アフガニスタン・ペシャワール会職員拉致事件に思うこと。

>> Peshawar Kai Medical Service : ペシャワール会病院の見学
http://www.ktc-johnny.com/2005-01-16-peshawarkai.html (2005年01月16日)

2008年8月30日(土曜日)初出。
2008年9月5日(金曜日)文章を加筆削除しました。
2008年9月24日(水曜日)追記しました。

週明け。
アフガニスタンから飛び込んできたニュースに釘付けになった。

■アフガン邦人拉致事件:Yahooニュースより
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/world/afghanistan_ngo_case/

2008年8月26日(火曜日)、アフガニスタン東部ジャララバードで活動する非政府組織「ペシャワール会」の日本人ワーカーが、何者かに拉致された。
2008年8月27日(水曜日)、アフガニスタン国内で日本人男性らしい遺体を発見。
2008年8月28日(木曜日)、発見された遺体を拉致された日本人男性と確認。
2008年8月29日(金曜日)、亡くなられた日本人男性を偲ぶお別れの会が現地で行われる。ご遺体が日本に向けて出発。
2008年9月1日(月曜日)、故郷の静岡でご葬儀。


ペシャワールという地名は小学生のころから知っていた。
ソ連侵攻後、パキスタンへ逃れてきたアフガニスタン難民のキャンプがペシャワールという街にできたこと。
勉強嫌いだったから大口たたいているだけだったけれど、小学生のころ外交官になって難民とか大変な人たちを助けるんだ、そんなことを思っていたから、難民キャンプの様子がテレビで流れるとじっと見入っていた。

そして2003年春。
私は協力隊員としてパキスタンに派遣されることになり、長野・駒ヶ根訓練所に入所した。

そこで初めてペシャワール会の存在を知ったように思う。
語学講義の合間に観たテレビ番組の録画だったか、本で読んだか、任国講座という講義で現地在住だった方から話を聞いたか。
協力隊、JICA、国のODA事業とは一線を画した活動をされていること、私が小さいときから地名だけは知っていたペシャワールでずっと活動されていること、などなど。
現地に行く前だったから、国の事業と一線を画してといってもどう違うのかイメージは掴みにくかった。
ただ、素直にへぇ~一生懸命やっていらっしゃるんだなぁ、そういう印象だった。

駒ヶ根訓練所での79日間の訓練が終わって私がほかの6人の隊員さんとパキスタンに派遣されたのが2003年7月。
現地に着いてからは言葉の壁、異文化での生活、仕事での不慣れ、、、そんなことが一気に押し寄せてきて、あれよあれよと半年1年が過ぎていった。

パキスタンだけでなく、協力隊を派遣するにあたって、その地域で安全に活動できるかどうか、JICAサイドで慎重に判断をしている。
1995年にパキスタンへ協力隊員が派遣されはじめ、ペシャワールにも隊員が赴任したことがあったとお聞きしたが、印パ緊張、911事件、宗派間の衝突などいろいろな不安定要因があってだろう、私たちが赴任した2003年当時、ペシャワールを含む北西辺境州(N.W.F.P)のほとんどの地域では活動が見合わされていた。
そうした事情などいろいろな見地からだろうと思うがパキスタンでの活動地域はイスラマバード・ラホールなど大都市が主であり、国土の半分以上の地域への旅行も制限されていた。
だから、同じ国で活動をしてはいるけれど、ペシャワール会との接点がないまま赴任後1年あまりが過ぎていった。

派遣から1年が経ったころ、日本の友人からNHKでペシャワール会の特集番組があったことを知らされた。
もしかしたら、衛星放送で再放送が見られるかも・・・とJICA事務所に夜遅く行ってのホールにあったテレビの前で今か今かと待ったが、電波状態が悪かったか放送プログラムを見間違えてたかで見ることができなかった。
でも、とてもありがたかったことに、その友人が録画したテープをわざわざパキスタンまで送ってくださった。
しかも、日本とは映像の方式が違うので、パキスタンでの映像方式(PAL)に変換していただいて。

戦乱と干ばつの大地から~医師 中村哲 アフガニスタンの20年:NHK-ETV特集(2004年7月17日放送)
http://www.nhk.or.jp/etv21c/update/2004/0717.html

番組は、代表の中村哲さんが出演されていて、なぜペシャワール会を立ち上げたのか、そしてこれからどう進んでいくのかを豊富な映像資料をもとに紹介されていった。
自分がいまリアルタイムで活動しているパキスタンで見聞きし暮らしてきたのと同じ風土、顔立ちの人々の話だから、その映像の中に自分をオーバーラップさせやすかった。
医師としての医療活動にとどまらず、井戸掘りと用水路づくりに活動を発展させていく行動力、着眼力には驚くしかなかった。

一般的には、パキスタンのどこに住もうが、
”おっかない、怖い”
イメージがあるのではないだろうか。
確かに、身の回りの用心は日本よりも慎重になるが、それでも当時のイスラマバードはパキスタンの中では平穏なもの。
生活に慣れると夜遅くにバザール(市場)とかへ出かけて帰るってのもよくあったし。
コンビニと自動販売機と公衆トイレがないだけで、生活の苦労はそれほど感じない・・・・そういう風に当時思ったりしていた。
せっかくの異文化での2年間、いろいろなことを知りたいという気持ち。
それと、現地生活に慣れ、マンネリになることを避けようと思っていた気持ち、それがきっとあったのだ。
だから、協力隊では行くことのできない、住むことのできない地域で活動するペシャワール会にとても興味をもったのだと思う。

日本の友人から送っていただいたビデオは、街のビデオ屋でCDに焼き直してもらい、希望する隊員さんに見てもらったりした。
それだけではなく、ぜひペシャワールの本部病院を見たい、そういう気持ちが募っていった。
ペシャワール会の公式サイトを見て、現地訪問の手続きを確認し、ぜひ見学させていただきたい旨を連絡した。
そのころのペシャワールの情勢は比較的落ち着いていたこともあって、ペシャワール会事務局の方からもJICA事務所サイドからも訪問の許可をいただくことができた。
そして日程を調整し、活動中の隊員さんにも声をおかけしてペシャワール会現地病院(PMS)を訪れることができたのは帰国半年前の2005年1月のことだった。

Peshawar Kai Medical Service : ペシャワール会病院の見学(2005年1月16日)
http://www.ktc-johnny.com/2005-01-16-peshawarkai.html

熱心に働く日本人職員の方たち、一緒に働くパキスタン・アフガニスタン人スタッフにも熱心に仕事する方がいて、きちんとした組織運営がされている病院だと思った。
その場に中村哲さんはいらっしゃらなかったけれど、その中村さんのパキスタン・アフガニスタンにかける思いがスタッフに伝わっている、そういう志を場の雰囲気の中に感じたように思う。
思いがけず、日本人職員の方々のご好意で、当初予定になかった昼食会を持ってくださり、私たちも質問することができたし、職員の方のお話も食事をいただきながら伺うことができてとても有意義なひとときになったことは今も忘れない。

その後、私はこの病院を訪れることはできなかったけれど、帰国後もペシャワール会のサイトは見させてもらっていて現地報告などは読ませてもらっていた。
パキスタン政府が方針を改めて、アフガニスタン難民を全員帰国させることにし、その援助団体としてペシャワールでの活動を認められていた会が活動拠点をアフガニスタンに移さなければならないかもしれない、、、そうした情勢の変化も気になっていた。

そして、先の事件が起こるほんの数日前。
一緒にペシャワール会病院を訪れた協力隊OBの方が中村哲さんの講演会に参加し、その様子を知らせてくださっていた。
気にはなっていたけれど、日本の生活に忙しくしている中でどこか遠い世界のような気もし始めていた、そんな折りのメールだったから、まず始めに思ったのは「懐かしい」ということだった。

その数日を置かずの悲しい事件。
見聞きし住んだ場所とよく似た大地。
ニュース映像を見ながら、記事を読みながら自分を重ね合わせてみる。
・・・苦労は相当なものだったろう。
40度以上になる酷暑の大地。食事や習慣だって日本とは違うこと多すぎ。
働くといっても現地の人もピンキリ。
異文化の中で暮らせばいろいろな葛藤もストレスも愚癡もいっぱいあったはず。
だからパキスタンから帰国したとき、誰の目も気にすることなく自由に街中を歩ける開放感、生の刺身やお寿司、豚肉、お酒など美味しい食事を食べられる日本っていいなぁと思った。
でも、帰ってきて時間が経つと、うっとうしくさえ思ったかの国の人たちの、おせっかいやきなところや人なつっこいところが、今の日本が人間関係がだんだん希薄になっているように感じられるところと対比して「あれは良かったなぁ」と思い返してみたり。
パキスタンでの2年間、いろんな人の家にお呼ばれし、泊まりに行ったし、結婚式に呼んでいただいたりした。
裕福な家もあれば、慎ましい生活をする大家族の家もあった。
職場の同僚の家もあれば、旅先で仲良くなって泊まらせてもらった家もあった。
男性と女性では生活の仕方、人付き合いの仕方が異なるイスラームの社会ではあったし、中には日本人と付き合うことのメリットを計算しているかな?と感じるケースもあったけれど、いったんうち解けると家に呼ばれるわ、ごはんをいただくわ、他の家に遊びにいったとわかると逆に嫉妬されたりとか、家族同様の人づきあいをしてくれたと思う。

協力隊活動後帰国して10年にもなろうかという先輩隊員のことを忘れない職場の同僚たち、帰国してから何年経っても手紙やメールや電話で仲の良かった人と話をする帰国隊員の話は数限りない。
街角で写真など撮っていると、俺も写真撮ってくれといい、撮り終わるとそれで満足して去っていく見知らぬおじさんたち。子どもたちも写真大好きでみんなわぁっと周りに集まってくる。
写真をプリントしてあげるととても喜んでくれたものだった。

お亡くなりになった日本人ワーカーさんが体験されたこと、彼らに感じたことの幾分かは、私も経験してきていると思う。
そうであるから、
危険であることは承知しているけれども、何とかこの人たちのためになることをしたい
・・・と思われた気持ちは、私の限られた経験の中で考えてみても強く伝わってくるような気がしてならない。
事件が起こって数日。
錯綜し、限られたルートからしか情報は伝わってこないが、その日本人ワーカーさんが拉致されたと聞くや1000人もの現地住民が捜索・追跡を手伝ったということは、現地の人々の信頼の大きかったことを強く感じるニュースだった。

<アフガン拉致殺害>慕われた伊藤さん 住民千人が救出作戦
8月29日11時21分配信 毎日新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080829-00000036-mai-int
お亡くなりになったワーカーさんがアフガニスタンに渡られてから4年8ヶ月が経っていたという。
私がイスラマバードで活動していたころにアフガニスタンに来られ、そして今までずっと活動を続けておられたことになる。
その献身的な活動に敬意をささげ、心からそのご冥福をお祈りします。


さて、今回の出来事は、私が暮らし見聞きした場所に関わって起こったことだから、ショックも大きかった。
事件が起こる前は好意的に扱われていたペシャワール会が、この事件を機にバッシングされはじめていることに驚いている。

こうした風潮は、2004年のイラクでの日本人拉致事件以後、日本人の海外危険地域での渡航・活動に対して厳しい論調が目立つようになってからより強くなったように思う。。

イラク日本人人質事件(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%…

いまから15年前、カンボジアの平和維持活動に従事していた日本人国連ボランティアが銃撃されて死亡した事件があった。

1993年4月8日:中田厚仁さんがカンボジアで射殺された日(おもいッきりイイ!テレビ)
http://www.ntv.co.jp/omoii-tv/today/080408.html

学生をしていたころだが、大変痛ましい出来事でそれからもしばらくずっと忘れずにいたことを覚えている。
国連ボランティアとNGOワーカー。
働いた場所も、その危険度など実情に違いはあるけれど、その国に対して何かをしたいという志を持って渡っていったことは同じ。
でもそれを受け止める社会の雰囲気は変わってしまったようにも思える。
私が悲しく思うことは、事件に遭った人々を厳しく指弾する意見にそのまま反射的に反応して、徹底的に追い詰めるかのような風潮を感じることだ。
いつの世も変わらないことだと思うが、
いまは正義だ、まっとうだと思われていることが後年正反対の評価を受けることがあるし、
シロがシロとも言い切れないし、限りなくシロに近いクロもあれば、クロに近いクロもあるし、
単純に割り切れない世界。理不尽なこと、不条理なこともたくさんある世界だし、
「毀誉褒貶(きよほうへん)」、自分の人格を出して活動すればするほど、評価の声もバッシングの網もかぶるもんだし。

いつかパキスタン協力隊の先輩とお話をしているときに、昨今のきな臭いパキスタン情勢の話題が出た。
私 :「パキスタンもいろいろな事件があって、支援事業も大変ですよねぇ」、
先輩:「そういうところで右往左往しても始まらない。どんなことになっても支援を続けていくんだってハラでいるよ」
今回の事件を機に、改めて2004年に放映された番組を見直した。
—————————–
インタビューアーのNHKアナウンサーが尋ねる。
アナウンサー:
この20年間、一度も、もう疲れた、嫌になった、あきらめようかな、とそういう考えが浮かんだことははないんですか?
中村哲さん:
いやしょっちゅうありますね。
けど、ま、ここでひきさがっては男がすたる と、ま、ちょっとこれは語弊がありますが、
やはり、こんなことくらいで日本人がくじけておれるかという気持ちがあるのと、
まぁ自分がいなくなったらこの人たちは困るんじゃないか、と、思ってですね、ま、仕方がないけど、ま、ちょっとがんばるか
ということで月日が流れていったような気がしますね。
わかりやすい筋書きとしてはですね、
中村医師という立派な高潔なヒューマニストがいて、そこで忍耐強く粘り強くがんばってそれに感動した人々がそれに付いてくる、というのが話としてはわかりやすいんですよ。
ところが実態はそういうもんじゃなくて、
もうだめかな、という時に
いやーもうちょっとがんばってみるか、と、
このまま帰って行くのも、自分の恥がどうのこうのじゃなくて、こんなことくらいで日本の男がひきさがっちゃ、世の中つまらないよ、という気持ちと、
それと、残された人が困るんじゃないかという気持ちでですね、
ま、いわばかろうじてつないだ、ということはたくさんありますね。
—————————–
ペシャワール会では、日本人スタッフのアフガニスタン国外退去などの対策をとるとニュースなどで伝えられている。
これ以上の悲劇が出ないようにそうした対策は必要だ。
親よりも先に子どもが死んでいく不幸はない。
しかし、先のインタビューの中で中村さんが話されているように、このままでは放っておけない、そういう切実な気持ちで何度も挫折の危機がありながら続けてこられた活動であると思う。
国連もJICAも入るのが困難な場所で。
その事業は未だ途中。
現地の人を感染症から救う、飢えさせない、生活の基盤を作ろうという願いから始められた井戸掘りだし用水路建設だし農場整備だから、現地の人が望む限りこの事業が成就することを切に願っている。

【2008年9月24日(水曜日)追加】
今日、ペシャワール会から会報の号外が届いていた。
会報号外
その中の一部記事は以下のリンクで読むことができます。
追悼:現地ワーカ伊藤和也さん
http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/tsuitou.html
現地の人たちの話、ペシャワール会の方の話、どれも胸を打たれるものだった。
そして、お父さんの話を読ませていただいて、亡くなった伊藤和也さんを育てられたご両親・ご家族の懐の大きさを強く感じた。
—————————-
以下、
伊藤正之様挨拶より
http://www1a.biglobe.ne.jp/peshawar/inochi/inochi-r-ito1.htm
からの引用です。
現実に心配していたことが起きてしまいましたが、私たち家族は決して和也をかわいそう、気の毒など思っておりません。小さい時からやさしく他人思いの子で、妹・弟に対してもいつも自分は一番後でいいと言って何でも譲っていました。
(中略)
むしろ今回の事で改めて我が子がこんなにもたくましく成長していることに喜びさえ感じます。
(中略)
和也は新たに別の世界に旅立ちましたが、また大好きなアフガニスタンの地で心暖かな村の人達と一緒になって井戸を掘り、川を造り、作物を育て、子供たちと仲良く話をしていると思います。私たちは決してアフガニスタンを憎んでおりません。恨んでおりません。ほんの一部の人間によりこのようなことになりましたが和也も同じ気持ちだと思います。
(中略)
たまに帰ってまた出掛けるとき、いってらっしゃいと声をかけると、行くんじゃなくてアフガニスタンに帰るといって出ていきました。「アフガニスタンの夜空は星がキレイだよ」と言っていました。和也はアフガニスタンの星になりました。そして我家の大きく輝く星になりました。逢えなくなったことは寂しいですが、和也はアフガニスタンで生きております。
(中略)
今回の事で和也は私たちが無くしていたもの、忘れていたものを教えてくれました。思いやり・人の心の暖かさ・そして急ぐ事無くゆっくりでも少しずつ積み上げていく事の大切さ、道徳の心を。
—————————-
いま、次のステップを目指して語学やら何やらと準備をしているところだが、自分の生き方とかどういうこころざしをもっていきたいのか、そんなことを自分に問うていることがよくある。
協力隊から帰ってきてから、自分のうまくいったことよりも失敗したなと思うこと、忘れようとしている苦い思い出を思い返しながら、そこから学べること、優しさ・思いやりを持つこと、自分の使命感を押しつけず・さりとて自分を崩さず・でも相手の立場に身を置いて考えたり相手の考えや生活のペースを大事にできる度量や器を持つこと、そんなことを思う。
このお父さんのお話を読ませてもらって、改めて人にとって大切なものは何かを考えさせてもらっている。

この会報号外が届く前にも、ある報道記事にも私は大変胸を熱くし、やはり人にとって大切なものは何なのかを考えていた。

「瞬間瞬間を迷いなく生きた」伊藤さんの同僚が振り返る
YOMIURI ONLINE(読売新聞:2008年9月1日(月曜日)配信)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080831-OYT1T00731.htm
伊藤ワーカーさんとずっと一緒に働いていらっしゃった同僚ワーカーさんのインタビュー記事。
そのワーカーさんが、
”4年以上にわたる共同生活を振り返り、「大好きな村人のために瞬間瞬間を迷いなく生きたと思う」と語った。”
というくだりにとても強く心を動かされた。
仕事上での悩み、問題はきっと山積みだったに違いない。
それだけではない。日本に居てても十分わかるアフガンの治安悪化、それにペシャワール会を評する様々な声・・・。
そうした波に微動だにしない信念で仕事をされていた姿を、さきのワーカーさんのことばに私は強く感じる。
さきのお父さんの言葉にもあった「私たちは決してアフガニスタンを憎んでおりません。恨んでおりません。」というところ、ご本人もまったく同じ思いにちがいない。

アフガニスタンにとっても日本にとっても世界にとっても、有為な人材を失ってとても悲しく思うが、その生き方、姿勢を学べていることをとてもありがたいことだと思う。
参考:パキスタン略地図
http://www.ktc-johnny.com/pakjourneyindex.html

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