体STEP代表)宅へ:2010年9月5日(日曜日)

今日は現地に行く用事はなく、基本、宿舎で過ごす。
宿舎の2軒となりのゲストハウスを、難民を助ける会さん http://www.aarjapan.gr.jp/ が事務所兼宿舎で利用している。
難民を助ける会さんはいち早くこちらの現地に入って積極的な支援活動をされている。
http://www.aarjapan.gr.jp/activity/report/2010/0828_382.html

で、このゲストハウスの主人&息子さんとは昨年末に宿泊して以来仲良くさせてもらっている。
今日も朝10時頃伺うと、主人&息子さんが居て再会を喜び合う。
「おまえ、いつでもうちんとこに泊まりに来いよ」と言ってくれるし。
ドゥードゥパッティー(ミルクティー)をごちそうになりながら、近況をお伺いする。
やはり、水害救援活動で日本・欧米の多くの方が投宿していて、Nowshera ノウシェラだけでなく、Swat スワート、Charsadda チャールサダなど各地に数日行ってはイスラマに戻ってくるといった活動の様子らしい。

お忙しいところを恐縮だったけれど、上階にいらっしゃった難民を助ける会の日本人スタッフのお二人に下までおいで頂いてご挨拶させていただく。
連日、いろいろなご活動で動かれていて頭が下がる思い。
夕食をご一緒できそうな感じなので、再度夕方このゲストハウスに伺いご都合をお聞きすることにする。

15:00すぎ、昨日お世話になった Asim アシムさんが宿舎に娘さんと来てくださる。
昨日(9月4日土曜日) Risalpur リサルプールでアシムさんたち Saaya Association サーヤ協会の人たちが行った障害者支援活動の動画・画像を私も撮らせていただいていたので、そのデータをDVDに焼いてアシムさんに差し上げた。

アシムさんから、明日(9月6日月曜日)のイフタール・夕食のお誘いを受ける。
明日は、日本大使館訪問・両替・携帯購入・リサルプール訪問を予定しているが、それが終わって夕刻までにイスラマバードに戻ってくればアシムさんのお宅にお伺い出来そうだ。

動画:アシムさんの自家用車の乗り方&運転の仕方

アシムさんはポリオのために両足が使えない。それで両手だけで運転ができるように改造されている。

難民を助ける会のKさんから携帯に電話。
今日急用が入り食事をご一緒できないお詫びと、ついさきほど、そのアシムさんらしき人にお会いしたというお話を伺う。ま、すごい偶然。明日、よければそのアシムさん宅においでになりませんかとお誘いをする。

これで、夜時間が出来たので、障害者団体 STEP ステップhttp://www.step.org.pk/ の代表 Muhammad Atif Sheikh アティフさんと、その妹の Abia Akram アビアさんのご自宅にK事務局長とお伺いする。
宿舎からタクシーで30分ほど走らせたイスラマバード市内の閑静な住宅地にお二人とご両親、親戚が住む大きなご自宅があった。

アティフさんからSTEPの活動について話を聞く、K事務局長。左となりがアビアさん。

STEPでは、今回の水害に関しての情報・支援センターを立ち上げている。
ただ、企業等支援してくれる特定のものが現在無いために、ひろく支援を求めている状態。
ただ、アティフさん、アビアさんともに国連・国際援助機関の人には名の通った方達であるので、きっと良き支援の手は差し伸べられると思う。
今回グッドネーバーズさんの活動は、緊急支援の枠組みだが、復興活動もK事務局長のご構想の中に入ってきつつありで、もし実現すれば、アティフさん・アビアさん・アシムさん・その他の有力なリーダーのみなさんと連携協力しつつ進められればとってもいいのに・・・そう思いながらお話を聞いていた。

ノウシェラ訪問・アシムさん宅へ:2010年9月6日(月曜日)

朝食後、09:00にベーグさん http://www.pakistan.jp/ が運転してくださる車で、日本大使館へ。
国会議事堂・大統領府・首相府前の道は完全にクローズ、迂回路は大変な渋滞。それでもベーグさんはきっちり時間前に私たちを大使館まで送り届けてくださった。感謝。
大使館では安全担当の書記官さん方から現地情勢のブリーフィングを受けたり、私どもの活動について情報交換したり。大使館=日本政府としてどういう援助を被災地域にしていけばいいかご検討中の様子で、私たちが具体的にどういうモノを配るかなどをお尋ねになっていた。

10:20すぎ、大使館発。そのままブルーエリアで両替。ベーグさんお薦めのお店だったが、
10000JPY(円)=9950PKR(ルピー)
になっていた、2日に両替した時よりも更に1万円あたり50ルピーの円高ルピー安。

G9カラチカンパニーで携帯電話を購入し、G10のベーグさんの会社近くでShah Faisal ファイサルさん(愛称シャフーさん)とドライバー交代で、モータルウェー(Motor Way 高速道路)経由でNowshera ノウシェラへ。
道はクリアーで快適に走行ができる。
約2時間でNowshera ノウシェラの下り口へ。Risalpur リサルプールの市内を通り、9月2日(木)にソンさんと訪れたクリスチャンの避難キャンプを訪問。

動画:9月2日訪問時の別動画。状況は4日経ってもまったく変わっていなかった。


築50年以上の古い建物であったとのことで、数日間水に浸かっている間にレンガ積みの建物は強度を失い崩落したものと思われる。


この日も雨は降っていない。雨季が終わって乾燥しているとはいえ、日中は30度を超えている印象。
扇風機もなく蒸し風呂になるような中、テントか木陰で日差しを避けて過ごすしかない。

動画:Nowshera ノウシェラの避難キャンプのある場所の様子について説明

この運河から取水し(おそらくフィルターで濾過して)生活用水として使用するため、目の前にある軍駐屯地からポンプを借りて試運転しているようだ。
当面1ヶ月くらいは、給水車に頼ることになるのでは、と避難キャンプの方が言っていた。


キャンプのみなさんとお話。
9月2日火曜日にお伺いしたときにくらべて、救援物資は行き渡っているようで、食事・水(タンクが1つから3つに増えていた、目の前の軍駐屯地から1日2回水が給水車で運ばれてくる)・医薬品(結膜炎用の目薬などが届いているようだ)などが行き渡っている、と責任者の方が話していた。
ただ、これは「非常時のなかで」ということだから、
・テント生活自体の改善(仮設住宅とか)
・壊れた家の修理
・生活手段の保証
の部分は全く何も手がつけられていない。

キリスト教徒の方は、ムスリムと比べると男女の社会性差が開いておらず、同じ場に男女が同席することに抵抗感がない(保守色の強いムスリムなら、成人の異性を同席させることは基本的にない)。

自己紹介や帰るときなどに、私たち男性スタッフに女児だけでなく成人女性が握手をしてくることがあったりする。
キリスト教徒は公式発表で人口の97%がムスリムと言われるこの国では圧倒的にマイノリティだ。

だから、こうした非常時の支援では軍が積極的に参画するなどするが、就職・居住などいろいろな面でムスリムのそれとはことなる扱いを受けることが多々有り、差別される側にある。
だから、自然とクリスチャンのコミュニティの結束は固く濃密なものになっていく。

今日は、このキャンプを見てイスラマバードに戻った。

宿舎に戻り、イフタール前に、Asim Zafar アシムさんが車で迎えに来てくださる。
宿舎から30分ほど車を走らせた郊外のベッドタウンにアシムさんの住んでいる借家がある。
ここで奥さま、お子さん3人と暮らしていらっしゃる。


アシムさん宅でいただたイフタール。中央にある黒い粒がカジュール(なつめやし)。
このあとに食事がどぉーーーんと運ばれてきた。

着いてほどなく、18:40前後のIftar イフタールが始まる。
はじめに、カジュール(Dates:なつめやし)を食べ、それからフルーツサラダ・サモサなどを食べる。

夜の19時~翌朝4時ごろまでに食事をすべてとることになるから、普通に3度分の食事を摂ると太ってしまうことが多い。それで
アシムさん宅ではイフタールと夕食をかねていて、それから朝の食事を摂るようにされているとのこと。

子どもたちも30日間のRoza ローザ(毎日の断食)のうち、5日間挑戦したとのこと。
日本人からすると、断食の概念は理解しづらいものがあるが、アシムさん然り奥さん然り、断食をし、善きことを行うことを、パキスタンの人たちはムスリムとして誇りに思っている。

昨日のアティフさん宅といい、今日のアシムさん宅といい、パキスタンで暮らしていていいなと思うのは、こうした一般のお宅に遊びに行った時だ。
特別な娯楽はなく、ただおしゃべりして、ごはんを一緒に食べて、ドゥードゥパッティー(ミルクティー)を飲んで。
基本それだけのシンプルなものだけれど、
特に日本に帰って日が経つにつれて、こうしたシーンを懐かしく思い出すものだ。

イスラマバードの宿舎への帰りは、アシムさん・K事務局長さん・わたし・アシムさんの車いすでいっぱいなのに、さらに3人の子どもたちが後席のK事務局長さんのまわりにつめこまれた(笑)もので、すごいことに。
屈託なくおしゃべりしまくり、英語をお使いになるK事務局長に関係なくウルドゥで質問しまくるお子たちのバイタリティーに脱帽だ(笑)。

宿舎に戻り、アシムさん宅で撮らせていただいた写真をプリントしにジナースーパー(市場)に出かける。

ここにあるある写真屋さんとは隊員時代から懇意で、1枚10ルピー(10円)のデジタルプリントをいつも8ルピー(8円)の友達価格でやってくれる。
パキスタンの人たちは写真に写ること、写真をもらうことが大好きだ。
仲良くなって、写真をプリントしてあげると本当に喜んでくれる。

動画:Iftar イフタール後の買い物で賑やかなJinnah Super ジナースーパー(市場)

DVDを買ったり、シャルワールカミーズを追加購入したり。
短い時間だったけれど、ショッピングする人たちに混じって楽しい時間を過ごすことができた。
もうあと数日でイードだ。

リサルプールへ:2010年9月7日(火曜日)

いま宿泊していた宿舎のネット環境が悪すぎ(Skypeすらできない)ので、宿を替えることになった。
ベーグさん http://www.pakistan.jp/ の紹介&友達価格にしていただき、F8・アユーブマルカズ近くの閑静な住宅街の中にあるフンザの方経営のゲストハウスに移る。

部屋もグレードアップ、装飾品・調度品にフンザの刺繍や写真があったりして、気分はフンザに泊まっているような錯覚さえ覚えてしまいそう。

ベーグさんは、日本のTV局の取材に同行するため、私たちの車のドライバーをしてくださっているのは、ずぅっと、Shah Faisal シャフーさん。
新しい宿に着き、お茶を飲みながら、シャフーさんにこんなものがあるよ、紙を差し出す。

坂本九さんが歌った「見上げてごらん夜の星を」のウルドゥ語バージョン。もとはヒンディ語バージョンがあってその資料をもらったことがあり、それをウルドゥ表記になおしてみた。

フンザは夜空が素晴らしい。天の川がはっきり見えるし。その場所でこの歌歌ったら楽しいだろうなぁ。そう思ったので、ムルフン村のリンゴ案件が決まったとき小ネタで作ってた。
シャフーさん、日本語が上手だし、日本の人とお仕事もしているし、でとても興味深そうに見てくださっていた。

ひと休憩して、Risalpur リサルプールに向けて出発。
今日も晴天。朝の予報ではPeshawar ペシャーワルなど38℃ということだったので、日差しは大変厳しかったけれど、雨が降らず湿度が低いので風が吹くととても心地良い。

リサルプールに向かう途中、支援物資を積んでいるのであろうトラックと行き合うが、このように「救援物資」と書かれた横断幕を張ったトラックは、今回の水害救援に際しては非常に少ない。
なおかつ、イギリスという国名を出しての横断幕を張ることは、襲撃の対象になりかねないからオススメできないのだけれど。

車は快調に走り、2時間足らずでRisalpur リサルプールに到着。市街軍駐屯地そばにあるクリスチャンの病院にDr.Francis フランシス先生を訪ねる。

事前にソンさんから電話を入れてもらっていたので応対もスムーズにしていただき。
大変びっくりしたのは、ソンさんが発注した1200枚のマットレスのうち、半分の600枚がすでに病院に運び込まれていたことだった。残り600枚も明日(9月8日水曜日)届くという。

それに、ソンさんの助手として活動されている現地スタッフのダニエルさんが配布対象先の300家族を選定し終わっていて、そのリストアップが出来ていたことだった。


それぞれの家族の代表の身分証明書番号、男性女性の数などが詳細に記載されている。


地域にある教会。おそらく英国統治時代からの歴史があるのだろう。
この敷地内の学校におもにクリスチャンの避難民の方(ムスリムの方もいる)が避難生活をしている。
不自由な生活だと思うが、信仰を保っているからだろう、落ち込むようすはうかがえず、子どもたちは屈託がない。

動画:避難所に充てられている学校の教室にて


避難所になっている教室にて


イスラマバード・ジナースーパーで行われていた被災者への募金・物資受付所
後ろに写っているひとが「宗教に関係なく、私たちは人道的な行動をしないといけない」と力説。


夜、AARのみなさん、アシムさん、ソンさん、それにラホールから来られたAtif Raza アティフ・ラザさんと食事。みんな懐かしい友達ばかりだ。

リサルプールへ・救援物資調達・配布準備:2010年9月8日(水曜日)

朝食時に最終調整。今日、Risalpur リサルプールで最終調整し、あす朝、現地で1200ユニットの寝具類を配布予定。ソンさんがいろいろな調整をしてくださる。更にはアシムさんも4日の日に訪れた場所での障害者家庭への配布に際して調整役を買ってくださることに。
いろいろな方がいろいろなご縁の糸を結び、助け合い助けて救援活動を進めている。
そのことに深く深く感謝。アッラーに、ゴッドに、仏さまに感謝。

おそらく10日金曜日、もしくは11日土曜日が EID イードになる。
EID=イスラームのお正月の前に配れればグッドタイミングだ。

動画:Risalpur リサルプール(Nowshera ノウシェラ郡)のあるクリスチャンコロニーの被災状況

動画:Risalpur リサルプール(Nowshera ノウシェラ郡)のあるクリスチャンコロニーの被災状況

動画:Risalpur リサルプール(Nowshera ノウシェラ郡)のあるクリスチャンコロニーの被災状況

動画:Risalpur リサルプール(Nowshera ノウシェラ郡)のあるクリスチャンコロニーの被災状況

救援物資配布活動:2010年9月9日(木曜日)

8月23日の記事でご紹介した、友人の Khursheed Alam クルシードさんが身を寄せている Peshawar ペシャーワルから Nowshera ノウシェラまでわざわざ会いに来てくださった。
彼はこの一年間で、至近距離での自爆テロ被災経験、豪雨による土砂崩れに車が巻き込まれて九死に一生を得るなど壮絶な出来事があったが、お会いする限りでは5年前6年前の彼とは変わっておらず、お元気なままだった。
物資の配布途中だったので、短い時間しかお話できなかったが、彼がまたいろいろなことを乗り越えられて、障害者・社会的弱者のために活動されるためのサポートができればいいと思っている。

クルシードさん sadadir@yahoo.com の話:
私は、SADA(Special Abilities Development Association)の代表をしています。
しかし、この4~5年、政府軍とターリバーン・テロ組織との戦闘が住んでいたTimergara タイマールガラで激化し、当局の指示で活動を止めるようにという勧告を受けるほどでした。私が住んでいたタイマールガラはSwat Region スワート地方ですが、そこには多くの障害者がいて、ここ2~3年はそうした人たちを支援する活動をしてきました。

8月からの水害で最初に被害にあったスワート地方では多くの被害を受け、Mobile 携帯電話、一般電話などの通信インフラがまだ復旧していない状況です。

私たちSADAは、他の多様な団体とPWDs(Persons with disabilities:障害者)のために活動をしてきましたが、今まで有力なDonors 援助者、INGOs(International NGO 国際的な団体)を得ることができませんでした。

水害の前も Jang ジャング(戦い)のために大きな被害を受けましたが、この水害でさらに大きな被害を被っています。この地域の障害者たちは山岳部に住んでいる人も多く、水害後、インフラ・道路の破壊により多くの困難を被っています。

私たちSADAはそうした被災した障害者のために活動をしたいのです。


しかし、どういう問題がありのかわかりませんが、それを援助してくださる団体・機関はありません。

Swat スワートでは、HI(Handicap International 国際的なリハビリテーション機関)が活動していますが、私の本拠地のDir ディール地方では活動をしていません。

Nowshera ノウシェラ、Risalpur リサルプール、寝具を発注したお店(ラーワルピンディ)を回っていて、ホテルの自分の部屋に戻ってきたのは日付を超えた午前1時半だった。

06:30に朝食、07:00すぎに出発。
今日は順番に配布をしていく。2日間で何とか配布を終われますように。
やはり明日10日金曜日がイードの可能性が高い。正月が押し迫り、ピンディ・サダルは午前0時を回ってもすごい人出だった。

あまり寝る時間はなかったけれど、06:30に朝食。07:30前に宿舎を出発。
途中、Saaya Association サーヤ協会Muhammad Bilal Rao ビラールさんをピックアップする。若い彼は、ぜひとも今日お手伝いしたいと申し出てくださって。
道中、ヒンディ・パンジャービー・フンザの曲を聴いて盛り上がりながら、最初の配布地に向かう。

動画:支援物資の配布に際して気をつけたいこと(Nowshera ノウシェラにて)

動画: 支援物資の配布(Nowshera ノウシェラにて)

今回配布の対象になったクリスチャンの人たちは、行く先々の場所で事前に連絡を済ませていて、配布後速やかにそれぞれの家に物資を持って帰っていった。

どうにかこうにか、物資はNowshera ノウシェラ、Risalpur リサルプールに届けることが出来た。
イスラマバードに戻ったのは21時過ぎ。
ホテルはフンザの方が経営しているホテルで、注文するとフンザローカルの食事が出てくる。
みんなで舌づつみをうつ。

リサルプール~帰国へ:2010年9月10日(金曜日)

公式には明日11日土曜日が EID イードになったが、すでに街中は今日からイード気分。閉まっている店も多い。

朝、現地出発前に、AAR 難民を助ける会さんが宿泊されるホテルにAARの方をお訪ねする。
しばらくの間、お互いの活動の状況、連絡先等などの交換をさせていただく。
AARさんはこれからもこちらを拠点に活動を展開される。無事有意義なご活動ができますように。

昨日(9月9日木曜日)の日没で、KPK(カイバール・パフトゥンハー州)ではEID イード(断食月明けのお祭り)を迎えた。イスラマバードはまだイードを迎えていなかったが、多くの方が地方の故郷に帰っており、食料品店・ガソリンスタンドを除く大方の店はすでに閉まっていた。
道路も仕事・公用中の車はほとんどなく、ガランとしていた。

イスラマバードを出たときは夕立のような激しい雨が降っていたが、道中雨は止み、Nowshera ノウシェラに近づくに連れていつもの厳しい暑さが降り注いできた。

はじめに、クリスチャン病院に Dr Francis フランシス先生を訪ねる。先生と一緒に、近くのパシュトン人居住地域に行き、物資の配布を行う。
その途中に私とK事務局長さんは車で、UMMAHテント村に移動。
前日、世話役のInayat イナーヤットさんに託した30組の寝具類の配布状況を確認するためだ。


前日配りきれなかった残りの支援物資を該当する方々にお渡しする。
白い帽子はパシュトン人が夏季に好んで被る典型的な帽子。バングラデシュ製だった。

動画:テント村周辺の被災状況(2010年09月10日)

テント村はメイン道路沿いの高台にあるが、もともとは下の方に住んでいた。そちらのほうに歩いて行きながら、今回の水害は想像を超える規模で村むらを襲っていたことを改めて実感する。

さて、そのイナーヤットさん。とても仕事に誠実な方で、リストにあげられていた方には可能な限り配布をしてくださっていた。
彼はテント村から程近い場所に家があり、そこの寝室&倉庫のような場所に、配り終えていないマットレスや布団などを置いてくださっていた。

動画: 対象者以外で集まった人々に世話役のInayat イナーヤットさんが説明をする(2010年09月10日)

このテント村に配らせていただいているのは、障害者または老齢の未亡人など弱者の方30人。
ウルドゥ語で disabled 障害を表す معذور maazuur マーズールというのは原義が「免除された」つまり施しを受ける対象の人であるということ。

障害者以外にも社会的弱者である未亡人や老齢の人もその対象に入ってくる。日本人が考える障害者とパキスタンの人が捉える障害者のくくりが弱冠違うが、あくまで現地の方の考えを尊重することが第一だろう。

このテント村で調整役を買ってでてくださっている Mr.Inayat Ali イナーヤットさん(ウルドゥ語で「親切」という意味)に、このテント村の障害者(社会的弱者)の方たちがどのような困難に直面しているかお聞きしてみた。

動画: テント村の障害者たちが直面している問題を説明するイナーヤットさん(2010年09月10日金曜日)

インタビュー中たびたび出てくる「サル」という単語は、Sir サー(尊称)のインド訛りだ。

Mr.Inayat Ali イナーヤットさんの話
このテント村の障害者たちが直面する一番大きな問題は、住む家を失っていることです。
そのことにとても、 (Pareeshan パレーシャン) 困っています。しかし、それに対して政府な何もしてくれていません。
みんな、どうすれば家を建て直すことができるだろう?、そのことを考えています。
それで、私たちは今まで、(アシムさんたちSaayaのみなさんの協力で)Wheel Chairを提供させていただくことができましたし、マットレスや毛布なども今回提供していただくことができました。これからも必要なニーズに応じていろいろな支援をしていきたいと思います。

今回の水害によってこうしたテント村が数えきれないほどできた。
もしかしたら、僅かばかりだけれども、こうした支援が届いているのはラッキーなほうなのかも知れない。
これからしばらくしたら、AMDAさま http://amda.or.jp/ とご一緒に南部シンド州の被災地に入ることになる。
そこでは必要な支援が届いているのか、自分の足で歩き、見聞きしていきたいと思っている。

動画:テント村で正月を過ごす子どもたち。爆竹を鳴らして遊んでいる(2010年09月10日金曜日)

テント村はとてものんびりした雰囲気だった。

大人たちはテントや木陰でのんびり過ごしていて、はしゃぎまわっている子どもたちの歓声があちらこちらから聞こえてきていた。

全壊した家はさほどではないように感じるが、水に数日間浸かった家は多くががレンガ積み&漆喰またはモルタル仕上げの脆弱な構造のため、ひび割れ・亀裂が走っている家がとても多い。泥にまみれ、悪臭を放つ家を綺麗にし、電気配線などを修繕して住めるようになるまでに相当な手間をかけなければならないだろう。

そういう困難があるけれども、子どもたちの元気な声を聞くと正直ホッとする。

動画 リサルプール市内にて。水牛の一群をやりすごす(2010年09月10日金曜日)

動画: 鈴なりになって人々が乗るQINKQI(キンキ:乗合バイク)りサルプール市内にて

ドライバーのシャフーさんいわく、「EID イードを迎えると、みんなで連れ立ってピクニックに出かけたり、親戚の家に出かけるんだ、それでこれだけ人がいっぱい乗っているのさ」と。
それにしても、EID イード初日を迎えたRisalpur リサルプール市内では、どの乗合バス・車もこんな感じだった。まさに「鈴なり」。

動画: 鈴なりな「スズキ」(乗合自動車) リサルプール市内にて

こちらも同様に人で鈴なりになっている、スズキ製の小型トラックを改造した乗合バス。
窓から手を振ると陽気に手を振りかえしてくれる人が多かった。

水害後、しばらく雨がなく猛暑だったNowshera ノウシェラやRisalpur リサルプール。
風が吹くと土煙が舞うほどだ。
酷暑はテント生活には良い影響を与えないが、反面、マラリアを媒介する蚊の発生はある程度抑えられているように思われる。
ついひと月前の水害時、地域全体がすっかり水に使っていたとはとても信じがたい気持ちになる。
地震と違い、破壊の痕が分かりにくいことも、世界の関心をよびにくい理由のひとつになっているのだろうか。

ギリギリの時間でイスラマバードに到着。
荷造りをし、イスラマバード空港に着くと、しばらくしてベーグさんが日本のTV局の方と一緒に現れた。
ベーグさんは、自衛隊が派遣されているムルターンを中心に、TV局の取材クルーさんと一緒にあちらこちらを駆けまわっていらっしゃった。
パキスタン出国のギリギリのタイミングでまたお会いできたことをうれしく思いつつ。
またお会いできることを楽しみにしつつ、ベーグさん、シャフーさん、ソンさんとあいさつをかわす。
飛行機は定刻でイスラマバードを出発。大きな揺れもなくバンコク着。
ややしばらくトランジットしたのち、9月11日(土曜日)夕刻関西空港に到着した。

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